記者と少女

「ふー……」

 こちらの部屋を使ってください、と案内された一室。

 よく整頓されているがうっすらと埃っぽい、生活感のない屋根裏部屋を見回しながら、俺は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 手紙の送り主、ヴィクトール・ベッカー氏。

 この家の一階部分でパン屋を営む彼は、何と言うべきか……失礼を承知で言えば、少し不気味だった。

 造形の話だけで言えば、大柄で彫りが深く、若い頃はかなりハンサムな印象だったのではないかと思うのだが。少なくとも現在の彼は、ナイスミドルと言うにはどうにも生気がなかった。

「うちのパンで良ければ、滞在中はどれでも好きなものを食べていくといい。手紙を送った身で言うことではないが、私は実はあまりこの街の怪異とやらには詳しくなくてね。昼の聞き込みも、夜のも、静かにやってくれれば構わないよ」

 先程直接挨拶した際にそう言ってくれたあたり、悪い人ではないのだろうが。物腰こそ丁寧だが、あまりにも淡々としていて起伏がない。果たしてこれを穏やかな紳士と言い表して良いものかと、若干迷うところである。

 白髪の混じった灰色の髪。エリザベートと同じ緑がかった灰色の瞳には、どこかくらい光が宿っているような気がして。

 手紙をくれた彼自身が、噂の灰色の男をどこか彷彿とさせた。

 やめやめ、と首を振り、寝床の貸し主に対する失礼な憶測を頭から追い出して、俺は上着と荷物を置き、窓際へと歩み寄る。

 夕陽に照らされて赤く染まる街並みは、美しくもあり、どこか恐ろしくもあった。

 非日常の感慨に浸りながら、俺は先程取り出しておいたカメラたちをセットしていった。

 動画を撮影してもいいのだが、そもそも本当に出現するのか、何時頃なのか、この窓から見えるのかさえもわからないうちから、いたずらに撮っても仕方ないだろう。確認にも手間がかかるし、もし機材が壊れでもしたらたまったものではない。

 今日は安いカメラでインターバル撮影をして、それを今後の調査や撮影の足掛かりにするのがいいだろう。

 そう思いながら準備をしているうちに、空腹感と長旅の疲れが襲ってきた。

 パンを買うべく、部屋を後にする。

「あ」

「……」

 階下で購入したパンの入った袋を抱えて部屋へと戻る途中、階段の踊り場で、エリザベートと鉢合わせしてしまった。

「……忠告、忘れないでくださいね」

「それなんだけど……」

 俺は頭を掻いた。

「俺にも後に退けない事情があってね。なるべく危ないことはしないつもりだけど、手ぶらで帰るわけにはいかないんだ。上司──イレーネ・ジョゼットっていう女の人なんだけど、その人に怒られちゃうからね」

 実際には見放され、放逐されるといった表現のほうが相応しいのだろうが。

「……そうですか」

「もし心配してくれているなら、教えてくれないかな。灰色の男と、そして白い少女について。なんでもいい、知っていることを」

 俺の問いに、しかし彼女は忌々しげに首を振った。

「知らない。……知りたくもない」

「でも。それじゃあっていうのは、いったいどういう意味だったんだい?」

「さあ。……とにかく、私がすべきことは、もう終わりました。私が言ったこと、あれがすべてです。……そうでなくともこの街は夜霧が濃い。安易な考えで出歩くことはお勧めしませんよ」

 すげなくそう言って、二階の──おそらくは自室へと去っていったが、彼女は意味なくそういうことを言うタイプにはとても見えない。

 きっと彼女は、

 確信に近い感覚があったが、結局俺は先程の踊り場での邂逅を最後に、彼女と顔を合わせることなく一日を終えたのだった。


   ◆


「──……」

 朝の陽光で目を覚ます。

 自宅の寝室とは異なる様相の部屋に、俺は寝惚ねぼけた頭を一瞬はてと傾げたが、灰色の男と白い少女の噂を調査しにシャッテに来ていること、そしてヴィクトール・ベッカー氏の家の一室に泊まっていることをすぐに思い出した。

