第7話・家庭の肖像

 前回で分かってたつもりですけれど、安久利ちゃんはほんとーに、教え欲を満たしてくれる、家庭教師初心者のわたしにとっては最高の生徒さんだと思うのです。

 学校の成績を聞いてみると、目を見張るほどに良いわけではないんですが自分の弱点はきっちり把握しているみたいですね。これで学校の先生に細かい指導受けられていたら、学校の授業だけでも相当の成績残せそうなんですけれど、そこはやっぱりたくさんの生徒を受け持つ学校ではなかなか、というところなのでしょう。

 そしてその分をフォローしてあげるのが、わたしのお仕事。使命感とやりがいと、あと安久利ちゃんかわいー、という愛情でもってわたしは二回目の家庭教師を遂行中です。


 「せんせ、終わったー」

 「あ、はいはい。じゃあ採点して…と、完璧ですね。言うことありません。じゃあご褒美にちょっと休憩しましょうか?」

 「うい。ねーちん、なんかくれー」


 時計を確認したら、数学だけでもう一時間を超えてました。この後英語もやる予定なので、一休みした方がよさそうですね、とわたしは大きく伸びをします。


 「なんかくれー、じゃなくてちーとは自分でもやれよな、安久利。まあ頑張ってたから今日はいーけどさ」


 そしてぶつくさ言いながらも手際良くお茶の準備をしてくれる理津です。今日もウサギのアップリケがついたエプロン姿がまぶしいっ!…いうても勉強中は全然そちらに気が回らなかったのです。

 勉強を教えに来てるんですから当然なのですが、我ながらぬかったなー、と思わずにいられず、わたしは密かに悔しがったのですけど。


 「ねーさん、疲れた?」

 「いえ、大丈夫ですよ。そう見えます?」


 どうもそれが理津には疲れてしまったように見えたみたいです。そんな気遣いが出来るところも、わたしに対する愛情を感じさせて実に愛おしくなりますよね、とわたし最強の微笑みを、ご褒美代わりに。


 「…なんかほっといた方がいい気がしてきた」

 「そんなこと言わなくてもいいじゃないですか」


 せっかくわたしが優しい笑顔を見せたというのに、つれないことを言うものです。


 「だってさ、なんか生温かい笑みに見えて」

 「なんですかそれは…」


 年上扱いされてないみたいで、なんだか面白くありません。わたしは一転してぷくーっとふくれてみせます。みせます、というか実際面白くなくって、少し機嫌を損ねたのですけど。


 「あはは、わりーわりー」


 でも、屈託無く笑う理津の顔を見てると、そんなつまらないことを考える時間がとてももったいなく思えます。わたしは頬をふくらましていた空気をふーっと解いて、ため息のように洩らしました。

 あ、でもなんだか気が抜けたらちょっと眠くなってきたかもしれませんね。そういえば昨夜は、安久利ちゃんの学習内容の準備でちょっと夜更かししてしまいましたし。

 久しぶりに見ると中学生の勉強って、どうしてそうなっているのかを忘れてしまってて、思い出すのに結構さかのぼってしまうんですよね。先生の側がこんなことではいけません。少し伸びでもして、目覚ましをば。


 「…ん、うん……と」

 「ねーさん、眠かったらウメボシでも出そーか?」


 と、正座で両手を上に伸ばしていましたら、理津がお茶をもってきてくれました。

 わたしの前に置かれた湯飲みの中は、深い色をした緑茶です。熱くはなさそうで、さぞかしうま味のたっぷり抽出された、わたし好みのよい加減のようです。


 「濃いめの緑茶に梅干しとは、理津もなかなか渋好みですね。いただきます」


 まさかホントにくれと言うとは思わなかった…と何やら理津は絶句してますが、わたしはこう見えても和食党なのです。茶菓子に梅干しくらいは子供の頃から慣れ親しんでいますしね。

