白い少女と灰色の男

「……馬鹿な人」

 エリザベートは、静かにそう呟いた。

「これでも私、忠告したんですよ」

 彼女は誰もいない屋根裏部屋を片付けていた。

「……昨晩は、飲まなかったんですね」

 酒のボトルを持ち上げてその重さを確かめて、彼女はぽつりと呟く。

「これを飲んで、おとなしく寝てさえいれば、きっとこんなことにはならなかったのに」

 ボトルに入っていたのは、ラベルの通りの、さして強くもない酒。そして──睡眠薬。

 忠告はした。

 それでも彼が退かないであろうことは薄々わかっていた。

 ゆえに、彼女はいわば保険として、睡眠薬入りの酒を仕込んでいた。

 ──目を閉じて、耳を塞いで、やり過ごす。

 なかば強制的に眠らせてしまえば、同じこと。

 深夜に誘い出されさえしなければ、魅入られさえしなければ、白い少女と対面さえしなければ。

 彼の身に危険が及ぶことはないと、わかっていたから。

「これでも私、嬉しかったんですよ。昨日、貴方が無事に朝を迎えられたことが」

 そんな彼女のささやかな抵抗は、しかし結果的には虚しいものに終わった。

「もしかしたら貴方なら大丈夫かもしれない、なんて、期待させないでくださいよ……」

 エリザベートはカメラにそっと手を添えた。

 傷だらけのそれは、夜の間に忽然と姿を消したカスミ・カッツェのもの──だったはずのものだ。とある路地に落ちていたそれを、彼女はこの日の明け方に拾ってきていた。

 各所が割れてしまっているカメラは、新たな撮影に耐えうる状態でこそなかったが、撮影済みのデータは無事残っていた。

 それを確認して、彼女はここにはいない赤毛の記者へと語りかけた。

「……業腹ですが、よく撮れていますね」

 かつての城塞都市の面影を色濃く残す、シャッテの街並み。

 霧に覆われた、夜の街。

 迂闊に足を踏み入れたら別の世界へと誘い込まれてしまいそうな路地。

 月明かりに照らされ、闇からにじみ出るようにして浮かび上がり佇む、白い少女。その表情を窺い知ることはできないが、しかしどこか笑っているような──否、わらっているような雰囲気を纏っていた。

 異質な雰囲気の少女の周囲に点々と居並ぶ、灰色の影。

 写真に目を落とす彼女の口から、どうすれば、と言葉が知らずこぼれ落ちる。

「私はいったい、どうすれば良かったのでしょう」


 実のところ、この街で起きている怪異の正確な成り立ちやその全容を、エリザベートは知らない。

 白い少女と灰色の男たちの出現が、彼女の姉であるエリスの死の後の出来事であること。

 そして、灰色の男たちが元は生きた人間であり、白い少女の傀儡かいらいであること。

 彼女が確信できているのは、その程度だった。


 母ことニュクス・ベッカーを知らないエリザベートは幼い頃、エリスに母親の面影をいだしていた。

 姉がそれをどう思っていたかは、今となってはわからない。残酷なことをしていたのかもしれないと今となっては思うが、しかしエリザベートのそれはあくまで無邪気な幼心ゆえのことで、致し方ない部分があったのは確かだった。

 しかしニュクスの面影を重ね、あまつさえその役割を演じることを求めた者が、もうひとりいた。

 ヴィクトール・ベッカー。

 エリスとエリザベートの父にして、ニュクスの夫である彼は、ニュクスと生き写しであったエリスのことを、いつからかニュクスの代用品と見做みなしていた。

 いくら妻が早逝した喪失感に耐えられなかったとしても、彼の行いは到底擁護できないことである。

 彼はいつも、彼の思い出の中のニュクスをエリスに求めた。

 髪型に服装、言動に立ち居振る舞い。

 彼にとってエリスとは、娘ではなくであった。

 彼がエリスに何をどこまで強いていたのかまでは、エリザベートは知らない。

 無知で無垢だったエリザベートは、気付くことができなかった。あるいはエリザベートをおもんぱかり、同時に口外されることを恐れて、努めて隠していたのかもしれないが。どうあれいびつでおぞましい家族関係を、エリザベートはそうと知らないまま享受していた。

