第2話・お姉ちゃんの日々

 「ねーちん、ベンキョ教えてくれん?」


 妹の安久利あぐりが膝すってにじり寄りつつ、言ってきた。

 2DKとはいっても古いアパートだし、畳はボロ。かーさんにはズボンがすり切れるからそれは止めろと言われてるのに、安久利はやめようとしない。いやまあ、中学から帰ってきても制服のまんまでいるのだから、ズボンの心配はしなくてもいいんだけど。


 「勉強ねえ。あーしだってひとに教えられるほど成績よくねーし、友達とかセンセーに聞けばいんじゃね?」

 「せんせーズはなんか忙しそうだし、フレンズは部活で暇ねえもん。ねーちんが一番適任だとおもーけど」


 んなこと言われてもねえ…とあーしは、年季の入った鍋の中身をお玉でかき混ぜる。今日は母親が夜勤なので、飯当番はあーしなのだった。

 といって、料理は得意でも好きでもない。スーパーの見切り品の惣菜と大分しおれかけてきたほうれん草で作ったおひたしに、具の少ない味噌汁を作るくらいでいっぱいいっぱいだ。味噌汁にしたって、出汁入りの味噌を溶いただけだし。


 「塾にでも行けばいんじゃね?安久利は勉強好きなんだし」

 「うちにそんなお金ないじゃーん。かーさんは一生懸命働いてくれっけど、ねーちんが大学諦めないといけないくらいなんだから、無理は言えないよぉ」


 出来た妹だなあ、とあーしは鍋をかけたコンロの火を止めて、足下で膝立ちしてた安久利の頭を撫でてやった。これくらいしか出来ない姉でふがいねーのだけど、安久利はくすぐったそうに喜んでいたから、まあ姉らしさは発揮できたんだと思う。


 うちは、母とあーしと妹の安久利の三人家族だ。

 父親の顔は辛うじて覚えてる。なんかいつも疲れた顔した冴えないひとだった。長距離のトラックドライバーやってて、安久利が生まれて三歳の頃、過労死したらしい。

 父親の勤め先は経営が苦しくて、労災の認定は降りたらしいけど会社は大して補償もしてくれなく、その後ほどなくして潰れたらしいから今となっては恨み言を言うくらしか出来なくて、母親は安久利を生んでから休んでいた看護師の仕事に復帰して、あーしと妹を育ててくれた。


 暮らしは楽じゃない。

 二人揃って大学までやれるような裕福なモンじゃないから、高校を卒業したら就職するつもりだ。

 代わりに、あーしに比べれば勉強の好きな安久利を大学に行かせてやりたいなあ、という希望はあるから、別に暗い暮らしぶりでもねーし、そこそこしあわせに生きてるとは思うのだ。


 「だーれかベンキョ教えてくれるひとおらんかなー…」


 ひとしきり髪を梳くように頭を撫でてやると、安久利は満足したのか立ち上がってちゃぶ台に戻っていった。宿題なんかなくても自発的に勉強はしてる様子なので、続きでもするのだろう。

 あーしは、そんあ妹の背中を眺めながら、今日出会ったキテレツな女のことをなぜかふと思い出していた。



   ・・・・・



 「…ごめ、アンタが何言ってるか分かんない。つかフツーにキモい。マジ無理」


 突然、自分のことをお姉様と呼べ、とか言われてする反応としてはごくごく真っ当なものなんだろうけど、そう言われた女はえらくショックを受けたよーな顔になっていた。つか、そんなツラされて自分が悪いことをした気分になるのは、えらい理不尽じゃないのか。


 「キモい。無理」


 なので、そういう謂れのない後ろめたさを振り解くために追い撃ちをかけておく。

 ついでに言えば、この女あーしのことを再三「ギャル」呼ばわりしてくれた分の、反撃でもある。いや、ナリを見てそう思われるのは仕方ねーとは思うけど、本職のギャルと違ってこっちは身持ちはかてーし、夜遊びなんかしたこともねーとくる。

 今どきフツーのカッコしてるだけだと思うんだけど、どんだけ育ちがいいのさ、この女。


 あーしの二言目に絶句してる女の顔をよく見てみる。

 化粧は薄く、ごく上品に、最小限に、という感じだ。

 あーしよりも背が低いのは、単にこっちの身長が平均よりだいぶ上いってるからだから、とりたててチビこい女というわけでもない。

 サラサラとした黒髪はいっそ羨ましくなるくらいで、それが肩の下まで伸びてるとこなんか、いかにも「おじょーさま」って感じだ。

 全体的に清楚系な美人、て感じではあるけどなんか印象薄くて、こンだけインパクトある出会いだっつーのに今晩にはもう顔も忘れていそう。


 (けっこーモテそうなツラしてんのに、性格が残念っぽいヒトだなー)


