3. グノーティ・セアウトン(汝自らを知れ)
「ダメだよ、それはぁ。
不意に。背後から女の声がした。
オレの名字は世良垣じゃなくて逆舟だ。誰かと間違えているのかとも思うが、今夜、こんな場所で出てくる人間がカタギのはずがない。
刀身のない愛刀を
「
そいつはお色気あふるるポニーテールと眼鏡の美女だった。胸がでかい上に、それを強調するような露出度の高い服を着ている。
具体的にはハイネックのハイレグ衣装、素材は縦線の入ったニットセーターというどこで買ったんだという代物で、胸の張りを強調すると共に、同素材のロングソックスと足の付け根の間に見逃せないむちむち感を演出している。
「勢馬! 逃げろ!」
がいん、という金属音と親父の叫びが重なって、オレは我に返った。突然のお色気に一瞬思考が止まったらしい。
親父はこちらに近づこうとしたらしいが、見えない何かに阻まれている。
「
「そのダサい名字やめてくんない? 死んだフリして十年耐え忍んだんだからさ、蛇眼の魔女とかもっとこう、格好良い呼び方ぐらいしてくんなきゃ」
今の金属音は、魔術と魔術がぶつかった衝撃だ。オレにまで聞こえるってことは、相当でかい力がぶつかったに違いない。この樹香って女、ヤバいぞ。
そもそも魔術師同士がやり合うのは、協会に厳しく禁止されている。
「あ、勢馬くんラテン語じゃなくギリシア語の方がいいんだっけえ?」
その時、オレは女の手が鈴のついた鎖を握っていることに気がついた。鎖の先にぶら下がるのは、雪だるまのように重ねられた球体に足がついた香炉だ。
魔術道具としてもよく用いられる、振り香炉に違いない。
「
近づく樹香を前に、オレの体は石になったように言うことを聞かなかった。鼻をくすぐる甘い香りをともなって、白く細い指がオレの額を突く。
瞬間。
ぱらりと、目の前が開けた。
「あ……?」
気味の悪い感覚だ。忘れていたことを思い出す、そこにずっとあったのに、今まで見えなかったものが急に認識できるような、自分の中で扉がパカッと開く感触。
そこから汚水のようにあふれてきたものが、じわじわとオレの足元を浸していく。忘れていた物がなんだったのか、理解したくない。したく、ない、のに。
からりと、刀の柄が床に転がる。
「あぁあ…あ! ああぁあぁあぁあ…ぁ! あぁ…あっ」
誰かがうめいていた、悲鳴を上げていた。それはきっとオレ自身だ。
だって十年前、消し飛ばされたとうさんとかあさんは、悲鳴を上げるヒマすらなかった。そして、その時のオレ自身も。
「……ああぁぁああ!!」
オレは、あの時、殺された。
この井出口樹香という女に、物理的に蒸発させられて、煙になって漂った。
(オレはもう死んでいた)
どうして忘れていた? 問えば分かってしまう。
もちろん、ぜんぶ親父が、逆舟朧がやったのだ。
(とうさんとかあさんも死んでいた)
――幽霊の中には何らかの魔術で魂を囚われている例もある、覚えとけ
オレがまさにその実例だったというワケだ。
飛び去りかけた魂をとっ捕まえて、かりそめの体に閉じこめて。そして両親と自分が死んだショックに耐えられないからと、記憶を封印して。
(オレは――逆舟朧の息子じゃなかった)
ああ、だから、オレは魔術が怖かったのだ。自分と家族を殺したもので、魔術がないと存在できないくせに、いつでも簡単に消されてしまうから。
無意識に、オレは何もかも気づいていたんだ。
「知ってる? 世良垣勢馬くん。お父さんを名乗っていた逆舟朧は、君の体を維持するため、めちゃくちゃリソースを割いていたんだよ。だからこの十年、半分ぐらいは引退してたようなものだった」
煙になったオレは、女の振り香炉に吸いこまれていった。勝手に引き寄せられて、抵抗する間もない。そもそも何か動こうという気持ちもなかった。