 お茶を煎れていただいている間、さすがに疲れたのか、あぐらをかいたまま後ろに倒れた安久利ちゃんは、そのまま右に左にごろごろ転がっておりました。

 掃除の行き届いているダイニングキッチンですけれど、いくらカーペットが敷かれているとはいっても服が汚れたらよくないんじゃないでしょうか。


 「こら。行儀わりーからやめれ」


 と、思うのは理津も一緒のようです。

 こちらはきっと安久利ちゃんの分と思しき、ジュースを入れたグラスのお盆を手に、転がる安久利ちゃんを素足で止めておりました。


 「ねーちん、足で妹を止めるのは行儀悪いことにならんの?」

 「安久利のジュース持ってるから手が使えんの。ほら、起きて休め」

 「ういー」


 屈託無く起き上がり、安久利ちゃんはいただきまーすと両手を合わせてジュースに手を伸ばしました。これで行儀が悪いなんてことありませんよねえ。


 そして、二人のお母さまの手作りという梅干しの、見た目通りの酸っぱさにわたしは舌鼓をうちつつ味を堪能し、そろそろ二限目を始めましょうか、という頃に。


 「ただいまぁ。ごめんねえ、遅くなっちゃった」


 息せき切って、という具合の声と共に、部屋に入って来られる方。


 「おかーりー、おかーさん。センセ待ってるよ?」


 二人のお母さまがお帰りになったようです。


 「あらあら、ごめんなさいね遅くなりまして」


 お母さまと目が合ったわたしは、失礼のないように会釈でごあいさつ。

 お買い物帰りのようで、お荷物は理津が受け取り、お母さまはお部屋に戻っていきます。


 「お母さん若いわね?」


 二人のお父さまは随分以前に亡くなったとのことで、きっとご苦労なさったのだと思いますけれど、わたしの目にはそんな苦労など無い…いえ、ちょっと失礼ですね。きっと苦労はおありだったのでしょうけど、それ以上に二人の娘のいる生活が悪いものでなかったのだと思えるような、一種の華やかさのある方です。

 娘二人がとても可愛く、きっと美人になること間違い無し、と思えるだけあって、お母さまも綺麗です。お幾つなんですかね、とは聞きませんでしたけど、わたしの率直な印象にも安久利ちゃんは我が事のように、嬉しそうに言います。


 「でしょ?むしろねーちんの方が親みたいなときが…あいたっ」

 「やかましーよ。ほら、かーさんの分のお茶でもいれてきな。あとあーしも座るから座布団あと二枚」

 「いてーな、ねーちん!もー、大人っぽいってほめてたのに…」


 それは流石に理津が可哀想かな、とぼんやり考えながら二人の漫才を眺めてるうちに、お母さまはお部屋から出てきまして。


 「今日は安久利のせんせいにも食べていってもらいましょ?構いませんか、砥峰さん?」

 「え?」


 何故か、そういうことになっておりました。

 いえ、別に構わないというかありがたいお話だとは思うんですけど…な、なんだか距離の取り方に若干遠慮の無い方だなー…とかなんとか。



   ・・・・・



 わたしが安久利ちゃんと二限目の英語の勉強をしている間、お母さまの恵留智えるちさんと理津は並んでお夕食の支度をしていました。

 本人が言うには料理は別に好きでも得意でも無いということなのでしたが、母親と並んでの料理は決してイヤではないようで、いろいろと教えられながら手を動かす理津の後ろ姿は、見てるとわたしもほんわかとしてくる良い眺めなのでした。


 「せんせ、そんなにねーちんのことが気になる?」

 「い、いえ…なんかとてもいい匂いがしてくるなー、って」

 「せんせは食いしん坊?」

 「あはは…どうでしょうかねー」


 無視すんなー、と少しむくれる安久利ちゃんはとてもかわいーですね。


 そして勉強も終わり、わたしはあるいは久しぶりだろう一家団欒に闖入する不粋者の役目を見事果たし、食後のお茶の時間に、きちんとした家庭教師としてのお話をすることになりました。


 「…一回二時間、二千円で週二回、ですか?その、あたしもこういう相場とか分からないんですけど、安すぎません?それくらいでわざわざ勉強を見にきて頂くのも申し訳ないというか…」


 いきなりお金の話をするのも不躾かとは思いましたが、理津が結構気にしてたみたいなので、まずそれを切り出してみたところ、かえって恐縮されてしまいました。安いに越したことはないと思うんですけど…。


 「ええと、そうですね。なんだか調べてみたらやっぱり一時間で三千円から五千円くらいみたいなんですけど、わたしも家庭教師なんかやらせてもらうのは初めてですし、そんなにたくさん頂くわけにもいかないかなって」


 娘さんに会えるのが一番のごほーびだからタダでもいーくらいですっ!!…だなんて、親御さんの前で言うワケにはいきません。当たり前ですが。

 なので自分の不慣れを理由に安く見積もってみました。いえ、不慣れは事実ですしね。

 どちらにしても、お金だけが理由で家庭教師をやらせてもらうわけじゃなく、まいあいでぃーるしすたー、理津の顔を見る…ってだけでもなく、要するにですね。


 「安久利ちゃん、とっても飲み込みがよくってわたしも教えてためになることが多いんです。だから、その分も含めてこのお値段でやらせてもらえればいいかな、って。あ、お家は歩いて来られますから。実はご近所だったんですよ」


 そう。迂闊にも、理津のごとき存在を願い求めてたわたしでしたのに、こんな近くにいたとはっ!…って、最初驚いたんですよね。

 この奇跡の偶然に心から感謝したいところです。エスの神さまに。そんな神さまいるかどーかは知りませんけれど。


 「なので、わたしの負担とかは気にしないでください。いつやるのかとかは、わたしの都合もあるので、毎週何曜日、とはいかないかもしれませんけれど。あ、大学の講義の都合ですけど。大丈夫です、わたし友だちあまりいませんから」

