第五章 パタゴニア

 昨日はカメラを小屋に置いて尾根続きの隣の山を往復した。小屋に戻ってカメラバッグに手をかけるまで、まるでパンツを穿き忘れたかのように落ち着かなかった。


 夜になっても小屋には誰も訪れなかった、あの男は上手く逝けたのだろう、そう思えるとほんの少し前の出来事がまるで数年前のように懐かしく感じられた。髭男にもあのカップルにも、いつか安らぎの時が訪れる事を願っている。いやカップルに限れば、もしかしたら永遠にあのままのほうが幸せなのかもしれないが。


 今日は昼まで小屋でゆっくりして、午後はカメラ一台とレンズ二本だけを持って雪原を周った。撮影の時に感じるいつも何かがのどにつかえているようなあの感覚が消えている、元を取るという意識を捨てると、見るものすべてが愛おしい。


 野山に咲く花の大半は、綺麗に見えても近づいてよく見ると花びらにシミがあったり、端が切れていたり、なにがしかの欠点があるものだ。俺たちは毎回その中から完璧なものを探し出す、おかげでシャッターを切る頃には最初に花を見つけた時の感動はすっかり消え失せている。


 売れる写真ばかりを追い続けていると、知らずに心がすり減っていく。そしてとりかえしがつない時が過ぎた頃になって、手持ちの感動の種がもう僅かしか残っていない事に気づいて、愕然とするのだ。それでも俺たちは写真を撮り続ける、食っていくために。


 背中が暖かい、冬の山では太陽の光りが飯や水と同じぐらい有難い。このまま老後までうまく乗り切れたなら、その時はこの山の麓の温泉場で暮らせないだろうか。花など一輪もない真っ白な雪原の真ん中で、白い息を吐きながら、俺は少しの間そんな事を考えていた。


 夕方、小屋に戻って炊きたての飯にレトルトのサンマを乗せて掻っ込んだ、明日には山を下りる、やっと残りの酒を飲み干せると一口目を舐めたその時だった。


 ガン! ガン! ガン! ガン!


 またかよ。冬の間、ここは連中の集会所にでも指定されているのだろうか。


 どうせまた返事を待たずに戸が開くんだろう。そう思って寝ころんだまま無視していたら、今日の奴はしつこくノックを続けてくる。まさか本当に生きてる奴かと思い始めた頃、外から馬鹿でかい声が聞こえた。


「先輩! 僕ですよ、いるんでしょう? いいですかあ、開けますよお! 一人で変な事してませんよねぇ? いいですかあ、入っちゃいますよお! 本当に入っちゃいますよお!」


 俺を知っているのか? だが高校生じゃあるまいし今どきの後輩は目上を先輩なんて呼びはしない。だいいち俺はもうずいぶん前から例会に出ていないから、今の会の若手なんてろくに知らない。

 だがこの声のデカさは岩場でコールをかけ慣れてる奴かもしれない、そうだとしても何で俺がここにいる事を知っている?


 ここは避難小屋だ、何者だろうが人の形をしていれば中に入れないわけにはいかない。俺は半ば投げやりに「はあい、どうぞぉ!」と怒鳴った。


 戸が開くと背が高くやせ型で手足の長い男が立っていた。ただこれまでの連中と違って、まともな冬山装備一式を身に着けている。いやまともとは言えないか、岩も氷も無い山なのに、ヘルメットからハーネス、登攀用具まで揃った見事な過剰装備ぶりだ。


 ヘルメットの色は黄色で顔を覆う目出し帽は黒、オーバージャケットは昔よく見かけたノースフェイスの黄色と黒のツートンで、パンツは当時のメーカーセットとは違う黒で合わせている。

 ロングスパッツは黄色、靴は俺が若い頃に流行ったプラスチックブーツ、色はこれも……蛍光っぽい黄色。ああ、こりゃコフラックのあれだ、俺も昔履いていたヒマラヤでもよく使われた七万いくらかの高いやつ……。


 古い記憶が次々に呼び起こされる、全身を黄と黒でまとめたこのコーディネートに俺は見覚えがあった、だがまさか……そんな事があるのか?


