不知夜(いざよい)の子

雨藤フラシ

1. お前の月は出ているか?

勢馬せいま、月は出ているか?」


 手狭なアパートは、男の二人暮らしで雑然カオスを極める。

 リビングだけが台風の目のように空間が開いて、オレと親父はいつもそこで食事していた。今はコンビニのバターチキンカレーで、夕食を済ませた所だ。

 親父の質問にまた始まったと思いながら、オレは外を確認した。ダイニングチェアで舟をこぎ、カーテンを引いて窓の外を見上げる。今夜は満月だ。


「……月なんて、一つしか出てねえよ」


 分かりきったことを口にすると、親父もやっぱりな、と言わんばかりにため息をついた。正面から身を乗り出してオレの肩を引っぱると、眼鏡のブリッジをはじく。


γνῶθι σεαυτόνグノーティ・セアウトン

「……汝自らを知れ」


 耳にタコができるほど聞かされている、古代ギリシアの格言だ。


「今日も不知夜いざよいだな。やっぱりお前、魔術師なんてやめておけ」


 黒ずくめの服に、腰まである波打つ黒い髪、ヒゲ。どう見てもカタギではない中年魔術師・逆舟さかふねおぼろは、お決まりの台詞を続けた。


「俺は貯蓄と『協会』のコネがあるからなんとかやっていけるが、こいつで食っていくなら、お笑い芸人かミュージシャンでも目指した方がマシだからな。お前は学校をきちんと卒業して、まともな福利厚生のある会社に就職しろよ」

「へいへいへいへい、どうせオレは才能ねえよ。親父特製の魔術眼鏡ぶらさげて、自分の【月】も見えねえし、いっくら修行しても発火一つできやしねーし」


 オレたちが言っている月は、単なる天体現象じゃない。魔術を使う要になる自分だけのシンボル、自前の神さまみたいなものだ。残留思念、人工精霊、自動妖精、呪詛の数々、そして【月】。魔術師なら自前で感知できなきゃ話にならない。


 そして、不知夜いざよい十六夜いざよい。十六夜の月は、出が遅いさまを月がためらっていると考えて、「猶予いざよう」と呼んだ。転じて、【月】が見えない才能なしを指す。


「勢馬、自己卑下ってのはな、魔術師が一番やっちゃいけない事だぞ」

「そんで? これから仕事なんだろ。何やんの」


 仕事関係で何かある時、親父は必ずオレに【月】が見えるか聞いてくる。


「聞いて驚け、幽霊退治だ」

「はっ!? 親父が? なんで?」


 残留思念の清掃は、魔術師の一般的な業務だ。

 というのも、肉体を失った人間の思念は、使い手自身の雑念同様に魔術の集中を乱し、邪魔をする。結果、魔の暴走を招いて大変危険だからだ。

 そこで魔術師協会は、人が死ぬとすぐさま人員を派遣したり、定期的に一定区画を巡回するようにしている。が、それは基本的に若手や下っ端の仕事だ。

 親父のようなベテランで、かつ腕利きにはわざわざ依頼しない。


「勢馬、前に幽霊=残留思念と説明したがな、正確には少し違う。俺たちがこまめに掃除しているから、いわゆる祟ったり呪ったりする幽霊なんて出てこないのが普通なんだよ。あってもカン違いかイタズラだ。だが――本物は、ヤバい」

「魔術を問答無用で暴走させてくる、とか?」


 珍しく真剣マジな顔の親父に、オレは思わず息を呑んで訊ねた。


「死んだ奴に魔術の素養があったり、特別ひどい死に方をしたり、長い間見落とされて残留思念が溜まりに溜まったりすると、幽霊が生まれる。そして実際に霊障を起こして、直接人を傷つけるわけだな。そういうのの相手は、少し骨が折れる」

「でも、親父ならやれるんだろ?」


 率直に問うと、親父は「まあな」と笑って、紙タバコをくわえた。ぱっと赤い光点がひらめき、ライターもなしに燃え始めた葉から紫煙が立ちのぼる。

 まぶたを閉じ、ダイニングテーブルの天板をとんとんと指で叩いてリズムを取りながら、飲み物のように胸の奥まで煙を吸った。実に美味そうな仕草だ。

 仕事前に一本、仕事終わりに一本、それが親父の習慣だった。


「肺がんになっても知らねえぞ」

「魔術師は長生きしねえものなんだよ。……ああ、そうそう、幽霊の中には何らかの魔術で魂を囚われている例もある、覚えとけ」

「オレも行く」


 親父はあきれたようにため息した。


「本気か? 向いてないなりに魔術をやろうって気概は買うが、半端な覚悟で行くと(怪我)するぞ。ま、車で良い子にしてるだけなら歓迎だ」

「うっせー! 足引っぱらねえぐらいできら!」


 オレはそれ以上親父がしゃべる前に、カレーのパックを片づけ、支度を整えた。と言っても、竹刀袋の愛刀を確認して、中学の学ランに引っかけるだけだ。

 親父も黙って置いていくなんてことはせず、結局玄関で待っていてくれる。そしてオレはスズキ・エブリイの助手席で一時間ばかり揺られた。


 到着したのはビジネス街の外れ。今日の満月はいやにでかくてまぶしくて、月明かりに照らされた無人のオフィスビルが異界じみた不気味さを放っている。

 とっくに取り壊し予定のビルだが、強力な霊障にたびたび延期させられ、ついに親父に仕事が回ってきたとのことだった。


「勢馬、位置取りは覚えたな? 俺の結界に入ったら、近づいてくる霊体を片っ端から斬れ。万が一俺がやられたら、すぐ『協会』に連絡しろよ」

「へいへい」


 親父を倒せるようなやつがいたら、その時はどうせオレも死ぬだろう。コートをひるがえしてビルに入る親父の背を追って、オレはマグライトをつけた。


「あんまり俺から離れるなよ」

「過保護なんだよなあ」


 オレも今年で十四だ、世間はガキだガキだというが、もう子どもじゃない。それに、オレにはこの愛刀がある。

 竹刀袋から黒鞘の日本刀を取り出すと、オレは鯉口こいぐちを切った。熟練の剣士なら、そこからはっきり剣気を感じ取った後、拍子抜けするだろう。

 刀には柄とつばがあるだけで、刀身が存在しないからだ。

 

 念を込めて振り抜けば、目に見えないし触れもしない、霊体の刃が発生するという代物だ。これなら、オレみたいな魔術音痴にも使える。

 問題は使い続けると集中力とか精神力とか体力が減っていくということで、長く振り回すなら、実体のある刃物に同じ魔術をつけた方が良い。

 なんでそうしないのかというと、銃刀法違反はマズいからだ。


「見えて、ぶった斬れる相手なら楽勝だ」


 親父は名が売れているから、息子のオレのことを利用しようとか、腕試しを挑んでハクをつけようだとか考える馬鹿は、昔からうようよ寄ってきた。

 大半はオレが知らない内に片づけられたが、危ない目に遭ったことも何度かある。だから自分の身を守れるよう、オレは幼いころから色々武術をやらされた。

 中でも、剣術については一端の実力だと我ながら思う。


「やる気満々なのは結構。しかし魔術はプライドが大事だってのは口を酸っぱくして言ったが、うぬぼれと間違えるなよ」

「分ーかってらい!」


 あらかじめ、ビルの間取りは依頼主から共有されている。親父は占術で霊障の吹きだまりを探し、攻略の手順をきっちり計画立てていた。

 オレはその指示に従うだけでいい。何よりも、親父の足手まといにならないことが重要だ。……結局、魔術に対抗するには、魔術が一番なのだから。

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