 パンを購入して部屋に戻った時、サイドテーブルに見覚えのない酒のボトルが『差し入れです』というメモと共に置かれていたので、俺は遠慮なくパンと一緒に頂いたのだが。どうもそれのおかげで眠くなってしまったらしかった。

 家主のパンは美味しかった。なるほど繁盛しているのも頷けるというものだ。

 寝具は少しばかり埃っぽかったが、普段俺が家で使っているものよりも明らかに上等で、ふかふかと柔らかく、ぐっすりと熟睡してしまった。俺が帰った後に仕舞い込んで使わないということであれば、持って帰りたいぐらいだ。

 ──そうだ、カメラは。

 のそのそと起き出して窓際へ歩み寄り、カメラたちを確認する。

 壊れてはいないようだ。

 なるべく引きで撮ったカメラのデータから確認していく。

 ……なるほど夜霧が濃いというのは本当らしい。霧に覆われた夜の街は、美しくもあり少し不気味でもあった。

「……なんだ?」

 一枚一枚目を凝らして観察してようやく気付いた。

 ちょうど深夜に差し掛かった頃のデータから、建ち並ぶ家々の前に霧に紛れるようにして何かが写っている。

 引きで撮っていること、街灯の少ない街の深夜の写真であることも影響してとても鮮明とは言いがたく、確信は持てなかったのだが、しかしは人影であるように思えた。

 ……そう。全体の数は不明瞭であるが、ひとりやふたりどころではなく、複数存在するように見えた。

 次の写真、またその次の写真へと見ていくと、その灰色の影たちは皆ぞろぞろと移動していき、そのうちとある一箇所へと集まっていくようだった。

 俺がこの土地へ来た時点から、とりわけと感じていた、あの細い路地の奥だ。

 この映像においても、その路地はとりわけ濃い霧に満たされているように見えた。

 このカメラでは見切れてしまっているので、ならばと別のカメラを手に取った。


 ──何の変哲もない普通の路地なのに、うっかり足を踏み入れたら別の世界へと誘い込まれてしまいそうな趣が……。


 昨日そう感じていた俺は、この路地に既に目をつけていたのである。……とは言っても、仮にこの体当たり取材が空振りに終わったとしてもこの路地の写真は何かに使えそうだな、という、いささか消極的な目のつけ方だったわけだが。