 俺たちは陰で奴を「うちの会のベストドレッサー」と呼んでいた。赤いパンツに青いジャケットを着て、緑のザックを背負いながら黄色いヘルメットを平気で被れた俺たちの中で、奴だけは色の組み合わせを考えてウェアを選んでいた。


 人より体力に恵まれた奴には厄介なところがある、その過信が技術の習得や山勘を疎かにさせる場合があるのだ。そうなるとただの体力馬鹿でラッセルと歩荷ぐらいしか役に立たない。ただそれだけならまだいい、もしこの手が人の上に立つと肥大した自尊心と山勘の鈍さがパーティを危険にさらす事さえある。


 だが奴は違った。高度な登山に必要なすべてのものを吸収するために、名門大学山岳部の出身でありながら迷いもせず社会人山岳会の門を叩いた。だが体育会のノリだけはいつまでも抜けずに、結局俺を最後まで先輩と呼び続けた。


 奴が入会してきたのは俺がまだ中堅会員の頃だった。その男、壬生みぶ省吾は当時の名のある大学山岳部出身者の伝統にのっとって体力は抜群だったがクライミングは素人同然だった。”レギュラーコーヒーの男”第一号だ。


 高校時代に入会した俺は会では奴より九期上だが歳は五つしか違わない、おかげで俺たちはよくパーティを組んだ。俺にとって大学の体育会で鍛えた省吾の体力は魅力だった、雪山では先輩の権限で奴に先頭でラッセルをさせて自分は楽をした、その代わり難しいクライミングルートでは俺がトップを引いた。はじめの頃、俺たちは互いの欠点を補う良きパートナーだった。

 だが省吾が入会して二年が過ぎた頃、奴はクライミングでも力をつけ、冬の黒部周辺でクライミングと縦走を組み合わせた目を見張るような記録を作った。


 世界有数の豪雪地帯での登山の難しさはその頃世界にはまだよく知られていなかった、今なら国際的にも高く評価されたはずの記録だ。俺はそのとき師匠のお供で南アルプスに入っていて同行できなかった。


 数年後、俺は省吾から南米パタゴニアへの遠征計画に誘われたが迷った末に断った。すると省吾はなぜか他のパートナーを探さずに「ソロでやります」と言い切った。

 俺にはわかった、奴は初めからソロでやるつもりだったのだ。だが当時はあまりにも野心的すぎたそのプランを口に出すには、奴ですら何かきっかけが必要だったのだと思う。

 奴は俺が断るのを分かっていて誘った。理由はきっかけが欲しかったのと、浮世の義理というやつだ。それほどその時、俺たちの実力には差がついていた。


 それからの省吾は当時の最先端に迫るフリークライミングルートを何本か墜とし、アルパインルートでは無雪期にいくつもの単独登攀を、冬には三本の冬季単独初登攀を成功させた。そして遠征予定の直前には前哨戦として、谷川岳一ノ倉沢の最奥部にある”名無しルンゼ”の冬季単独初登攀に挑んだ。


 名無しルンゼは元は本当に名前が無かった、だがいつの頃からかクライマーの間で”名無し”が通り名になり、今では誰もがそれを名前として使っている。

 険悪な峡谷に浸食によって刻まれた深いルンゼは雪のない時期ならさほど難しくもない沢登りに近いルートだが、冬になると長く不安定な雪壁の間に傾斜のある氷壁と岩壁を三つ挟む厳しいルートになる。そして何より上部に降り積もったこの地方特有の大雪が漏斗状に集められ、大雪崩となってルートに落ちてくる。


