第四章 振り子

 山際に太陽が顔を出すと、雪原がラメを撒いたように輝き始めた。野ウサギの足跡が操車場の線路のように散らばっている、その上を針葉樹の葉みたいに見える小さな鳥の足跡がときどき横切っている。


 空を飛べる鳥が何で冷たい雪の上をこれほど歩くのか、こいつらを撮るならもっと習性を知らなきゃいけない、だが今更俺に勉強なんて出来るだろうか。白い雪面が日の光りを遠慮なく照り返す、サングラスの隙間が少し気になる。


 山岳カメラマンとクライミングカメラマンは世間の人には同じようなものに見えるらしい、だが実際はまったく別の仕事だ。確かに近所で仕事をすることはある、しかし例えば同じ会社に勤めていても経理と広報では求められるスキルが全然違うだろう、それに似ているかもしれない。無理にでも共通点を探すとしたら、どちらも体の酷使と実入りが釣り合わない事だろうか。だから俺みたいに両方を兼ねる奴は滅多にいない。


 腰が辛い、膝が痛む、肩も上がらない。これまでのような撮影はきっと早晩出来なくなる。だが俺も元はただの山屋だったのだ、岩もない、氷もない、そんななだらかな山でもあの頃の俺は幸せを感じていた。ここに来たかった本当の理由が……いまやっと分かった。


――そろそろ戻ってこないか?――


 そう問われているのだ、まだクライマーでもカメラマンでもなかったあの頃の自分に。


 白い息を吐きながら、ところどころ顔を出している木道を選んでたどっていると、目がかねになる風景を探している事に気が付いた。頭を左右に振って、気になったものに素直にレンズを向けてみる。だが三十年近くやってきた事を忘れるのは簡単ではないらしい、思ったようには撮れないまま雪原を何周かして、夕焼けに紅く染まった山々をカメラに収めたところで、今日の撮影を終えた。


 冬の夕暮れは惜しむ間さえ与えない、空は駆け足で光を失っていく。木道を歩いていると時おり肌を切るような冷たい風が頬に当たる、また長い夜がやってくる。


 山の上の雪原からは周りすべての空が見渡せる。他がすっかり暗くなったせいか、遠い西の空の残照だけがやたらと明るく見えて、そこだけ別の世界が口を開けているように見えた。


 子供の頃は朝が苦手だった、とにかく起きたくなくて毎朝ぎりぎりの時間までふとんの中に隠れていた。掛け布団と敷布団の隙間からあわただしい外の世界が見えているのに、ふとんに籠っていればそこに行かなくて済むとなぜか本気で信じていた。いつかあの残照の向こうから、ふとんをめくって誰かがこっちを覗きこむのかもしれない。そして言うのだ、「案外粘るな、お前ら。まだ絶滅してねーのか?」


 西の明かりが消えた。しかし振り返ると東の空にもう一つ別の世界があった。一瞬月かと思った、だが月はさっきから少し外れた山の上に浮いている。確か隣町の一六〇〇メートルほどの山に大きなスキー場がある、あれはその明かりだろう。だがあそこまで二十キロ以上はあるはずだ、そんな遠くのものがこんなにもはっきりと見えるのか、一二〇〇ミリぐらいの望遠レンズがあれば、滑ってる連中の姿まで見えそうだ。


 空を見上げると、とてつもない高さの天井に豆を撒いたように星がちりばめられていた。雪の上に寝転がると宇宙の果てまでだって見えそうだ。星々が一斉に降ってくる、びっくりして目をしばたたかせると、星はまたとてつもない高さに戻っていた。


「梓、元気か? 元気だよな、きっと」


 背中の冷たさが小屋に戻れと勧めた。戻って少し芯の残った乾燥食を食い終わった頃だった、また戸を叩く音がした。


 そうか、来たか――。


 爪も薄い、牙もない、裸じゃ何の武器も持たない人間が、この星にここまで蔓延はびこった最大の理由は、優れた環境適応能力だという。ようはどんな場所だろうと住めば慣れてしまうという事だ。人間ってのは自分の住む星を壊しかねないほどの馬鹿揃いだが、それでいて案外大したもんだとも思う。


 今度こそ「はいどうぞ」と言おうとしたら、「は」のところで戸が開いた。こいつらことごとく礼儀ってものを知らない、一度きつく叱りつけて……。


 ウッ!


