2. イカロスと月
◆
「イカロスの話は知ってるな?」
いつだったか、ラーメン屋の喫煙席で親父はそんなことを言い出した。微妙にベタつくテーブルの上に、ほとんど空になった炒飯や餃子の皿が並んでいた。
「ロウソクで鳥の羽根作ったイカれ野郎だろ」
「ロウソクじゃなくて蝋だ。まあいい。俺たち魔術師ってのは、みんなイカロスなんだよ。目指している太陽は本物の〝魔〟。魔法と呼ぶのもおこがましい、ただただ何か条件がそろった時に願いをかなえてくれる、圧倒的な力だ」
その話はオレも知っている。この世には、願いをかなえるというふわっふわした謎の力があるらしい。不老不死だろうと時間旅行だろうと、マジで何でもかなえてくれるものスゲェやつだ。使えれば、の話だが。
もちろんそいつは気まぐれどころじゃない予想のつかなさで、まともに扱うなんて誰にもできやしなかった。数え切れないほどの人間が、なんとか願いをかなえてもらえないか挑戦して、失敗して、死んだり、もっと悪いことになったと言う。
そのくせ、たまに……本当にごくたまにだが、願いをかなえてもらえたやつも出てくるからタチが悪い。まるで人を狂わせるギャンブルだ。
だから、それを〝魔〟と呼ぶ。
「魔術は、魔のことを研究した昔の人間がどうにかこうにかこさえた、ちょっとだけ願いをかなえる超ショボい力に過ぎない。海賊版魔法使いだな」
「そんで? 魔術師がみんな海賊版で、イカロスなら、全員死ぬしかねえってこと?」
「まあ死にやすいのは確かだがな」
ニラ豚キムチラーメンを飲み干して、親父は一服した。人目があるから、魔術ではなく百円ライターで紙タバコに火を付ける。
美味そうにタバコを吸う姿が、一瞬イラッと感じた。親父が死ぬなんて考えたせいかもしれない。
「俺たちは本物の魔法使いにはなれない。だが太陽があれば月もある、大地の上に立つなら分かるだろ。たとえ真っ昼間でも、目に見えないだけで月はそこにある。自分の【月】を見つけるのが、魔術師の第一歩だ」
「魔術師なんてやめとけ、っていつも言ってるくせに」
そうなんだがなあ、と親父は苦笑いした。
「魔術師になるのと、魔術を使えるようになることは別だ。どっちにせよ、オレはお前に自分の【月】を見つけて欲しい。だが、そいつは自分でやるしかないんだ」
香ばしいような、いがらっぽいような白い煙の向こうで、親父の苦笑が妙に複雑そうな表情に見えたのが、やけに印象に残っている。
悲しそうな、苦しそうな、期待しているような、迷っているような、そのどれともつかない、複雑な大人の顔。眉間のしわも、眉の角度も、歪んだ唇の端も、いまだにオレはどうとも意味を取りかねている。
どうしてオレは【月】が見えない
ただ、一つだけオレは自分自身について分かっていることがある。
オレは、魔術が怖い。
◆
ビルは七階建てで、当然エレベーターは止まっているから、オレたちは階段を使うしかない。まず親父が先行し、残留思念を祓う〝蛍火〟の術で照らしながら進む。熱さのない青い炎は、マグライトの代わりに闇を切り裂いていった。
一番霊障が強いのは最上階。いわゆるブラック企業だったらしく、屋上から社員が飛び降りたり、首を吊った者が何人も出ていたという。
オレたちは途中の階をスルーして、ひたすら七階を目指した。階段から目的地に一歩入ると、周りが明るくなる。なんと電灯がついていた。
辺り一帯には人の気配。廊下は無人のままだが、すぐ横の部屋にはみっしりと背広姿の男女が詰められていた。一心不乱にパソコンのキーボードを叩いたり、忙しなくフロア内を行き来しては、あっちこっちで怒鳴り声や何かを叩く音がする。
「とっとと尻のコピー終わらせろ!」「終わらない終わらない」「えんぴつがγ本、えんぴつがθ本」「すいません、すいません」「職場のコミュニケーションを円滑にするレクリエーションだ」「すいませんじゃねえんだよ」「コーヒー! コーヒー!」「終わんない終わんない」「会日生誕、会日生誕、」「いつまでに! どうやって! 終わらせんのかって聞いてんの!」「いいぞ! イノベーションだ!」
「「「「「仕事が終わらない! 終わらない! 終わらないよお!」」」」」
オレはその異様なありさまにドン引きした。頭を掻きむしったり、デスクに額をくり返しぶつけたり、まさに修羅場という感じだが、明らかに異常だ。
「これがブラック企業かよ……地獄じゃん」
「しかも死んでも働けときた。早く楽にしてやろう」
「社会怖え~」
親父が廊下の一点を指さすと、光が走って円を描いた。その中にオレが入ると、動きに合わせて光の円陣もついてくる。これが逆舟朧オリジナル・自動追従結界だ。
オレたちは最初の部屋に取りかかった。親父が〝蛍火〟を展開すると、部屋いっぱいに広がった青い火の玉を前に、ほとんどの奴は輪郭を失ってしまう。
形を無くした霊体同士は、磁石のように引き合う。合体される前に、そういうのを斬り祓うのがオレの大事な仕事だ。
「ちぇいやっ!」
気合い一閃、袈裟懸けに振り下ろすと、下半身を出してコピー機に座っていた男の霊は雲散霧消した。こいつ、なんでこんなことしてたんだ? 消えかけていたから、はっきり見えなくなっていて良かった……。
蛍火で崩れない強固な霊には、親父がもう一発お見舞いする。
「
言っていること自体はラテン語の格言で、呪文でも何でもない。が、魔術師なら自分用のスイッチに、そういう決まり文句の一つや二つ持っている。
この格言は、すべてのものは必ず死ぬ、という意味だ。
真っ白な炎が噴き上がり、室内を舐め尽くす。お前が今あるのはまやかしに過ぎない、もう死んでいるのだと霊に言い聞かせる、〝不知火〟の術。
まばゆい炎が消えた時、オフィスは空っぽになっていた。人だけでなく、機材のほとんども無くなって、引っ越し準備完了って感じだ。
ただ、電気だけはまだ灯っている。
「行くぞ、次だ」
「おう」
オレは腕に浮いた鳥肌を悟られないよう、肌を擦りながら親父についていった。これだから、オレはダメなんだ。
親父はやっぱりすごい。圧倒的な力で、うじゃうじゃいた幽霊を消し飛ばした。他にも、親父が魔術を使うところなんて何度も見てきたけれど。
時々、魔術を見るとひどく悪寒を覚える。親父だけじゃない、他の魔術師の時だってそうだ。オレは何か根本的な所で、魔術を恐れている。
それがなぜかなんて、自分では分からないけれど。
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