 要するに、かいつまんで言ってしまえば、あーしの感想なんてこれっくらいのモンだった、ということだ。


 「んじゃ。あーしはこれで」


 なんで、ぼーぜんとしてるのをこれ幸いと、手に持ってたスマホの画面に目を落とし、女のわきを通り抜けようとしたんだけど。


 「ちょっ、ちょっと待ってっ!」


 …したら、今度は襟首掴まれたりはしなかったものの、横から割と必死めに呼び止められて、さすがのあーしでもウンザリと…まあ無視したわけなのだ。


 「……」

 「あのっ!…その、ごめんなさい、失礼な真似してしまって!」

 「……」

 「えとえと…おっ、お詫びにはならないけどそのー……お姉様と呼んでもいいですかっ?!」

 「………」

 「…じゃなくてその…えととにかくごめんなさぎゃんっ?!」

 「え?」


 早足の歩きスマホで立ち去るあーしに無視されっぱなしだった残念女は、けったいな悲鳴を上げてすぐ横にしゃがみ込んでいた。ごてーねーに額に両手を当ててぷるぷるしてるし。

 見ると、あーしのすぐわきに電信柱が立っていた。よーするによそ見してたらこの物体にぶち当たった、ということなのだろう。てんばつてきめん、と言えるほどのひどいことをされたとも思えないので、いちおう「ダイジョーブっすかぁ?」とまだ肩をふるわせてる女に声をかけてみた。


 「ううっ…だ、だいじょうぶ、だいじょうぶっ!わたしお姉様だからっ!!」


 したら勢い良く立ち上がり、あーしを安心させよーというつもりなのか、笑みなんか浮かべながらそう言ってのける姿はまー、健気と言っていいかもしんない。おねえさま云々の寝言には一切同意できねーけど。


 「…アタマ、ダイジョーブっすか?」


 我ながらこの言い方はどーかと思うのだけど、悪気はない。いや、あったとしてもこっちにはそれなりに正当な理由っつーもんはあるはずだ。


 「……っ!………っ!!」


 などと誰に対してなのかよく分からん自己弁護をしてはみたけど、立ち上がってにっこりしたかと思ったら痛さがぶりかえしたのかまた片手で額を押さえ、反対側の手で電柱に恨みをこめてビシバシ叩いている姿とゆーのは…。


 「…わりとかわいーっすね、おねーさん」

 「ええっ?!」


 うん、まあ、あーしに対するアレな言動を無視すれば見てて退屈しないヒトだ。

 そう言われてなんかまた照れたよーに挙動不審になるとことか、あーしより背が低いこともあって、安久利とはまた違ったかわいさがあるとは思う。


 「…あ、ありがとう…でも、でもわたし『おねーさん』じゃなくて『お姉様』…」

 「じゃっ、そーいうことで」


 だからといって調子にのらないで欲しい。どんな趣味してんのか知らねーけど、これ以上巻き込むんじゃねーとばかりに、あーしは片手をしゅたっと掲げて今度こそこの場を去ろうとする。


 「待って待ってっ!お姉様は諦めるからせめてこれ持っていって!」


 えー…この期に及んでまーだナンか絡んでくるんかー…と、うんざりはしたけれど、そこそこ必死な態度だったので、気圧されたよーに胸元に押しつけられたちっさな紙を受け取ってしまう。


 「…何なんですかコレ」

 「連絡待ってるからっ!じゃっ!」

 「あちょっ……おーい……」


 それだけで満足したのか、残念女は今し方あーしがしたように片手を上げて回れ右をすると、こちらの困惑など知ったことかみたいな勢いで小走りに去っていってしまったのだ。自分がやってきた方角なんだけど、いいんかな。