そうか、ぜんぶぜんぶ、オレのためか。
オレに【月】が見えるか、しつこく聞いていたのも、オレが親父なしでもこの体を保ってられるようにと思ってのことだったんだ。
「勢馬をどうする気だ」
「聞かなくても分かってんでしょ? これでアタシはあんたからごっそりリソースを奪える。逆舟朧の息子って情報操作を見破って、同じ事に気づいた奴らを始末するの、大変だったんだから。大っきく育ったよねえ~、いよいよ食べ頃」
オレは煙になって香炉の中にいるらしいが、第三者のような視点で親父と……いや、父親じゃ、ないんだっけ。逆舟朧と、井出口樹香が話しているのが見えた。
「悪夢も見ない奈落なら案内してやるぞ。俺を釣るため、ビルまるごと霊を集めるとは大がかりだな」
「やっと大当たりなんだから、祝福してくれない?」
「魔女の挨拶は趣味じゃ無くてな」
話しながら、逆舟朧がまったく油断していないのがオレにも伝わってきていた。だが樹香は何の前触れもなく、オレが入った香炉を高く放り投げる。
屋内だったはずなのに、そこは星も見えない闇夜だった。
――『勢馬!』
今まで聞いたことのない悲痛な叫びが、ひどく遠くからオレの名を呼ぶ。その代わり、樹香の声が耳元で囁くようにはっきりしていた。
「空を見なさい。あたしの【月】がある」
『……る……せ……月』
親父の声がますます遠くなる。空ってどっちだ? ここは上も下もない虚空だ。そもそも煙のオレには、もう右も左も関係ないような気がする。
だが何かに引かれる気がして、オレの感覚は勝手に一点を向いた。そこに、白く輝く満月を見つける。ああ、これが井出口樹香の【月】なのか。
「見つけたわね? さあ、よくその【月】を見なさい!」
『……な……いま……』
まだ親父の声が聞こえる。
親父? 違う、オレの父親は逆舟朧じゃない。
いや。けれど、十年育てられて。この体も作られたなら。
それは……もう、本当の親と、どう違うんだ?
『……見るな! 勢馬! 魔術師の【月】は、死の国だぞ!』
唐突に親父の声がはっきりした。
そして思い出す。昔、親父はこんな話しをしていた。
「魔術師同士の戦いは、月への
「……堕ちたら、どうなんの」
「月の国に行くのさ。そいつは死の世界って相場が決まってるモンだ」
オレは自分を引っぱる力から、全力で身を剥がそうともがいた。
煙の身にどれだけ力があるものかとも思うが、あの女はオレが自分の【月】を見つめるのを待っている。なら、抵抗すれば多少は時間が稼げるはずだ。
そして、それは功を奏したらしい。オレが入った香炉を、親父の手がキャッチした。樹香が驚きと怒りが半々の顔で、髪の毛を逆立てる。
うねる髪は実際に鎌首を持ち上げ、蛇の形をしていた。
「香炉の中の坊やは魔術が身につかなかったんでしょ? 自力で実体は取り戻せないわよ。何のために役立たずの
「勢馬、空を見ろ。月は出ているか?」
親父は樹香を無視してオレに話しかける。その顔は、いつかラーメン屋でイカロスの話をした時の、あの不可解な苦笑とよく似ていた。
「見えなくても、確かにそれはそこにある。そう信じるんじゃない、確信するんだ。信仰がお前を月に導き、魔術師としての第一歩になる」
耳にタコができるほど、くり返し聞かされた話。
魔術師に向かなくて、魔術が怖くて。でも、オレはそんなことはどうでもいいんだ。欲しいのは自分が死んだ理由より、自分が今まで生きてきた意味じゃないか。
これからも生きていく理由じゃないか。
オレは、空を見た。一面に星がまたたく夜空を。
「さあ、空を見ろ。お前の【月】が昇る。お前が望めば、いつだって!」
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