第三章 愛する二人
風に吹かれるように雪原を転がる白い毛玉があった。この日のために買った望遠レンズが驚くほど忠実にその姿を追う。動物は専門ではないから腕はけして上手いとは言えないが、カメラの進歩はそれを補うに余りある。朝の斜光線の中で躍動するウサギの美しさが、俺の心の芯を捉える。
こういうものを撮るのもいいな、そんな生き方もある――。
だがその光景はものの数時間と続かなかった。日が高くなり動物が出てこなくなると、また越後の山々に傘がかかりはじめた。小屋に戻って湯で戻したアルファ米にみそ汁の元を混ぜておじやにする。たとえ吹雪の中だろうと小屋に逃げ込めば心は穏やかだ、風が吹くには理由がある、必要だから吹いている、泣こうがわめこうがどうにもできないのなら、ただここでやむのを待てばいい。
昨日も今日も穏やかに過ぎた、最初の晩が嘘のようだ、あの髭男は今頃どこを彷徨っているんだろう。
早々とシュラフに潜り文庫本を開く。二十ページ読んだところでいつものように睡魔に襲われはじめた時だった、また戸を叩く音がした。この間より控えめな音だが、やはり俺が返事をする前に戸が開いた。
体を起こして戸の方を見ると、真っ白な光の中に男女のシルエットが見えた。暗がりに慣れた目には外の曇りの光が十分にまぶしくて、二人の姿は後光を放つように神々しく見えた。
何も言わずに小屋に入ってきた二人は、俺と目が合うとそれぞれ小さく目礼をした。男が女を先に通し戸を閉める、ヘッデンの弱い灯りに青白く浮かび上がった二人は、ともに二十歳そこそこに見えた。女のほうは、すぐミスなんとかにでも選ばれそうな、やたらと整った顔立ちをしていて、水色のワンピースにかかとが低い白のパンプスを履いていた。男のほうは痩せて貧相な体つきに薄汚れた白いTシャツと膝の出たブルージーンズという、見るからに冴えない風体だった。
だがここは冬の山頂だ、この時点で俺はこの二人も髭男と同様にこの世の者ではない事を悟らざるを得なかった。
俺は二人にタタキを挟んで向かい側を勧めた。髭男で慣れてはいるが、すぐ隣に陣取られるのはさすがに遠慮したい。しかし一目で山を登っているとわかる奴ならともかく、街の恰好そのままのカップルが何でこんな場所に化けて出るのか?
俺が初めて高い山に登ったのは高校山岳部の夏合宿だった、”山無し県”とも言われる千葉で育った俺には見るものすべてが新鮮で、インスタント麺に海苔が乗っただけの山小屋のラーメンさえ最高のごちそうに思えた。高校を卒業してからも日雇いのアルバイトをしながら山に通った、ある日の例会で先輩が「お前に良さそうなバイトがあるぞ」と言った、北アルプスにある山小屋の小屋番だという。
「現地集合なら交通費もかからない、なんてったって金を貰っても使うところが無いのがいい」先輩はそう言って、知り合いだという小屋主に話を通してくれた。
それからは山小屋のアルバイトで稼ぎながら、東京からやってくる会員たちと休みを合わせて登った。登山道の見回りを任されるようになると、合間に写真を撮るようになった。「正月にも帰ってこられないなら、せめて写真ぐらいは送ってよこせ」と、業を煮やした母親が、我が家にしてはずいぶんと贅沢なカメラを送ってよこしたからだ。
社会人山岳会員にとっての正月は、年に一度の貴重な冬合宿の期間だ、実家になど帰れるはずがないだろう。あの頃はまだ生きていた母親の手紙を読んで、俺は本気でそう憤慨するような息子だった。
ある年の春山シーズンに顔見知りのお客から声をかけられた、山岳雑誌の編集をしているというその人は俺に言った「偉い写真家の先生が新しい助手を探しているんだけど、君よく写真撮ってるけど、やってみる気はない?」
それ以来、この歳になるまで俺は下界に降りても山と関係のある連中としか付き合ってこなかったのだ。こんな都会の大学生丸出しの連中の考える事なんか、爪の先ほども想像できない。
暖冬とはいえ小屋の中はマイナス七度ほどだ、なのにまるで初夏の浜辺にでもいるような恰好をした二人は、俺の事などまるで眼中に無しと言った様子で互いに見つめ合っている。
うっかり「寒くないの?」なんて口走って「何で?」とか聞き返されたらどうしようか。それでも水や食い物を恵んでくれと言い出さないだけ、生きた人間よりましかもしれない。俺だってそんなに潤沢に背負ってきたわけじゃない、死んでる奴に分ける余裕はない。だがその時、これまでほとんど声を聞かなかった女が言った。
「ああ、おなかすいちゃった」
冗談だよな?