 血の気が引いた、体の中に逃げ込もうと金玉が袋の中でもがいている。パンツから首筋まで寒気が上がってきたのは、ここへ来て初めての事だった。


 戸口に男が一人立っている、痩せ細って両手を出らんと前にたらし、髪はぼさぼさでシャツも汚れ、ズボンは裾がほとんど無くなるほど擦り切れて靴も履いていない。泥で汚れた擦り傷だらけの足は剥がれた爪が何枚か上を向いている。


 また死人には違いない、だがなんだこいつは? 遭難真っ最中って感じじゃないか。気温はマイナスなのに脂汗がこめかみを伝う。とっくに遅いかもしれないが、俺は奴の気を引かないようにヘッデンを消した。薄く開いたままの戸口から月明かりが僅かにさし込んでいる。


 これまでの連中は、まだ希望がある頃の姿でここを訪れていた、だがこいつは違う。頬がこけた青白い顔、限界まで見開かれた目はどこにも焦点を結んでいない。すべての希望を失った屍そのものだ。


 俺は男が前を通りすぎるのを息を殺して待った。男は小屋の奥の棚の前にひざまずいて、ごそごそと何かを探しているようだった。しばらくして振り向いた奴は、骨と皮だけのような手にロープを握っていた。


 こいつ、俺を絞め殺すつもりか!


 俺は背中が壁に引っ付くまでゆっくりと後ずさりした、そして必死に恐れていない顔を作った。男はゆっくりと俺の前を通り過ぎて戸の前まで戻った。男はしばらくゴソゴソとロープを弄っていた、そして一方の端を天井の梁に向かって投げると、落ちて来たロープを引っ張った。反対側に不格好にゆがんだロープの輪が吊りあがる。


 あれに俺の首を突っ込む気か、冗談じゃないぞ!


 風が吹いたのだろうか、戸が閉まった。真っ暗になった小屋になおロープを弄る音と、俺以外のかすかな息遣いが聞こえる。「うう、うう……」苦しそうな、それでいて興奮しているような、薄気味悪い呻き声が響く。


 俺は闇雲に床を手で探った、何かがある、有難い、三脚だ。この男がこの世の物に触れるのなら、俺だって奴に触れるはずだ。一度死んだ奴にこんなものが効くかはわからない、だが何もせずに殺される気はない。俺は手にした三脚を肩に乗せて、身構えた。


 パタ、パタ、パタ……。


 不自然に軽い足音、スキップに似た奇妙なリズム。


 来たか!


 片手でヘッデンのスイッチを入れて、小屋の隅に放り投げながら、俺は反対側に飛びのいた。

 殺られる前に、殺ってやる!


 カツッ、カツン。


 転がったヘッデンが小屋の中を薄く照らした、あの男は垂れたロープの輪を掴んで、そこに自分の首を入れようと、つま先立ちでぴょんぴょんと跳ねながらもがいていた。


「うわああああああ! この野郎ぉ! ふざけんなああああ!」


 俺は叫びながら突進した。そして片足で男の尻を思い切り蹴り飛ばした。


「ゔっ!」


 短い声がして、男は小屋の反対側の壁までもんどりうって吹っ飛んだ。蹴った本人もびっくりするぐらいの勢いで吹っ飛んだのに、脚には嘘のように軽い反動しか感じなかった。


「こっ、こんなところで首なんか吊んじゃねえ! めーわくだろうがあ!」


 頭に血が上って思い切り叫んでいた、首吊りの後始末がどれだけ大変か考えた事がないのか?