 しかし人間の直感というものは、案外馬鹿にできないものである。

 そう内心感嘆しながら、データを確認していく。

 同じく深夜に差し掛かった頃、路地の奥にやはり人影のようなものが出現していた。

「……?」

 先程との違いは、その色──否、だろうか。

 その人影のようなは、街灯の少ない路地の奥にあって、しかし自らが発光でもしているかのように、ぼんやりと白っぽく見えた。

 ……そう。

 そのは、街に広がる霧のそれとは異なっていた。

 異質。

 少なくとも、周囲の景色からは明らかに浮いていた。

 そんなのもとを目指すようにして、先程の灰色の影たちがぞろぞろとやってきていたが。俺はそのから目を逸らすことができずにいた。


 俺にはが、に見えた。


 これが噂のだとするなら、それを取り囲む影たちはまさしくなのだろう。


 白い少女の外見、その歳の頃は十代後半に見えた。

 ──

 はっきりと写っているわけではないその顔は、どこかエリザベートとよく似ているような気がした。

 ──


「……」

 白い少女と灰色の男。

 案外あっさりと収穫を得られたことに安堵したが、一方でその得体の知れなさに漠然とした恐怖を感じてもいた。

 胸がざわざわして、落ち着かない。

 ひとまず、その姿を収めた写真は得られた。

 後は、彼ら彼女らはいったいなんなのか、その正体や起源について、地道に聞いて回って調べる他ないだろう。

 そんな俺の思考を断ち切るように、控え目なノックの音がして、俺は座ったままびくりと飛び上がるという器用なことをしてしまった。

「……カスミ? いますか?」

 その声に、俺は若干身体を強張らせた。

 エリザベート。

 ある意味、今は最も顔を合わせたくない相手だ。

 先程見た写真、そこに写っていた白い少女の面影を思い出しながら、俺は努めて平静を装って返事をした。

「……っ! はい、なんでしょう」

「いえ、その」

 扉の向こうで、エリザベートは珍しく言い淀む。

「……昨晩は、よく眠れましたか」

「う、うん。長旅で疲れてたからか、枕が合ってたからか、横になったら一瞬だったよ」

「そうですか。……お酒はお口に合いましたか」

「あぁ。やっぱり君が置いてくれたのか、エリザベート。ありがとう。美味しかった……と、思う」

 疲労感と眠気で、正直味についてはあまり覚えていないのだが、とりあえずそう答えておく。

「それなら良かったです。それと……朝食、もしまだでしたら。食べますか、一緒に」

「……わかった」

 意外な誘いに、しかし俺は悟られないように小さく嘆息した。

 気は進まないが、気難しげな彼女から話が聞ける、数少ない機会かもしれない。

「準備をするから、待っていてくれるかい?」


   ◆


「ヴィクトールさんはいいの?」

「ええ。……誰かと食事を共にするのは、もう随分と久しぶりです」

「……」

 父娘関係は、なかなかに複雑なようだ。

 エリザベート。

 これまでの彼女の反応を鑑みるに、例の噂──白い少女や灰色の男のことを話題にするのは、あまり得策とは言えない気がした。

 切り口を変えて、断片的でも何か情報が得られたらいいのだが、何を話すにしてもふたりきりというのはいかにも気まずかった。

「……そういえば、お母さんや、他のきょうだいはいないの?」

 咄嗟に口にしてから、迂闊な発言を後悔した。

 案の定あまり良い気はしなかったようで、じとりとした視線が向けられた。

「今はもう、あの人だけです」

「……ごめん、立ち入ったことを訊いて」

 まったくです、と彼女は嘆息した。

「私の母方の家系は、どうしてか短命らしいんです。まるで血が呪われているかのようだ、と評されるぐらいに、女性は決まって早逝しています。私の母は私を産んですぐに命を落としました。姉がいたので寂しくはありませんでしたが、その姉も……」

 そこまで言って、彼女ははっとしたように言葉を止めた。

「話しすぎました。……忘れてください」

 そう語る彼女の表情を見て、俺は白い少女が写っていた写真を思い起こす。

 人ではなさそうなあの少女は笑っているように見えたが、そういえばエリザベートの笑顔は見たことがない。

 では俺は何をもって両者を似ていると感じたのか。

 背格好や外見年齢、そしてどこか近寄りがたい雰囲気、だろうか。

 ──あるいは、両者は実際に、よっぽどよく似ているのか。

 彼女自身、あるいはその血筋と、あの白い少女とには、何か関係があるのかもしれない。

 しかしこの気まずい空気の中、デリカシーを欠いた質問を重ねて投げかけることはできそうもなかった。

 ……それにしても。

 俺が警戒されているというのもあるのだろうが、本当ににこりともしない。

(そうだ)

 俺は意を決して、変顔を披露をしてみせた。

「……は?」

 ぎょっとしたらしいエリザベートの、険しい視線が突き刺さる。

「エリザベート、きみはまだ若いだろ。あまり難しいことは考えずに、今を楽しんだらいいんじゃないかい?」

「……なんですか、それ」

 つれない態度は相変わらずだったが、俺の言葉を受けた彼女の表情が少しだけ緩んだように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。……そう思うことにしておく。


「……それでも。この血も、この街も、それを許してはくれないような気がします」

「?」

「……いいえ、なんでもありません」

 彼女の小さな呟きは、俺の耳には届かなかった。

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