4. 月が照らす
すなわち霊的自己認識。
オレが銀に輝く【月】を見た瞬間、煙だった体は元の実体を取り戻し、内側から振り香炉を破壊した。幸い素っ裸じゃなく、学ランもそのままだ。
「オレの名前は逆舟勢馬。十年前、お前に殺された世良垣家の、仇を討つ!」
転がって受け身を取りながら、落ちていた刀の柄をひろう。樹香と、蛇の群れに変化していた彼女の髪たちが、口々に詠唱を始めた。
「闇の覆いよ、防禦の式文よ! 我は今、宣言する。
闇の覆いの基にして器なるもの確立されんことを宣言する。その器、青き卵にして、我が肉体を包むものなり。夜の覆いよ、我が形を汝の実体たる夜の中で覆うべし。我をつつむべし、かくすべし。かくして我は汝を満たす!」
天使の名前、星辰の名前、神の名前、それらを秘密の言語に変換した図形の数々。樹香が高速で詠唱し、
「〝見よ〟」
間合いを詰めながら、オレは対抗するための術式を探る。
「“生きとし生ける諸人の息吹は光の剣だ”」
〝死よ、我にとりて勝利はなし。汝は我が心と体を取り上げし、しかし、我が霊は留まるなり。それは闇の中の光である。
ここにて我は我が生命を受け取るなり。ここにて我は我が息を受け取るなり。ここにて我は我が血を受け取るなり。ここにて我は我が体を受け取るなり〟。
「〝我は我が神への内なる道を取り戻す〟!」
その神の名は、オレと【月】だけが知っている。
組み上げた術式は霊体の刃を内側から強化し、樹香の魔術的防衛網をやすやすと貫通した。この愛刀に元から備わっていた魔術だけでは弾かれていただろう。
この瞬間、オレは確かに魔術を使って、魔術を斬り裂いた。
オレはもう、魔術を恐れない。その正体を知ったから。恐れる理由に向き合ったから。いまだ広がる恐怖の闇、その向こうにオレ自身の【月】が輝き、照らしている。
「いいぞ、勢馬。さがれ!」
オレは親父の言葉に逆らわず身を引いた。霊体の刃は樹香の体も通り抜け、即座に魔術を使えないようダメージを与えたはずだ。実際、蛇たちは髪の毛に戻っていた。
しかし、こいつはどんな隠し球があるか分かったものじゃない。警戒したが、親父が手を伸ばし、にらみ合ったのは一瞬。フロアを照らしていた電気が消える。
「〝
それで終わりだ。井出口樹香はその場に崩れ落ち、倒れ伏したままぴくりとも動かなくなった。体の横から、変形したおっぱいがはみ出ているのをつい見てしまう。
樹香に囚われていた魂を解放されたのか、あたりから人の気配が消えていた。残留思念は大量に残っているが、もう幽霊退治も終わりだろう。
ということは、つまり。
「……【月】に
「ああ」
それは魔術師としても、人間としても死んだということだ。親父はあっさり肯定した。体は生きてはいるが、こうなったら廃人だと言う。
話には聞いていたが、実際見るとぞっとしない。
「こいつ、なんでオレんちを襲ったの」
「世良垣家も、もともと魔術師だったんだよ」
「マジ!?」
予想外のことを告げながら、親父はスタスタと来た道を戻る。スマホを取り出して、協会に連絡を入れた。通話が終わった所で説明を再開する。
「十数年前、俺たち魔術師は戦争状態だった。互いが【月】を領土に見立てて、それを奪い合うっていうな」
「そんなの、殺し合いじゃねえか」
ああ、と親父はうなずく。その短い動作の中に、無数の苦い記憶がよぎったようにオレは思えた。まだ、オレなんかには計り知れないほどの惨劇を、この人は「もうたくさんだ」ってほど見てきたんだろう。
「魔術師協会が魔術師同士のやり合いをご法度にしたのは、その経験があるからだ。数え切れない犠牲の果てに、俺たちはどうにか終戦にこぎつけた。同じ悲劇を二度とくり返さないために、最初に決めたのがそのルールだ。世良垣は……」
親父はそこで一旦、言葉を切る。その沈黙は少し長くて、オレたちは階段の踊り場をいくつか通り過ぎた。個人的な知り合いだったのだろうか。
「お前の家族は、終戦間際に井出口樹香に殺された。俺は、間に合わなくてな。お前の魂が現世にあるうちに、引き留めるのが精いっぱいだった」
「……墓の場所って、分かる?」
廃ビルを出てうちのスズキ・エブリイに向かうと、すでに協会の連中らしき車が数台駆けつけてきていた。親父は責任者と言葉を交わし、オレは樹香が担架で運ばれていくのを見る。あんなにお色気を振りまいていたのに、もう死んでいるみたいだ。
それを見届けて、オレたちは車に乗りこんだ。
「オレ、一回とうさんとかあさんに挨拶したい」
「もちろんだ。いつでもいいぞ」
一応墓はあるのだと思うとほっとした。何しろ、オレの記憶じゃ目の前で蒸発させられた二人は、本当に煙のように消えたのだ。グロさはまったく感じない。
オレ自身も蒸発させられていなかったら、実は二人ともまだ生きてるんじゃないかと思うほどの、それはあっけない死に方だった。
でも、墓があって、それを悼んでくれる誰かはこの十年ちゃんといたのだ。
「勢馬、一つ言っておくがな。死んだフリをしていた井出口樹香が現れたってことは、あの戦争をむし返そうとする連中が動き出したってことだ」
助手席でシートベルトをしめたオレは、驚いて親父を見た。
いつもなら、仕事終わりの一服にタバコを飲んでいるタイミング。だが、親父は紙箱を出してすらいない。まだ何も終わっちゃいないんだ、とはっきり感じた。
「これからそう遠くないうちに、大きな戦いが始まるだろう。今日のところは休んでいい。だが、明日からはあらためて、ビシバシ鍛えてやるからな」
「ああ、親父」
オレは窓を開けて、夜空を見上げた。生ぬるい風すら今は心地よい。そこには二つの輝きがあった。
「空にはもう、オレの【月】が出ている。どんどん魔術を覚えてやるよ」
「そりゃいいが、魔術師だけはやめとけよ。食えないからな」
お決まりの忠告をくれて、親父は紙タバコを口にくわえた。小気味よい音を立てて光点がひらめき、慣れ親しんだ紫煙が立ちのぼる。
いがらっぽいような、香ばしいような、親父のいつもの匂い。とんとんとハンドルを指で叩いて、水を飲むように肺いっぱいに煙を吸いこんで。
深くまぶたを閉じて、心底タバコが美味そうな横顔。
「オレさ」
親父が携帯灰皿にタバコを片づけ、車を発進させる。
「親父の息子で、良かった」
夜風にまぎれるように、こっそりささやいた。とうさんとかあさんのことは忘れていないけれど、オレは、まぎれもなく逆舟朧の息子なんだ。
◆
数ヶ月後――井出口樹香が収容された施設が謎の魔術師集団に襲撃され、樹香をふくむ多数の廃魔術師が脱獄させられた。
その報せを皮切りに、オレたちはさらなる戦いに巻き込まれていくのだが……。
それはまた、別の話だ。
(END)
不知夜(いざよい)の子 雨藤フラシ @Ankhlore
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