ボスニア紛争との共通点

 1992年のボスニア紛争で、加害者だったのは誰か?


 こう訊かれれば、ちょっと事情を知る人は「セルビア人」と答えるでしょう。

 私もそうでした。

 紛争当時は物心ついていませんでしたが、断片的に見聞きした情報から、そう思えていたからです。


 しかし、ボスニア紛争の現場を知っていた人からは、違うコメントが出てきます。


 当時のボスニアの人口は、主にボスニア人、セルビア人、クロアチア人で構成されていました。

 三つのグループのいずれも過半数を越えず、勢力が拮抗している状態。

 しかも、それぞれのグループは明確な地域的住みわけがなく、地図上にまだらに分布していました。

 圧倒的な勢力がなく、あらゆる場所で敵対する民族同士が隣りあって暮らしている。

 この状況ゆえに、ボスニア紛争は泥沼化したと言えます。


 ボスニア紛争は三つ巴の泥沼内戦であり、どのグループが悪役と名指しできる状況ではなかった。

 個々の地域で、そのとき優勢なグループによって劣勢なグループが迫害されていた、というのが現場の状況に近いと思われます。


 しかし、国連の議場から追放されたのはセルビア人であり、世界の記憶に悪役として刻まれたのもセルビア人でした。

 紛争当時、どうして「悪いセルビア人からボスニア人を助けるべし」との論調が形成されたのか?


 それは、当時のボスニア外相が雇ったPR会社の功績です。

 米国のPR企業、ルーダー・フィン社がボスニアの広報戦略を担当し、米国や世界の関心を惹くことに成功したためです。


 外相本人は、ハンサムだけどセクハラ気味だったそうですが、そんなことはおくびにも出さず、自国民のことだけを思う感動的な人物を演出。

 対照的に、セルビア人勢力がどれほど残酷であったか、「民族浄化(ethnic cleansing)」という単語を使って発信し続けました。

 詳しい内容は、講談社文庫『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』(高木徹)に記載されています。


 ルーダー・フィン社の働きにより、最初の記者会見に集まった記者たちのほとんどが、どこにあるかすら知らなかったボスニアという国に、支援を引き付けることに成功したのです。

 今回、ウクライナがゼレンスキー大統領の発信力に重きを置き、国際社会の支援を取り付けていることと重なります。


 ボスニアやウクライナの戦略を批判する気は、全くありません。

 どちらの国でも、危機に晒されている一般市民の方を救出することが急務で、そのために力を尽くしていたことに変わりはないからです。


 ただ、重大な任務を成し遂げようとするとき、広報戦略を明確に持って、巻き込みたい人々からどう見られるか、を意識することの重要性を実感します。

 それによって、どれだけの人を救えるかが変わってくるからです。


 マスメディアのみならずSNSを駆使し、国際社会に支援を訴えるだけでなく自国の人々を激励するウクライナ大統領には、きっと優秀なチームがついているのでしょう。

 これほど強いメッセージが効果的に発信されていなかったら、ウクライナの状況はもっと悪化していたかもしれません。

 国際支援が今ほどなかったかもしれないし、ウクライナ軍や市民の士気が保ちにくかったかもしれない。


 国や国民を救うために、大統領やそのチームが、あらゆる手を尽くしている。

 そう信じられることで、毎日を必死に生き延びている人々が少しでも力を得られていればと思います。

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