映画『モスクワは涙を信じない』

 ロシアは過去にこんなことしたという記事が続いているので(趣旨上しょうがない部分もありますが)、もう少し人間的な部分を紹介する記事も……と思い、ロシア映画を取り上げてみることにします。

 アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。

 2年ほど前、渋谷シネマヴェーラで開催されていたソビエト時代の映画特集で鑑賞しました。


 あらすじは下記の通り。


 1958年。モスクワの下宿で暮らすエカテリーナ(カーチャ)は、働きながら勉強を続けつつ、ルームメイトたちと夢を語り合う生活を送っていた。

 しかしある日、関係を持った男性ルドルフの子を妊娠してしまう。

 ルドルフに突き放されたカーチャは、仕事と勉強を続けながら子育てにも明け暮れる日々を過ごす。

 そして20年後、娘のアレクサンドラは美しく成長し、カーチャは大工場の工場長にまで出世していた。

 公私ともに上り調子のカーチャだったが、ある日ルドルフが再び現れ……


 以下は映画の内容に関するネタバレを含みます。



 タイトルを見て「いかにもおそロシアだな……」と思ったのは私だけではないのではないでしょうか。

 ロシアのことわざで、泣いているだけでは何もならない、という意味合いだそうです。

 しかし映画そのものは、観終わった後に温かい気持ちになれるから不思議なもの。


 若くして妊娠し未婚の母となり、その後は既婚者の不倫相手に甘んじ、とカーチャの人生はなかなかうまく行きません。

 ただ、映画のレビューで多くの人が書いているように、自業自得と言ってしまえばそれまでなのが辛いところ。

 ルドルフに対しては良家のお嬢さんと偽って仲良くなり、断り切れずうっかり関係を持ってしまい、という経緯が経緯なので。

 だからなのか、カーチャは友人たちに泣きついたりはせずに独りで涙を流す日々。


 しかし、人生の半ばでようやく出会えた恋人ゴーシャと離別の危機に陥ると、カーチャは女工時代の友人たちの前で悲しみを露わにします。

 この友人たち(リュドミラとアントニーナ)も、それぞれに全然違う人生を歩んでいるのですが、折にふれて集まっては素直な気持ちを吐露し合っているのが印象的です。

 女の友情はハムより薄いとか言われるけど、カーチャのピンチに集合して「何か行動しなきゃ! モスクワは涙を信じないわ!」と激励してくれる様子はシンプルに泣かせます。


 結局、アントニーナの夫ニコライがゴーシャのもとに行き、ぐでんぐでんになるまで一緒に飲んで、熱い説得(最早説得になってるんだかなってないんだか)をかまし、彼をカーチャの元へ連れ戻してくれます。

 8日ぶりに現れた彼に「待ったのよ」と声をかけるカーチャ。

「8日か」と尋ねる彼に、「もっと長い間」と返すカーチャの笑顔がラストシーン。



 カーチャを取り巻く女の友情も見どころですが、ゴーシャとの離別の危機に陥る理由が、実は何とも時代を感じるものです。

 カーチャが、ゴーシャと娘アレクサンドラと食事してきたところに突撃してきたルドルフは、彼女が大工場のボスで高給取りであると話してしまいます。

 それを知ったゴーシャは、カーチャが自分よりずっと優秀な職業人であることにショックを受け、男のプライドを喪失して音信不通になってしまう。


 仕事での地位の上下とかどうでもいいから彼に戻ってきてほしいカーチャが、友人たちに助けを求めて上記の結末になるわけなんです。

 現代だったら、「彼女より俺のが簡単な仕事してる……」とショックを受ける描写自体ができないと思われます。

「それの何がいけない?」と指摘されて炎上するのが現代ですから(現実にそういう悩みを抱えた男性がいるとしても、もうそれを許容する風潮ではなくなってきている)。

 でも、保育所や福利厚生などの施策が手厚く、女性の社会進出が進んでいた東側社会だからこそ、女性の活躍に対する男性側の受け止めは切実な問題だったのかもしれません。


 実際、子育てしながら勉強も続け、仕事で出世したカーチャの生き方は、果たして昔の西側社会で実現したかな?と思わされます。

 そういう意味では、ソビエト時代の女性の理想形だったのかもしれません。

 強くて先進的な彼女が、それゆえに先進的な悩みに直面する、という意味で当局的には「どこに出しても恥ずかしくない」映画だったのではないでしょうか。


 米国のレーガン大統領は、ゴルバチョフと対面する前にこの映画を観て、ソビエトの一般市民の考え方を理解しようとしたと言われています。

 確かに、下宿でのカーチャたちの楽しそうな毎日、もう少し年を取ってからダーチャで過ごす休日、ゴーシャたちと出かけるピクニックなど、様々な日常風景が描かれているのが印象的でした。

 ちょっとたっぷり描写されすぎて本編が長いので(140分ある)、ややもすると途中で眠くなってしまいますが……


 タイトルを聞いた時点では「ハードボイルドな諜報員ものだったりして」と思っていたのですが、いい意味で予想を裏切られた作品でした。

 おそロシアなストーリーではなく、鉄のカーテンの向こうで暮らしていたのは私たちと同じ普通の人々だったんだな、と思わされたからです。


 そういう気持ちは、戦争が起こっている今でも忘れてはいけないのですが、人間だからこそプロパガンダも信じてしまうことがあるし、情報が操作されていれば判断が歪められてしまうのも事実。

 ロシアが戦闘行為を止めるべきなのは論を待たないのですが、プーチン大統領を支持している人々が何を考えているか、その背景も分析することが必要なのではないかなと思います。

 独裁者のいる国でも、大多数は普通の人々であり、その人たちがどういう経緯でトップを支持するか、あるいは支持させられているのか、そういう視野を持てなければ自分たちもいつかは同じ間違いを犯す可能性があると感じるからです。

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