「死ぬんなら、どっか迷惑がかかんねぇところでやりやがれ!」


 そこまで言って、俺はやっと少し冷静さを取り戻した。そういえば、こいつはたぶんとっくに死んでいる。いまさら首を吊ったところで、死体は残らないんじゃ……?


 あ……こりゃ、殺られるな。


 慌てて身構えた、だが相手の男は吹っ飛んで逆さまになったまま股の間から目を丸くして俺の方をじっと見てる。口だけが池の鯉みたいにパクパクしているが声は出ない。歳は三十そこそこだろうか、最初の印象よりだいぶ若いようだ。よく見ると意外と可愛らしい目をしている。その様子と足に残ったあまりに軽すぎる感触が俺に確信させた。


 こいつ、すげぇ弱ぇ……。


 なら仕方がない、首吊りの訳ぐらいは聞いてやるか、そうすればさっさとおとなしく消えてくれるかもしれない。文句を言うようならまたシバけばいい。


「おいお前、こっち来て座れ」


「え? あ、僕……っすか?」


「お前だよお前、他に誰がいる? いいから、さっさと座りやがれ!」


 五分後Five minutes later……。


「じゃあ何か? お前の心残りは、死ねなかった事なのか?」


「あ、いえ、正確には”自分で”死ねなかった事です」


 向かいに座らせた男は肩を竦めながらそう答えた。


「ああそうか、死ぬには死んでるんだもんな、ははは。じゃあつまり何か? 首を吊ろうとして山に入ったら、吊る前に崖かどっかから落ちて死んじまったとかか? だっせーなぁ、それ」


「あーあー、そういう事言いますぅ? 言っちゃいますぅ? じゃあいいですよ、今から死にますから、死んじゃいますから!」


「だからもう死んでるって……」


 まあ男の悲惨な風体を見れば、誰だってだいたいそんなところだと思うだろう。それにしてもなんて間抜けな死に方だ。


「まあ確かに僕もだいたいそんなところだろうとは思うんですけどね、一瞬だったらしくて全然覚えてなくて。へっへ」


 ”へっへ”じゃねぇよ。


「まあ、それは仕方がないだろうよ。でも死ぬには死ねたわけだし、それで良くはないのか?」


 俺が思った事を言ってやると、男は突然眉を吊り上げてまくし立てた。


「冗談じゃないですよ、これじゃあ事故死じゃないですか! 僕はあくまで自分で死ぬつもりでここに来たんです、これは僕のアイデンティティにかかわる問題なんです!」


 ああ、こいつも面倒くせぇ奴だ、レギュラーコーヒーの二人と同じ匂いがする。


「お前のアルデンテなんて、閻魔様は気にゃあしねぇよ!」


「アイデンティティです」


 男は顔の前で人差し指を振りながら言った。俺は無言で三脚を振り上げた、もちろんぎりぎりで振り下ろしはしなかったが、男は両手を上げて怯えた顔をしている。俺はなんだかもう馬鹿馬鹿しくなって、今夜はたぶん、この男の相手で終わるな。と思った。


「そうか、女絡みか……ん? どうした、何かおかしいか?」


「いえすみません、ちょっと意外で。怒られると思ってました、『そんな事で死ぬんじゃねえ!』って」


「ああそうか。それはだな、俺も女では失敗してるから他人ひとのこたぁ言えた義理じゃねえんだ」


「ひょっとして……離婚とか?」


「まあな。簡単に言っちまえば、逃げられた」


「やっぱり」


 男がプッと笑う、三脚はどこだ……。


「でも僕よりはいいと思いますよ。僕たち婚約してたんです、僕が二十五歳、彼女は二十三歳の時に出会って、二年付き合って僕がプロポーズして、結局三年くらい付き合ったのかな」