 「…ねーさん、かーさんはそういうこと気にしてんじゃないと思うけど」

 「こら理津。ごめんなさい、娘が失礼で…ああ、では安久利の勉強を見て頂いた日は、うちでお夕飯を食べていきません?」

 「おかーさん、ねーちんの雑なメシ食わせるとかかえって失礼なんじゃ?」

 「おい。言うじゃないか妹」

 「あははー。悔しかったらねーちんレトルトと買ってきた惣菜以外のメシ作れるよーになってみー?」


 わたしとお母さまをほっといて、姉妹の賑やかなけんか…というかじゃれ合いが始まりました。

 正直そちらは気になりますけれど、追加の条件はハッキリ言って渡りに舟です。

 食い気味に思われないよーに注意しつつ、わたしは「わあ、それはわたしも助かります!」と、お母さまの申し出にノリノリで応えました。


 「そうですか…じゃあせめて、そういうことにさせてください。ああそうそう、理津は確かに料理の腕前は…親ながら適当極まり無いものですけれど、あたしがいる時はご馳走させて頂きますから」

 「かーさんまで……もー…」

 「ふふ、じゃあ理津…ちゃんのお料理の家庭教師もやらせて頂きましょうか?」

 「あら、砥峰さんはそちらも堪能なんです?」

 「えー、これでも花嫁修業と称してお手伝いさんには結構仕込まれてますから。任せてください」


 篤子さんはなかなかに容赦ない師匠っぷりでしたけど、この際そのスパルタ教育には感謝しておきます。理津に何かを教えてあげる機会なんか逃すわけにはいきませんしっ!!


 「ふふ、ではお願いします。理津もしっかり教えてもらってね?」

 「えー…そりゃかーさん以外に教えてもらった方が勉強にはなるだろーけどさー…なんか納得いかねー…」

 「いーじゃん、ねーちんも揃ってセンセに教えてもらお?」

 「教えてもらう、ねえ…?」


 わたしを見てなんだか複雑そうな理津です。

 そりゃーまあ、出会いからして不興買いまくってましたから面白くはないのかもしれませんけど、わたし教えることに感しては真面目にやろう、って思ったとこですから不穏当な真似するつもりはないですよ。

 …って、まさかお母さまの前で言うわけにもいかず、「信用してもらって構いませんよ、理津…ちゃん」と言うだけに留めて、話はまとまりました。


 「では早速来週から…ええと、お邪魔する日などはどう決めればよろしいですか?」

 「ああ、それは二人と相談してください。あたしも仕事は入ったり入らなかったりなものですから」

 「分かりました。じゃあ早速…ええと、明後日で構わない?安久利ちゃん」

 「うい。おねがいします」

 「承りました。理津…ちゃんもよろしくね」

 「……はぁい」


 そういうことに、なりました。




 「で、そういうことになったのはいいんだけどさ…」

 「なに?」


 帰り際、こないだと同様にアパートの階段下まで見送ってくれた理津は、なんだか不満を隠そうとしない顔で言いました。


 「なぁんであーしまでねーさんにモノ教わることになってんのさ」

 「やっぱりお母さまに教わりたい?」

 「そーいうわけじゃねーけど…」


 でもお母さまのお料理も、ものすごく手が込んでるというわけじゃないですが要所を押さえてかけた手間と時間の割には、すごく美味しかったと思うんですけどね。

 篤子さんは材料の費用も手間もかけた料理ばかり教えてくれてましたから、お食事を頂きながらあれこれ尋ねて、むしろわたしの方が勉強になったくらいですし。


 「…なんかねーさんはあーしに何かを教えるよーなひとじゃないっつーかー…」

 「……流石に失礼過ぎません?わたしこれでもあなたより…えーと、二つは年上なんですけど」

 「とてもそーは思えない」


 ばっさりでした。

 手すりに錆の浮いた階段を降りきったところで、わたしはショックでぐらりと体が揺れます。


 「…まあでも」


 そんなわたしを見て理津は、慌てて取り繕うように付け加えます。


 「お姉様と呼べ、とかキモいことを言うよーなひとにしては、ちゃんとやろうとしてるのは分かった」

 「そ、それはどうも…」


 うう、文句の一つも言いたいところなのですけど、褒めてにっこり笑われるとそれも言えなくなってしまいます…ほんと、この子年上キラーというかわたしのツボにどすとらいくな顔で、困ります。


 「まー、そういうことだからさ。カテキョの日はなるべくあーしもいるようにしておく。安久利にヘンな真似されたくねーし」

 「しませんよ、そんなこと…もう」


 刺して気遣って、気を許したかと思えばこの仕打ち。それでも嬉しくなってしまうわたしはなんだかイケないものに目覚めてしまいそうですね…。


 「…んじゃ。気をつけて帰って、ねーさん。この辺は妙なのも出ないから大丈夫だとは思うけど」

 「怖くなること言わないでください。っていうかご近所だって言ったじゃないですか。別に心配されなくても平気ですよ」

 「ん。またね、ねーさん」

 「……はい。おやすみなさい、理津」


 きつめの顔立ちで、ほにゃっと笑う理津。

 そんな笑顔がなんだかとても眩しくて、わたしは彼女を抱きしめて「いい子ね、理津…」とかやってしまいたくなる衝動を辛うじて堪え、そして家路につくのでした。

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