 冬季初登は昭和三十年代と意外に古い、だがその時は当時の精鋭パーティ三人のうち二人が雪崩で死んだ。残された一人はロープを流され確保手段もないまま登り続け初登に成功したが、それは成功のためではなく純粋に生きて帰るための闘いだった。

 冬季第二登はそれから実に三十年を経てからになる、海外からそれまでより桁違いに早く登れる革新的なアイスクライミング技術がもたらされたからだ。だがその技術をもってしても雪崩を完全に避ける事は出来ず、一人が骨折の重傷を負いながらパーティは九死に一生を得た。それ以後、ここを冬に登った者はいない。


 雪崩の危険が高い壁を登る時、最も重要なのはスピードだ。雪崩と雪崩の合間の短い時間を狙って一気に登りきる。そんなイメージだろうか。


 極限までクライミングのスピードを上げるにはロープが邪魔になる。ロープでの確保を省けば、無駄な待ち時間と登攀装備がいらなくなる、短時間で登りきる事が前提なら余分な食料やビバーク用具も必要ない、荷物は飛躍的に軽くなり、クライマーは身体能力の限界までスピードを上げる事ができる。ただその代償も大きく、たった一度のミスが人生を終わらせる。


 ロープを使わないアルパインクライミングには、絶対に落ちない高度なフリークライミング技術と、休まずに登り続けられる長距離ランナーの体力が必要だ。さらに確保がない恐怖と孤独に打ち勝つ極限の精神力が伴わなければ成功はおぼつかない。


 当時、海外の一流クライマーは、このスタイルでヒマラヤの巨峰の壁さえ墜とし始めていた。それまでは無謀と考えられていたスタイルでも、クライマーが自らを鍛え上げることで危険を可能な限り少なくして大きな成果を得られる事を、連中は身をもって証明していた。


 省吾は自分にもそれが出来ると確信したのだろう、国内やパタゴニアで成果を上げた後は、ヒマラヤの巨峰にも足を延ばすつもりではなかったか。確かにあの頃の省吾は、俺が知る限りそれが出来る可能性を持った、ごく限られた日本人の一人だった。


 だがあの日、俺は奴の遺体を収容した。恐れていた大雪崩ではなく気まぐれのように発生したスノーシャワーが、驚異的なスピードでルート最後の核心部を抜けようとしていた省吾の体を、氷壁から引き剥がした。

 対岸のルートから事故を目撃して知らせてくれた知り合いは、省吾がそこに差し掛かる時間が二、三分もずれていれば、おそらく何事もなくやり過ごせていただろうと俺に耳打ちした。


 岩と氷の壁を数百メートル転がり落ちた遺体には鼻と耳が無かった。体の他の部分もいくつか見当たらず、生気が抜けて重く感じるはずの遺体が人一人とは思えないほど軽かった。

 俺は所属山岳会のチーフリーダーとして、灰になった骨を奴の母親と一緒に拾った。箸に感じた感触や骨の重さを俺は今でも思い出せる。それなのにそいつがいま目の前にいる。


「先輩、酷いじゃないですか、いるなら返事してくださいよ」


 省吾が黒い目出し帽を脱ぎながら言う、出てきた顔はあの頃のままだ。もちろん鼻も耳もある。


「あ、ああ、すまねえ。なんかここんとこ、変な奴ばっかり来てたもんでな」


「他にも誰か来たんすか?」


「ああ、お前と同じだ。知らん奴らだったけどな。だがまさかお前まで来るとはな」


 省吾は今までの連中とは違う、今の自分の立場をよく分かっている。俺はそう感じた。


「そうですか。確かにここ、なんだか引っ張られちゃうみたいなんですよね」


 省吾はそう言いながらザックを降ろし、体中の装備を外した。数個のカラビナとハーケン、ぶら下げて歩くときの音から”ガチャ”と呼ばれる金属たちが、騒々しい音を立てて床に落ちた。だが目の前で発したはずのその音が、俺にはなぜかずっと遠くから響いているような気がした。省吾は俺の向かいに座った。