 男はそこまで言って、しばらく下を向いて黙り込んだ。俺が舌先で酒を舐めると男は言った。


「彼女、処女だったんです」


「は?」


「付き合いはじめた頃、彼女、僕に処女だと言ったんです、結婚までは守りたいからって。だから僕たちはそういう関係にはなりませんでした」


「彼女さん、カトリックか何かか?」


「いえ、リケジョの無神論者で親はコテコテの仏教徒って聞きましたけど。それが何か?」


「お、お前、信じたのか? に、二十三歳の女に『あたし処女です』って言われて、ぷ、ぷは、ぷはは。す、素直に信じたと?」


「失礼ですね、僕だってそんなウブじゃありませんよ。はじめは疑ってたんです、彼女、結構可愛い娘だったから、そんなわけないだろうって半分諦めてたんです。僕の方だって曲がりなりにも童貞じゃなかったわけですからね、でも」


「でも?(『曲がりなり』って何だよ)」


「僕たち、その、それ以外の事は……いろいろといたしまして。彼女はその……入らなかったんです。指一本も」


「ああ、そういう事か」


「顔近づけてよく見てみたんですけど、なんか確かに『ちょっと無理かなー』って感じで。それで僕もたぶん間違いないと信じて」


「いいなぁ、それ」


「え?」


「いやなにも。でそれが何で?」


「裏切られたんです」


「だから何で?」


「浮気ですよ、彼女が。その彼女が、僕より先に、他の男と……」


「うっわぁ………………」


 それはきつい、酷すぎる。初めてこの男に心から同情した。最初から違ったのならともかく、三年も我慢させておいていくら何でも酷い裏切りだ。男はそこからしばらく黙っていた。男はその時の事を思い出したのか、ゴザに大きな涙の雫をぽたぽたと垂らした。


「憧れの人がいたんですよ彼女。大学時代の先輩で僕もそれは知っていた。でもそういう気持ちはもう無いって彼女は僕に言ったんです。なのに、なのに……」

「マリッジブルーとかいう奴……なのかな」本当にそんなものなのかどうか、俺にはわからない。だがそうでも言ってやらないと、こいつが不憫で仕方ない。


「じゃあ、それがバレたわけか」


「ええ、ちょっとした事で僕がおかしいなと思って。問いただしたら白状しました」


「やめときゃいいのに」


「え?」


「いや別に」


 バレなきゃいいってわけじゃない、だが大抵の奴には知ってしまったらもうどうにも無視できないって類の事がある。惚れちまったなら相手の秘め事なんて暴くもんじゃない、”知らぬが仏””見ぬもの清し”なんてことわざもある。


「なぜなんだ、どうしてなんだって問い詰めました。つらくて悲しくて納得できなかったんです。そしたら彼女、何て言ったと思います? 『あなたを今も愛しているし、悪いと思ってる。だけどやっぱり初めては、その人としたかった』なんて言うんですよ! そんなの、そんなのってあるかよ! だったら最初から気を持たせるなよ! うわああああ! うわあああああ!」


 男は狂ったように泣いた。あんなに軽い体なのに頑丈な木の床が凹むかと思うぐらいに、拳を何度も叩きつけて喚いた。俺はただ黙って見ているしかなかった、男は泣き喚きながら散々床を叩いたところで、疲れたようにぐったりと座り込んだ。


「つらかったんだな」俺は言った。


「意外です、『それが男が死ぬような事か?』って言われるかと思ってました」


「そう見えるか俺。すまんな、そんなこたぁないよ。お前……あんたはその女が本当に好きだった。だから三年も我慢したんだろう? ただヤリたいだけなら、他の女に乗り換えれば良かったんだからな」


「……はい」


「一人の女を三年間愛したんだ、幸せだった頃の思い出が思い出されて、忘れる事ができなかったんだろう? だが女を許す事はどうしてもできない、どうしようもないよな、その気持ちは。でもそんな気持ちになるのは自分が弱いせいだとか、愛が足りないんだって、あんたは自分を責めたんじゃないのか?」