 ──せめて気付いて、私だけでも寄り添えたら良かったのに。

 エリザベートのそんな後悔は、今もなお消えない。


 エリスの死の詳細を、エリザベートは知らない。

 怪死、変死──とにかくむごたらしい死体が、とある路地に打ち捨てられていたのだと聞かされたのみである。

 エリザベートが取り立てて姉の死に無関心だったというわけではない。正確には、今も公的にはエリスの死は真相不明とされているのだ。

 性的暴行の果ての死、猟奇殺人、マフィアによる臓器狩り、悪魔崇拝者やカルト教団のたぐいに生贄にされた──など、当時は様々な憶測が飛び交っていたことを、エリザベートは覚えている。

 彼女は、エリスの死について、ヴィクトールの関与を疑っていた。

 関与それが直接的か間接的かまではわからなかったが、経緯も動機も、彼女にはいくらでも推測できた。


 ニュクスを演じることをエリスが拒否したために、揉み合いの末死に至った。

 エリスが演じるニュクスを認めることができず、完璧でないニュクスに苛立ったヴィクトールが殺してしまった。

 肉体関係を強い、抵抗するエリスを押さえ付けている間に死なせてしまった。

 歪でおぞましい家族関係に耐えかねたエリスが自死を選んだ。

 亡くなって久しいの復活を試みるべく、エリスを素体や生贄として使──……。


 誰かに話したところで、荒唐無稽と一笑に付されてしまうかもしれない。しかしヴィクトールのこれまでの行いを鑑みるに、どれも全く有り得ない話ということはないと、エリザベートは結論付けていた。


 しかし、結局エリザベートは、エリスの死の真相についてヴィクトールに話を聞く機会を、おそらくは永遠に失った。

 あの路地に──ヴィクトールはそう繰り返し、エリザベートが止めるのも聞かずに深夜に家を出た。

 そして、翌朝顔を合わせた時には、父は既に


 生きているのかそうでないのかさえ定かではない、生気のない抜け殻。

 おおよそ人間らしい意思を失い、しかし健在だった頃の動きをなぞるように、毎日決まった時間に生業なりわいとしてパンを焼く。

 以前とは異なり、毎晩決まった時間にふらふらと家を出ていく。

 魂の色が失われ、ニュクスやエリスへの妄執さえ色褪せた、灰色の男。


 どうやら母や姉の代わりとして憂き目に遭う心配はないらしい、と気付いた時には、心のどこかでエリザベートが安堵したのもまた事実である。しかしそれ以上に、変わり果てた父があまりにも不気味だった。

 ──父はいったい、

 明確な答えは依然掴めていないが、しかし彼女はほどなくして、その鍵となる存在を認識した。


 白い少女。

 家を出た父がふらふらと向かう先にがいるのが、夜半に自室の窓から外を眺めた際に目に入った。


 ──

 最初に抱いたのは、そんな感想だった。

 ──私に……いや。エリスに、そしてニュクスに。


 実のところ、が死んだエリスの成れの果てなのか、エリスを代価にび戻されたニュクスなのか、両者が入り交じった存在なのか、どちらでもないが彼女らによく似た皮を被っているだけなのかはわからない。