「ご迷惑を、おかけしました」


 省吾は座るなりそう言って深々と頭を下げた。


「気にすんな、お互い様だろ。お前がやられたのを別のルートから見てた人がいてな、すぐに知らせてくれたんだ。お前もすっぱり取付きまで落ちてくれたから収容は案外楽だったぞ、全部ウチだけで済んだから金もかからなかったしな。みんなすぐに集まってくれたよ、あの頃は生きのいいのが揃ってたな」


「またそんな事言って、あそこ雪崩の巣ですよ、いくら下まで落ちたからってそんなに楽だったはずないですよ。『埋められる前に』って急いでくれたんでしょ?」


「いや、そりゃまあ……」


「でもみんなに何もなくて良かった、知らせてくれた人にもお礼を言いたいなぁ」


「ええっと……ああ、ザキさんだよ。昇竜登行会の崎谷さん、知ってるだろ? でもやめとけ、お前に枕元に立たれたらあの人心臓止まっちまうよ、確かもう七十ぐらいのはずだから」


「そうか、そうですよね。でも先輩はさすがに図太いですね、幽霊の僕を見ても平然としてますもんねぇ。覚えてます? 滝谷でビバークしたとき、でっかい落石がすぐ脇を落ちてったのに、先輩隣りで漫画読んでたもんなぁ。僕、漫画本持って壁登った人って他に知りませんよ、エロ本ならともかく」


「ああ、あれか。出たてほやほやの最新刊だったんだ」


「それ関係あります? ベースキャンプにレギュラーコーヒー持ってきただけで、散々文句たれた人の台詞とは思えませんね」


「何言ってんだ、そっちは鉄の塊だろ。あの何だっけか? パコパコ、パーコ」


「パーコレーター、だいたい僕のはアルミですよアルミ。紙だって一冊なら結構重いでしょ? それを壁の中まで持って上がりますかね、エロ本ならともかく」


「だって下りが別ルートじゃ仕方ねえだろ、下に置いとけねえんだから」


「じゃなくて帰り路で買えば……」


「だって途中の駅の本屋で発売日前のを見つけたんだぞ? どう考えたってめぐり合わせだろ。あの日死んだら一生読めないって思ったら普通は買う」


「普通はそんな事考えませんよ」


「そうか? ああそうか、俺たちが変なのか。はは、ははは」


「一緒にしないでください、あはははは」


「あはは、そうかそうか、俺たちが変なのかぁ、そうかそうか」


「だから一緒にしないでくださいって、あの時先輩は『音でわかるだろ、当たんねえよ』って言ってたけど、今でも思い出すんですけど、あの落石すごく近くを通ったんですよ、風圧でツェルトが揺れたんすから」


「そうだっけか」


「そうですよ。その夜、僕は本気でビビッて寝付けなかったのに、先輩は隣でこう座ってグーグーだから『この人は凄いのか、特別鈍いのかどっちなんだろう?』って、しばらく考え込んだくらいですよ」


「前半はともかく後半はなんだよ。だいたい気づいたところで、あの狭いテラスじゃどうにもならなかっただろ? じたばたしたって仕方ねーじゃねーか」


「そう言われりゃそうですけど、気持ちってもんがあるでしょう」


「気持ちでどうにかなるんなら死ぬ奴ぁいねぇだろ、おめぇは幽霊になってもセンサイだよな、だっはっは」


「先輩こそちっとも変わらないですよ、ガサツなままで。あっはっは」


 省吾とこうして笑うのは二十年ぶりだろうか、会話の不毛さは何も変わっていない。だがあの頃とは違う事もある、省吾だけが若々しいままで俺は五十を越えたオヤジになっていることだ。端から見たら兄弟みたいに見えていただろう俺たちが、今はたぶん親子みたいに見えるんだろう。もっとも今のこいつが他の奴に見えるのならだが。