 男は涙をいっぱい溜めたままの目で俺を見た。


「結局、僕には無理でした。たとえまだ彼女を愛していても、それだけは……どうしても無理でした」


「なあ、こうなってから言うのは俺もどうかと思うんだが、あんたは何も悪くないんだぞ。どうしても無理な事、受け入れられない事ってのは誰にでもある。たとえもし自分以外のすべての男が『そんな事は気にしない』と言ったとしても、どっかの女が『愛が足りない』とかぬかしたとしても、そんなのあんたには関係ない事だ。人はそれぞれ違う、あんたは悪くないんだ」


「案外優しいんですね、怖そうなのに」


「そんなのもう誰も言ってくれねえよ。でもまあ、ありがとうな」


 男はそのまま普段のデートや二人で行った旅行の事、遊園地での小さな喧嘩の事や、自分がどんなにその女を愛していたか、そしてその時をどんなに待ち遠しく思っていたか、夜寝る時になると、二人の将来を妄想してシーツをかぶって一人で笑い、会えない日は寂しさに泣き、その瞬間が来た時、心の底から湧きあがる愛をその女に誓うことを、どれほど楽しみにしていたか。そんな話を、間に「みっともないですよね」と何度も挟みながら、俺に静かに語った。


 俺はあいつと、梓と初めてそうなった時の事を思い出していた。梓はいい女だった、だから諦めていた、だがそうだった。あの時感じた理屈抜きで涙が出るような気持ち、あの素晴らしい瞬間を、この男は目前で奪われてしまった。それを知ってしまった時のこの男の落胆と絶望、深い悲しみを、俺は本当に理解できているのか自信がない。


「相手の男を、憎んだか?」


「最初の絶望が大きすぎて、怒りは後で湧いたかな。でもそれもその人へのものじゃなくて、だってそれを望んだのはその人じゃなくて彼女だったから、憎むのはお門違いですよね。だからその人への憎しみよりは、僕自身への絶望のほうがずっとずっと大きかった。結局は僕に魅力が無かったと思うしか無くて、そう思うと今でも死ぬほどつらい」


 愛する女が自ら望んで自分ではない男を初めての相手に選んだ。優しいこの男には罵倒する相手も殴る相手もいない、相手の男も自分を裏切った恋人も憎むことが出来ないこの男は、やり場のない憎しみを自分自身に向けるしかなかった。


「あんたは偉いよ、女を憎めない奴は、相手の男を憎んで逃げ場にしたりする。あんたはそういう奴らとは違うんだから」


「だって、可愛い女の子に迫られたら、あなたは断れますか?」


「正直、言いきれるほどの自信はねえな」


「僕だって。いや僕は断りましたけど、それでももし次があったとしたら自信はない」


「なんだおい、凄いなあんた、断った事があるのか!」


「ええ、彼女と付き合ってる時に。会社の後輩の娘でしたが、こんな事になるんならバレないように、あの娘とも付き合っておけばよかった」


「……そうだな」


 たぶん、あんたには出来なかったよ――。


 この男は大人だ。よほど酷い傷だって、やがては時が癒してくれることぐらい分かっている。だがこの男にはそれが絶望的な長さに思えた、傷はそれほど深かった。


「一つしか無い命を大切に」とか「女は星の数ほどいる」なんて、口で言うのは簡単だ。俺だってもったいないとは思う、だが軽い気持ちで自分の命を絶てる大人なんて、そうそういるもんじゃない。実際に何度か死にかけた俺には分かる、自らあの恐怖を越えられる度胸もエネルギーも俺には無い。この男はそれを自力で越えて、この世界との区切りにしたいのだ。こいつはもう死んだ、今更何を言っても手遅れだ、それなら……。