 どうして、そしてどのようにしてが現れたのかも、エリザベートは知り得なかった。

 ただ、他ならぬヴィクトールの業が、何かとんでもない存在を生み出してしまったらしいということだけは、確かだった。


 エリザベートとて、何もせず手をこまねいていたわけではない。

 街に夜明けが訪れてすぐに、彼女は街の教会へと駆け込み、ミヒャエル・ワインバーグ牧師に白い少女の出現と父の異変について、必死で訴えた。

 牧師は彼女の話を親身に聞き届け、怪異の正体を見極め、正しく悪霊追い出しを行わんとした。

 夜を待って白い少女が現れる路地へと向かい──そして彼は、翌朝にはヴィクトールと同種の存在灰色の男となっていた。

 外見が変わるわけではない。

 行動も、大きくは変わらない。

 牧師は、いつもの通りに教会に出入りし、礼拝を執り行った。神の言葉や主の教えを説きさえした。

 しかし、何か決定的なものが変質してしまっていた。

 生きているのか、そうでないのか。以前の彼らの人格や自我がどこまで残っているのか。そもそもどこまで本人と言えるのか。完全に別の存在に成り代わられていはしないか。

 考えても、答えは出なかった。

 しかし少なくとも、そこに魂があるようにはどうしても思えなかった。


 彼らは白い少女の傀儡で、そして餌だった。

 エリザベートが白い少女を魂喰らいの怪異と呼称し、その脅威を周囲の住民に訴えても、灰色の男たちはその噂を否定し、歪めていった。

 ──あくまで噂は噂。多感な年頃の少女の、取るに足らない妄想である。

 ──魂喰らいの怪異は灰色の男のほうである。犠牲者か、正しい道への導き手かまではわからないが、白い少女はあくまでも無害である。

 発言力のある大人──それも牧師までもがそのように言うのだ。

 エリザベートの主張は、吹いて飛ぶように掻き消され、歪められた。

 ──牧師こそが灰色の男のひとりである。

 エリザベートとて、心底そう糾弾したかった。

 しかし、ミヒャエル・ワインバーグ牧師に対する街の住民の信頼は厚かった。そんなことをしても無意味だと──それどころか、下手にそんなことをすれば白い目を向けられるのは自分のほうであると、わかっていた。

 ゆえに、できなかった。

 注意喚起をしようにも、何を発信しても灰色の男たちに情報を歪められ、歪められて広まった情報が余計な興味を惹いて、かえって犠牲者が増える。

 ──この街で起きている怪異の正確な成り立ちも、その全容もわかっていない以上、そもそも彼女は語るべき言葉を持たない。

 そんなジレンマから、彼女はいつしか口をつぐむことを選ぶようになっていた。

 そうしている間にも、犠牲者はますます増えていった。

 シャッテの街は、緩やかに死んでいった。

 灰色の男たちは、まるで行動を操る寄生生物に寄生されたかのように行動した。彼ら自身が白い少女に夜毎よごとを喰われる餌であり、そして白い少女にとっての新たな餌を彼女のもとへと誘引するための餌でもあった。

 個々の灰色の男が、そのを喰らい尽くされた時にどうなるのかは、わかっていない。

 ──想像も、したくなかった。


 ツェントの記者がこのシャッテの街に、魂喰らいの怪異の取材に来る。

 そう聞いた時のエリザベートの気分は最悪だった。

 記者個人の身も心配だったが、それ以上に彼女は被害の更なる拡大を危惧していた。

 ──知りうることをすべて話して無事に記者を帰らせても、記者が記事を書けば、それに好奇心を煽られた者たちが物見遊山感覚で訪れ、犠牲者が増えるだろう。

 ──記者が怪異に取り込まれて姿を消せば、それこそ世間がただではおかない。出版社の人間や警察が動き、話が大きくなるだろう。

 ゆえに彼女は、最低限の忠告を行い、詳細は黙して語らないことを選んだ。

 記者の安全の確保とあわせて、記事の材料が極力記者に渡らないようにするべく、睡眠薬入りの酒を仕込みさえした。

 せめてもの抵抗は、しかし結果的には徒労に終わった。

 少女は、あまりにも無力だった。


「……」

 片付けを終えた彼女は窓際へと歩み寄り、外を眺めた。

 家々の照明が消え、街の誰しもが寝静まっている、そんな時刻。

 ぽつりぽつり。

 のろのろ。

 ぞろぞろ。

 夜霧に紛れるようにして、灰色の男たちが、今宵もまた白い少女のもとへと向かう。

 その中に、エリザベートは彼女のと、と、そしての影を見た。

 父は、牧師は、赤毛の記者は、もうどこにもいはしない。


「……さようなら」

 誰にともなく、少女は小さくそう呟いた。

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