「先輩、もうクライミングはやらないんですか」


「ああ、指も腰もダメだ、おまけに気力もないときたもんだ。最近はジムでボルダリングをやる程度だ、外岩そといわはもうたまにしかいかねえよ、仕事以外じゃな」


「なんだ、やめてないじゃないですか」


「まあなんて言うかな、長年のならいっていうか、”雄犬のションベン”ってとこだな、フラフラの爺さんになっても、つい片足をあげちまう」


「あはは、酷い例えだ。全然変わってない」


「身体に染みついたもんは簡単には抜けねえんだよ。それにな、ボルダリングも今さらだけどおもしれえんだ。外岩だと最後は岩の上に立つだろう? あれって山と同じなんだよな、頂上があるんだ。俺、昔あんまり頂上にこだわんなかっただろう? だからこんな当たり前の事に長々と気づかなかったんだな。もう結構前だが四、五年トライしてたのが登れたときは、いい歳こいて岩の上でガキみたいに絶叫したよ。山はデカさじゃねえんだって、あん時本当に分かった気がした」


「ああ、それわかります、僕も結構やってましたからね」


「お前熱心だったもんな、山やってた連中で真面目にフリークライミングやってた奴はまだ少なかったからなぁ。結局それが後で差になった。俺ももっと早く気づけばよかったと思うよ、本気になるのが遅すぎた」


「そんなことないですよ、僕はただ岩登りがみんなより下手だったから、早く上手くなりたくてフリーもやってみたってだけで、それが重要な事だったなんて、はじめは全然わかってませんでしたから」


「でもおかげで、ちょっとした有名人になれたじゃねえか」


「最後は落ちちゃいましたけどね」


「そうだ知ってるか? 訃報が載ったんだぞ、”雪と岩”に」


「うっわぁー、みっともない!」


「何言ってんだ名誉だろ。俺なんか死んだって載らねえよ、たぶん」


「先輩は載るでしょ、そこで仕事してたわけだし」


「まあ、お情けならな。お前みたいにクライマーとしてじゃない」


 スキットルを咥える。省吾にも勧めようかと思ったが、こいつは山では飲まない奴だった事を思い出してやめた。


「コーヒー飲むか?」


「インスタントでしょ? 絶対嫌です」


「変わんねぇなあ。なあお前、何でまだこっちにいるんだ? あれからこっちで何年経ってるか知ってんだろう?」


「今の先輩を見たら嫌でもわかりますよ。何ですかそのぶよぶよの腹は」


「うるせぇ!」


「でも僕も不思議なんですよ、特に未練を残したつもりはないのに、気が付いたらこんな調子で」


「女じゃねぇのか?」


「違いますね。あの頃はちょうどいなかったから」


「そういや、通夜や葬式にも若い女はあんまりいなかったな」


「そうでしたっけ、自分では結構モテると思ってたんだけどなぁ。って先輩さりげなく、死者に鞭打ってませんか?」


「まあ、俺らみたいなむさくるしい男ばっかり、目立ちすぎただけかもしれん」


「そうですよきっと。でもまあいいですけどね、実は僕も男のほうが好きだったし」


「おい、まじか!」


「嘘ですよ」


「めんどくせぇな、この幽霊」


「ああ、でも未練と言えば、やっぱり山かな」そう言うと省吾は目を伏せた。


「山って……パタゴニアか?」


「そうですね、行きたかったですね、あれは」


「ヒマラヤはどうだ?」


「うーん、考えてなかったと言うと嘘でしょうけど、どっちかと言うとオマケですね、そっちは。あの頃はとにかくギリギリに難しい壁をソロでやりたかったですからね、『やあやあ我こそは……』ってあれですよ、山と僕の一対一の果し合い。もちろん世間的にはヒマラヤの方がインパクトがあるから、登れそうなところを登っとけば売名にはなったんだろうけど、そんなの嫌でしょ? かと言ってマカルー西壁みたいに……あ、先輩、あれ今どうなりました?」