 「…まー、あーしが心配することでもねーか、って、コレなんだ?」


 何があったのか整理する間も無く、手に持っていた紙片に目を落とす。

 そこには携番とLINEのIDが書いてあって、名前の方も。


 「何て読むんだ?ええと…確か、トノミネ、アノ、とか言ってたっけ……妙な名前だなー」


 砥峰阿野、と書かれた字をどう読むのかわからず、そういえばとさっき名乗った名前を漢字の下に書かれたローマ字で再確認。

 名刺なんてものをもらったのは、去年にどっかのファッション雑誌の記者みてーなヒトに街中で渡されて以来だったけど、そん時と違ってなんともファンシーっつーかキャピってるっつーか、薄いピンクと黄色の目立つ、なんか「ブッてんなー」と思わずにいられないモノだったりする。


 「にしても、若い女のヒトが連絡先書いたもの他人にほいほい渡すとか用心の足りないねーさんだなぁ」


 こちらが若い男だったら逆ナンになるよーな真似を進んでするようには見えないヒトだったから、いくらなんでも道端に投げ捨てるわけにもいかず、その時はあーしも仕方なしに制服のポケットに名刺を入れて、妹の待つ我が家へ帰っていったのだった。



   ・・・・・



 「ねーちん、物思いにふけって、どした?オトコのことでも考えてた?」

 「チューボーがナマ言ってんじゃねーの。つーか食べ終わったんならさっさと皿片付けな。かーさん今日は遅いんだから、早く片付けないと」

 「うい。ごちそーさま、ねーちん」


 安久利は口の利き方はぞんざいだけど、根はいい子だ。あーしの言いつけに従ってちゃぶ台のうえの自分の食器を片付けると、風呂の掃除に向かっていった。

 あーしは台所の流しにひととおり皿をはこび、水を張った桶に油ものに使ってない食器を浸けると、居間の壁のハンガーにかかった二人分の制服を下ろしてブラシをかけておく。今日はなんか乾燥していたせいか、街中が妙にほこりっぽく、あーしのも安久利のも汚れを落としておかないと、と夕食の前に思っていたのだ。


 「…ん?あー、忘れてたなー…どーしよ、これ」


 まずは安久利の制服を、続いて自分のをすっかりキレイにしたところ、ポケットの中に入れっぱなしになっていた、昼間押しつけられた名刺のことを思い出した。というか、ポケットに中に何か入っているのに気付いて、引っ張り出した。

 あーしにこれを差し出したあの残念女のことは…あー、うん、ギャル呼ばわりはさておくとして(そーいう見られ方をしてる自覚はあるし、見られるだけなら別に不満はないのだ)、自分のことを「お姉様」と呼べ、とかズレたとゆーか図々しいというか、またヘンなことを言うモノだ。


 「とは言うもののなー…あれ、ほっといたらまた同じようなところで同じよーな迷惑振りまくんじゃないだろうな…」


 あーしに対して何か含むようなところがあったとは思えない。なにせ、初めて見た顔なのだし。

 けど、誰彼かまわずあーいう真似をしてたらそのうち痛い目でも見そうだ。知ったこっちゃないとは思うのだけど、あーいうキレイな女の人がひどいことになってるかもしれない、というのは落ち着かない気もする。

 …白状しよう。このときあーしは、あのキテレツな女に興味を持っていたと言えるのだ。それが悪い意味で、なのか良い意味で、なのかはまあ別として。


 「…あぐりー、ちょっとこっち来ーい」


 しばし考えてのち、風呂掃除が終わったらしい妹のことを呼ぶ。


 「んー、なに?ねーちん」


 素直ないーコの安久利は、姉の呼びつけにも反抗することなく、興味しんしんとゆー顔つきでやってきた。うむうむ、では今からねーちゃんが、かわいー妹のために世話をやいてやろう。


 「あんさ、あんた勉強教えてほしーってたじゃん。かてきょー要らん?」

 「かてきょー?家庭教師?ねーちんそんなコネあんの?ていうかお金かかるんじゃないの?」


 あーもー、この期に及んで出来た妹だなあ、こいつはー。そんな心配しなくていーんだよ。だってさ…。


 「だいじょーぶ。タダで…は流石にわりーけど、格安でかてきょーやってくれるアテがあんのだよ、ねーちゃんには」


 その言葉を聞いた時の安久利の顔といえば、このコの姉やってることが誇らしく思えるくらいに、キラッキラしたものだった。

 でもそれを見て、あーしは僅かに胸がチクリと痛んだものだ。それが、すこーしばかり後ろめたい手段でかてきょーを調達したことに対するものなのか、これから言いくるめることになる相手に対してのものなのか、そこンとこはよく分からなかったんだけれど。

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