俺がうろたえていると、男の方がポケットから小袋に入った飴玉を取り出して女に渡した。「ありがとう」にこにこと笑い飴玉をほおばる女の様子を、男は嬉しそうに目を細めて眺めている。
そうか、それが最後の食い物だったのか。そんな恰好で山に入るぐらいだ、ちょっとそこまでぐらいの気持ちで踏み込んで、迷っちまったんだろうな。
骨だけの姿になった二人は今もこの山のどこかで眠っている、今俺が見ているのは、たぶん二人が幸せだった最後の時間だ。
「気軽に山に入るからだ」他人はそう言うかもしれない、だがいくら過ちだったとしても、それにこんな若い二人が死ななければいけないほどの道理はない。命からがらでも助かって長い時が過ぎた後に「あの時は本当に危なかったね」と皺だらけの顔で笑いあう――。それでいい、そのためなら俺たちの力ぐらいは貸してやる。
だがこの二人にはその未来が来なかった。二人は体を寄せ合い寒い夜を明かした、やがて男が持っていた飴も尽き、二人は徐々に衰弱していく。そしておそらくどちらかが先に息をしなくなる。残された者は愛する者の温もりが消えてゆくのを感じながら、深い悲しみの中で自分もその時を迎えた――。
この二人はそれを忘れたかったのかもしれない、だからきっと最後の幸せだった時間を永遠に繰り返している。何がこの二人を解放するのだろう、それともこのままこの時間を繰り返している方が、二人にとっては幸せなのだろうか。
会話らしい会話もなく時間ばかりが過ぎた。こんな近くにいて何もしゃべらないのはおかしい気もしたが、二人は二人だけでとにかく幸せそうに見つめ合っているから邪魔はしないことにした。俺としても触らぬなんとかに祟りなしと言うか、本音ではそんな心境だから、二人が話しかけてこないのは正直言ってありがたかった。
他にやる事もなく、軽く酒を飲んで横になった。だが二人のほうを向くか背を向けるかが問題だった。最初は背を向けて見ないでいれば平気かと思っていたが、それはそれで見ていない間に何かされないかと気になってしまう。かと言ってただじっと見ているのもおかしいし、この間みたいにもっと飲んで寝てしまおうかとも考えたが、これ以上酒が減ると残りの期間が寂しくなる。
髭男の時も思ったが、この連中は俺をとり殺そうとかいう動機でこの小屋に来るわけではなさそうだ。だがそれでも出来るだけ自然に振舞いたい、もしこちらが怖がったり警戒していると悟られたら、寝た子を起こしてしまうかもしれない。そう考えるぐらいの警戒心は俺にもまだ残っている。
それにしても、話好きだった髭男と違って、このカップルは何か礼を言う時以外はまったく話しかけてこないし、俺の事を気にもしていない。付きあって数か月頃の、互いの嫌なところをまだ知らない、一番幸せな時期の恋人同士といった感じだろうか、周りがまったく見えていないようだ。あまりに退屈で俺が腹筋をはじめても、普通なら相当うざったいはずなのに二人はこちらを見ようともしない。梁に飛びついて懸垂を初めてもそうだ。そのくせ俺の存在は分かっているのだから、いくら二人に同情していても気味が悪くて仕方がない。
そうこうしているうちに、二人は俺を気にするどころか、とろけるような目で見つめあいキスをした。舌と舌が絡む、かなり濃厚なやつを。
おいおいおいおい。
勘弁してくれないか? 嫁に逃げられて女日照りが続いている身にはかなり堪えるんだが。二人は俺が見ている事を一切気にしていない、おい分かってるんだろ? ほらいるぞここに、観客が……。そんな俺の思いもむなしく男はついに女の胸元のボタンを、上からゆっくりと外し始めた。
ちょ、ちょっと待て、ちょっと待てって。
そう思うのだが、もしお楽しみの最中に邪魔なんかしたら、二人の幽霊に怖い目で睨まれそうで声が出ない。
女はすぐに男の手で丸裸にされた。透き通るような白い肌で、一部は本当に透き通っているような気もした。男はアバラが浮くほど痩せていて、屹立した物ばかりがやたらと目立つ。
二人は若者にありがちな性急さで初めてしまった。そんなんでいいのかと言いたかったが、女のほうがそれでいいのなら、まあいいんだろう。こんなに若く美しい女が慣れた腰つきを見せると、他人事なのになんだか悲しい気持ちになってくるが、問題はそこではない。もう二年もご無沙汰なのに何でこんなところでこんなものを見せられなきゃいけないのか。「俺も混ぜてくれ」そんな言葉がのどまで出かかったが怖くて言えなかった。
背中を向けてみたが声が気になる。いったいどうすればいいのかと考えていると、右手が勝手にズボンの中に入っていた。マジかよ、こんな異常な状況でも男の本能に店休日は無いらしい。
気になって振り返ると男と目が合った、俺は緊張して手を止めた。男はすぐに仕事に戻ったが、今度は女が俺にほほ笑みかけた。さっきまでの真面目そうな顔とはまるで違う、妖艶でしかも勝ち誇ったような表情。こんなに美しい娘なのに、こんな痩せっぽちの冴えない男のどこがそんなに良かったのだろう。やっぱり女の考える事はわからない。
女が絞り出すような声を上げた、男も続いた、俺の手も速くなった。
「……」
三者三様の声をあげた。波が去り、ゆっくりと深呼吸をしながら目を開けると、小屋の中には俺一人しかいなかった。
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