「あれはまだだ、誰も登れてない。当面は無理だろう」


「そうですか、やっぱりなぁ。だからそんな所となると、僕だけではまだ全然だったと思うし。それより僕にはやっぱりパタゴニアが魅力でしたね、あのとんがってぶっ立った壁の純粋な美しさと難しさ、さらに寒気と厳しい風。どうです? 僕もクライマーっぽくなったでしょう」


「行けねえのか? その体……では」


「それがどうも、自分では生きてた頃に行った事あるところにしか、行けないみたいなんですよ」


「そりゃあ残念だな、じゃあここにも来たことがあんのか?」


「それが無いんです。たぶん知り合いがいるところにはんだと思います、今までもそういう事、何度かありましたから」


「じゃあ、もしかして今までも、俺のところに来てたのか?」


「これで四、五回目ですかね。今日はずいぶん久しぶりですよ、こっちの時間でたぶん五年ぐらいは経ってると思います。こういう時ってなんていうかその、気づいたらそこに来てるって感じで、時間も間が抜けていたりするんです。次に気が付いたら前から二、三か月後とか、ざらにあります」


「なんだか面倒だな、幽霊ってのも」


「想像してたより自由じゃないですね、かと言ってそれが気にもならないんです、欲が無いって言うんですかね、普通こんなんなったら女湯覗きたくなるとか思うでしょ? ところが全然そんな気にならない。このままでも十分安らかですよ、もう一度死ぬ事は無いって安心感もあるし。ただたぶん僕たちみたいな奴にはそれも痛しかゆしって言うか……なんかこう、生きてる実感がなくて」


「あたりめーだろ、死んでんだから!」


 男二人の馬鹿笑いが小屋を揺らす。しばらく話が途切れた、いつの間にかずいぶん風が吹いている、音が重いから外は吹雪なんだろう。だいぶ積もっているだろうが高床のこの小屋なら気にする事はない。


「先輩、僕いたんですよ。小杉がやられた時に」


 省吾がふいにつぶやいた。小杉は省吾が死んで三年ほど後に穂高で亡くなった、二人目のレギュラーコーヒーの男だ。省吾の一期後輩で歳は二つ下、一癖も二癖もある周りの山屋連中と比べると、小杉は省吾以上に毛並みの良いお坊ちゃんだった。それで気が合ったのか、省吾は小杉をずいぶんと可愛がっていた。


「そうか」俺はそれ以上言葉が見つからなかった、省吾は続けた。


「よく、先に死んだ奴が守ってくれるみたいな事、言う人がいるじゃないですか。あんなの嘘ですよ、僕は何もできなかったですから」


「そうか」


「上から岩が落ちてくるのが見えたから、必死にあいつに知らせようとしたんですよ、叫んで。あいつは少し遅れて岩の音に気付いたみたいでした。でもあんなのが真上に落ちてきたら避けようがないですよね」


「そうだな」


 見たわけじゃない、だが小杉の遺体には頭が無かった。下まで降りて探したが見つからなかった。遺族にどう言って遺体と会わせたか、うまく思い出せない。


「あいつは体から抜け出た後、僕に気付いたようでした。こっちを向いて例のガキっぽい顔でニッと笑って、すぐに上のほうに浮いていって消えました。羽も何も生えてないのに不思議だったな」


「そうか、見ちまったのか」


「ええ、見ました。ちゃんとすぐに消えましたよ。なのに僕は何でまだこっちにいるんでしょうね? 先輩」


「俺に出来る事はないか?」何も出来ない事はわかっていた、だが言わずにいられない。


「無いですね、何も」


「らしいな」


 少しでも可能性があると思った未来には全力で喰らいつく、だがかなわないと分かっているような大それた夢は追わない。天才と言われるような才能を持ちながら地道と言えば地道な、壬生省吾は生きていた頃と何も変わらない。