「じゃあ、もう一度きちんと自分で終わらせたいんだな?」


「ええ、自分の命は自分の意志で終わらせたい。この上最後が事故だったなんてやるせない」


「わかった、でもここではやめてくれ。ここは避難小屋だ、生きてるもんの命を繋ぐための場所だ。死体が残らないからって俺が見ちまったからには見過ごせない」


「すいません。なんだか吸い寄せられてしまって」


「他に無いのか? 言いたい事は」


「ええ、最後に気持ちを聞いてもらってすっきりしました。もう僕は死んでしまった、それは今更どうにもならない。ただ彼女に当てつけて死んだとは思われたくない、それで彼女が苦しむのも……本当はそれもいい気味だと初めは少し思ってましたけど、今はもうそんな気はないんです。だからこのまま誰にも見つからないほうがいい、静かに消えたいんです」


「そうか、じゃあ逝くか。今夜は天気もいいし、あんたがちゃんと消えるか俺が見届けてやる。あ? 気にすんな、死人を見送るのはわりと慣れてるんだ」


 男を連れて小屋を出た。真ん丸に近い明るい月がずいぶん高くまで登っていた。こいつらがここに来るのは、吹雪と関係しているのかと思っていたが、どうやら違っていたらしい。


 森を抜けて雪原に出た、風はほとんどない。雪原は見渡す限り青く輝いていた、まるで少し暗い程度の昼といった感覚だろうか、月を除けば空は暗いのに、立っている足元は昼間のように明るく、強い影は真夏の浜辺のようでもある。歩くのにもヘッデンはまったく必要なく、俺は雪原を横切って、山頂の西の端まで男を連れて行った。


「こっちなら登山道からも離れてる。どうせ俺しかいないが、もう一度死に直すなら静かな所がいいだろう?」


「助かります」


「助からねえよ、死んでんだから」


「あはは」


 雪原が急に落ち込む辺りから森が始まっている。森とは言っても低木が大半で高い木は僅かだが、その中に何本か使えそうな枝ぶりの木を見つけた。俺がその辺りを指さすと、男は一番太い枝のある一本を選んだ。


「じゃあ、ここをこう通してみろ」


 俺は男にロープの結び方を教えた。俺はこれまで自分や仲間を生かすために、そして時には、死んでしまった者を家族に引き合わせるためにロープを使ってきた。だからこんな事をするのは初めてだし、これが最後になるはずだ。


「ここを九回巻くと化けて出ないって言われてるそうだ、酒の肴用に覚えたネタだが、まさか実地で役に立つとは思わなかったよ」


 俺がそう言って笑って見せると、男は枝にロープを張りながら言った。


「そうですか、ありがたい。もうあなたに蹴っ飛ばされるのはごめんですよ。死んでるのに、殺されるかと思いましたから」


「ははは、そうか、悪かったな。俺もあんたのあの顔はたぶん一生忘れねぇよ」


 俺がそう言うと、男は振り返って照れたような笑顔で言った。


「誰かが僕を覚えていてくれると思うと嬉しいです。こんな人がいるんですね、残念だな、出会うのが遅かった。あなたの山岳会……ですか? 僕も入ってたら、今頃どうなってたんだろう」


 一瞬、男の顔に光るものが見えた気がした。俺は答えた。


「そうだな、生きてたとしても、嫁には逃げられただろうな」


 男は顔をくしゃくしゃにして笑った。


「じゃあ、逝きます」


「ああ、元気で……じゃねえな。安らかに、かな」


 もう一度生まれ変わった時は……なんて事は言わなかった。こいつはこの世界でとびきりつらい経験をした。もし神様がいるのなら、俺はこいつが二度とこんな世界に戻らなくていいようにと祈るだろう。


 男は背を向けて片手をあげて見せた。それから細い体で幹をよじ登って、垂らした輪の中に自分の首を入れた。


「さよなら」俺は小さくつぶやいた。


 男は体の力を抜いて、だらんと垂れ下がった。そして消えた。俺はその場に座って、月明かりの下で振り子のようにゆらゆらと揺れ続けるロープの輪を、しばらくの間じっと見つめていた。

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