エルケという女性

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 ──エルケという女性



 エルケは裕福な家庭に生まれた。


 祖父の代から続く大企業の令嬢。“国民連合”に輸出する自動車部品の製造に関わる企業で、モータリゼーションの進む各国に“国民連合”が自動車を多く輸出するのに、エルケの祖父の企業も大きくなっていった。


 祖父から社長の座を引き継いだ父は若くして肺がんでなくなった。煙草も吸わない父が何故とも思ったが、死は受け入れるしかなかった。


 社長の座は母が代わりに務め、彼女は“国民連合”から投資を呼び込み、会社をさらに大きくしていった。


 だから、エルケは金に不自由したことはなかった。望むものは何でも手に入った。


 少なくとも金で買えるものは。


 父が肺がんになって金で買えないものがあることを思い知った。父の肺がんは切除できず、転移し、副作用の強い化学療法を行うしかなかった。それでも父はやせ衰えていき、かつての優し気で、頼もしい姿はなくなり、最後には死んでしまった。


「私、薬を作る仕事に就きたい」


 初めて自分の意志で先のことを考えた。


 これまでは両親に言われるままに他国の言語を学び、音楽を学び、芸術を学び、あらゆることを学ばされてきた。立派な社長令嬢となれるようにと、両親たちは社交界で通用するようにエルケを育ててきた。


 エルケはそれを嫌がったわけではないが、それは自分の意志ではなかった。


 だが、薬を作る仕事に就きたいと思ったのは、明白な自分の意志だった。


 父のようにがんで死んでいく人々を見てきた。父の病院を訪問するたびに、同じような病気を患った患者たちを見てきた。だから、そういう人々のためにできることがあるならばやりたい。そう思った。


 母は最初の内は渋っていた。


 1970年代は女性はまだ家で家事をするものだという価値観が強い時代だった。エルケの母も女性経営者ということで、同じような立場にある男性たちから嘲りと蔑視を受けてきただけに、娘にまで同じような思いをさせたくはなかったのだ。


 それでもエルケは薬学の道に進みたいと願った。


 高校では必死に勉強し、男子生徒たちよりもいい成績を取り続けた。


 それで母もそこまでの覚悟があるならばと、エルケを“連邦”の大学の薬学部に進ませることに同意した。


 だが、母の懸念していたことは的中した。


 薬学部で優秀な成績を収め、飛び級までしたエルケに周囲の男子学生はいい顔をしなかった。教授たちもその嫉妬に加担していた。わざわざエルケに難しい化学反応の化学式を解かせて男子学生たちに言うのだ。『お前たちは女の子にすら負けるのだな』と。


 エルケはただただ夢のためを思って耐え続けた。


 教授のひとりはエルケの味方をしてくれた。彼女を研究室に招き、進路の相談に乗ってくれた。神様がめぐり合わせてくれたように、その教授の研究室では副作用の弱く、それでいて効果のある抗がん剤の研究を行っていた。


 エルケは救われた気分になったが、それはその教授の研究室にいる間だけだった。


 男子学生たちはひそひそとエルケの陰口を叩き、女のくせにと母が他の経営者たちから浴びたような嘲りと蔑視を受けた。


 だが、夢のためだ。それに本格的に研究職という男の世界に飛び込みたかったら、これぐらいでへこたれてはいられない。女性の研究者は女性の経営者と同じように軽くみられる。目立つ成果を上げなければ、一生有力な研究テーマを扱えない。


 これが“国民連合”ならまだマシだっただろう。“国民連合”では女性の公民権運動が進み、男女平等の理念が呼吸を始めていた。もっとも、それでも女性研究者にとっては優しい世界とは言えないが。それでも1950年代から世界は進んでいる。


 エルケは夢のために頑張り続けた。だが、エルケも人間だ。時には落ち込む時もある。講義で間違った回答をしてしまった時、男子学生が叱られるよりも酷く叱られたのは、エルケにとって落ち込む原因だった。


 そんなときだった。エルケのあまり好まないヒッピー染みた学生が声を変えてきたのは。その学生はエルケと話がしたいといい、彼女を駐車場に誘った。


「君、随分と辛い思いをしてるんだって? 俺には辛いことを忘れられるものがあるんだけど、どう? 最初はサービスするよ」


 それを聞いてエルケはすぐにスノーホワイトのことだと分かった。


 スノーホワイトの出涸らし。通称ホワイトグラス。煙草状に加工されたドラッグで、主にゲートウェイドラッグとして出回っている代物。


 薬学部では全体講義でスノーホワイトの危険性について学び、その非合法性と危険性について学ぶ。また麻酔学ではスノーホワイトの歴史を読み解いていくうえで、先住民族が手術の際の麻酔にスノーホワイトを使用していたことを教えられる。そして、その副作用と中毒性についての歴史も教わった。


 だから、スノーホワイトが危険なことはエルケは十分知っていた。スノーホワイトの出涸らしであるホワイトグラスはゲートウェイドラッグだ。それそのものの中毒性や精神に与える影響は低くても、いずれホワイトグラスの刺激だけでは満足できなくなり、より毒性の強いドラッグに手を出してしまう。


 断らなければならなかった。売人からスノーホワイトを買ったら、大学はエルケを退学処分にするだろう。そうでなくてもドラッグに手を出すのは間違っている。


 分かっていた。分かっていたはずだった。


「じゃあ、一袋だけ」


「5ドゥカートね」


 ホワイトグラスはびっくりするほど安かった。


 エルケは購入したドラッグを鞄の底に隠し、そのまま借りているアパートメントまで持ち帰った。そして、じっくりとそれを見つめた。


 これを吸えばどうなるのだろうか。


 いろいろなことから楽になれるのだろうか?


 それともドラッグ中毒者がそうであるように幻覚が見えて錯乱し、頭がおかしくなってしまうのだろうか?


 楽になりたいとは思っていた。大学の日々は楽なものではない。


 だが、ドラッグに手を出すのか?


 エルケはじっとホワイトグラスを見つめ続けて悩んだ。


 そして、決意した。やってみようと。


 ホワイトグラスを扱うのに専門知識も道具もいらない。マッチかライターがあればいい。後は煙草のように吸うだけだ。


 エルケは恐る恐るホワイトグラスを口に運び、マッチで火をつけた。


 煙を吸い込み、最初はせき込んだ。次は落ち着いて吸い込む。


 どうだったか? 悩みのことは忘れられたか?


 悩みのことは一時的に忘れられた。確かに楽になる。


 だが、これは非合法なドラッグだ。


 安かろうと、一時的に悩みが忘れられようと、もう二度と手を出してはいけない。


 エルケはそう心に誓った。


 自分は夢を叶えるのだ。製薬の仕事に就き、がん患者を救うために頑張るのだ。


「ごめんなさい。待った?」


「いいや。さっき来たところ。案内するよ」


 “国民連合”製のSUVに乗ったアロイスはエルケを大学の正門で拾った。


 アロイスはエルケを連れていく。ドラッグパーティーに。


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