「僕、たぶんそろそろ消えますよ」


「そうなのか?」


「なんとなくわかるんです。先輩、明日の朝下りるんですよね? なら寝てください。たぶん寝てる間に消えてますから」


「ああ、わかった。また、会えるのかな?」


「わかりませんね。でも本当は会えない方がいいと思ってるんじゃないですか?」


「まあな。いつまでもこっちにいるのが、お前にいい事なのか、俺にはわかんねぇから」


「先輩らしいな。一見ガサツで横柄なのに、他人に気を使いすぎですよ」


「その言葉、出てった嫁にも聞かせたいよ」


「えっ、梓ちゃん、出てっちゃったんですか!」


「そうか、五年ぶりじゃあ知らねえか。そうだよ、二年前に子連れで出て行った。まあ俺はどう考えたっていい旦那でも親でもなかったからな、家も子育てもあいつにまかせっきりで、たまに帰っても子供からは知らないおじさん扱いだった。稼ぎも少ねえのにさんざん好き勝手やってたわけだから、自業自得ってやつだ」


「あんないい娘を、もったいないですね」


「ああ、そうだな、いい女だった」


「フリークライミングやらせたら上手かったよなあ、彼女。ハイキング志向で入ってきたのに、一応フリーもやらせたらすぐに上手くなって。あれにはびっくりしたなあ」


「そういやお前、『体が軽いっていいですよね』って、しょっちゅう俺に愚痴ってたもんな」


「みんな言ってましたよ。そうじゃないと、自分がそれまでクライミングに打ち込んだ努力や時間が馬鹿馬鹿しくなってくるじゃないですか。内海なんて、梓ちゃんに一年目であっさり抜かされて、山スキー専門になっちゃったんですよ」


「ああ、あれやっぱそうだったのか、悪い事したな。って言うか奴の場合はたぶん向き不向きってやつだ、早めに足洗って正解だったんだ」


「そういえば梓ちゃんて、あの頃女性会員で一人だけ、ぴったりタイツ履いてたじゃないですか。あの頃はもうクライマーにもダボダボのスケボーみたいなパンツが流行りだしてたのに。元旦那の前で何ですけど、僕ら若手はあれを下から見上げるのが楽しみで彼女のビレイしたがってたの知ってました?」


「ああ、知ってる。でも悪いな、実はあれなぁ……俺が履かせたんだ」


「え?」


「俺が会に入った頃のフリーって言えばまだあれでな。だから、はじめにあいつに何着て来ればいいかって聞かれたとき、あれしか思いつかなかったんだ。そしたらよぉ、やたらいいケツしてるじゃねえか! そんでまぁその、そういう仲になってからはな……中にTバックなんか穿かせたりしてだな、その……あれ尻に張り付いて、たまんなかったろ?」


「なんてこった。じゃあずいぶん最初の頃からって事ですか?」


「ああ、お前らがあんまり盛り上がるんでしばらく黙ってたが、本当は梓が入会して半年もしないうちに手を付けた。俺も一応まだ若かったからなぁ、さらに十歳も若くていい女が自分の彼女になったと思ったら、本当に馬鹿な話だが有頂天になってたんだな。そんで『お前らが欲しがってる女は、俺のものだ』って、自慢したかったんだろうな。それにあいつ、嫌がってたくせにあの恰好させた後はやっぱり燃えるんだ。そんでつい……なんか今考えると俺、すげえ酷ぇ奴か」


 省吾が「しょうがねえなあ」って感じのジェスチャーをして見せる。


「これでも少しは悪いと思ってたんだぞ。でもな、正直言うと、あの時はどうしても自慢したかったんだ。クライミングじゃもうお前らにはかなわなかったけどな、この女だけは絶対に俺のもんだってな。

 お前だから正直に言っちまうが、俺ははじめから梓に夢中だったんだ。あんないい女、他にはいない。梓さえ手に入れば、お前らにちょっとぐらいクライミングで負けても悔しくないって思えたんだよ。そんなこたぁ初めてだった、あんだけ負けたくなかったのにな。そんくらい……愛してたんだ、こんなの生きてる奴の前じゃ言えねぇ」


 そうだ、あの日家を出ていく梓にだって、俺は言えなかった。


「あの時の僕だったら……そうですね、たぶんクライミングを選んだんでしょうね。そうか、そこが違ったのか」省吾はそう噛みしめるように言った。


「それにしても先輩、人が悪いですよ。僕なんかそんな事知らずに、あの頃、彼女のお尻にはずいぶんお世話になったんですから。まさかそれが先輩の策略だったなんて……」


「そうか! お前俺の女でヤッたか! お前みたいな色男が。そりゃあ痛快だ、俺も男冥利に尽きるってな!」


「僕も今だから言うんですよ、死んだら恥も何もないですからね。酷いなぁ、まんまとやられた。ところで先輩、彼女再婚は?」


「ん? 子供の話じゃその手の話はないけどな」


「会ってますか?」


「いや、だいぶ会ってない」


「会った方がいいですよ」


「そうかな?」


「そうですよ」


「なあ、気を使ってくれてんのかもしんねえが、あいつが出てって、もう二年だぜ?」


「僕が死んでからに比べれば、大したことないですよ」


「そりゃまあ、そうだけど。俺の事なんかとっくに忘れて、こっそり新しい男作ってるかもしんねえじゃねえか」


「あ、さては知りたくないんでしょう? 案外気が小さいな」


「んなこたぁねぇよ!」


「とにかく会った方がいいですよ。先輩、反省してるんでしょう?」


「まあ、そりゃそうだが……でもなぁ」


「ああ、また考えてる。まだ気があるなら迷わず突き進めばいいじゃないですか! まったく、僕が生きてたら……」


「そうは言うけどな、迷わず壁に突き進んだお前は死んだ。迷ってやめた俺は生きている。どうだ?」


「ま、まあ、それはそうですが……めんどくさい人だな、ほんとに」


「お互い様だ。お前だって生きてた時も今も、相当めんどくさいぞ」


 それから俺は酒を飲みながら、省吾はシラフで、他人が聞いたらきっとつまらない思い出話を長々と話していた。俺は残った酒を全部飲み干して、気分の良くなってきたところで、シュラフに入って省吾に言った。


「じゃあ、そろそろだな。もう一度お前と話せるとは思わなかった。楽しかったぞ」


「僕も、たまに見てはいましたけど、こうして話せるとは思わなかったですよ。ここ、たぶん何かあるところですよ」


「そうみたいだな、帰る前にちょっと見てみるかな」


「それよりもういい歳なんだから、定期検診ぐらい受けてくださいよ」


「何だ、見てたのか? あいつに……梓にはいつも言われてたからな。それも無視してたから……嫌われたのかな」


「五十代なんて昔なら寿命ですよ、それなら生まれ変わったっていいじゃないですか。僕にはもう出来ないけど、先輩は出来るんだから」


「そうだ……な」


「先輩、お元気で」


「お前も……な」


 その辺りで記憶が途切れた。最後に耳に残ったのは、締め忘れたシュラフのジッパーがジッと締まる音。頭に浮かんだのは、最後に握手でもしておけばよかったかなという小さな後悔だった。だがもしその手が冷たかったりしたら、俺はきっと泣いてしまっただろう。


 翌朝目覚めると省吾はいなかった。吹雪の音もなく、戸を開けると白んできた空には雲一つ見当たらなかった。ラーメンを喰って散らかしていた荷物をザックに詰めた。去り際に小屋の中を隅まで見てみたが、掃除道具とあのロープ、そしてスコップやハシゴが置いてあるだけで、彷徨う魂が興味を示しそうな変わったものは、特に何も見当たらなかった。

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