第2話 チュートリアルワールド

2


 その日、家には帰らなかった。

 カードに書かれた住所を調べると、最近できたばかりの映画館を示していた。不安に思いながらもそこへ向かう。別の世界が映画のことだったら期待外れである。


 でも映画を見たのは小さい頃以来だったので、久しぶりに見てみるのも悪くない。現実逃避には最高のツールだ。


 街の中心から少し離れた場所に、白い箱に黒い円柱が組み合わさった映画館があった。モダンな建築を見ていると、映画館というよりコンサートホールに思える。広い敷地には人工の川が流れており、上映中の映画の広告が飾られたモノリスが並んでいる。


 中に入ると上品な内装の薄暗い空間が出迎えてくれた。日常とは隔離された空間に目を奪われ、大地の煮立った心はいくらか落ち着いた。


 上映終了と被っていない時間帯なため人は少ない。それどころか係の人まで見当たらない。半年ほど前にできたばかりの新しい映画館のためか、ポップコーンの売店からチケットのもぎりまで完全自動化されている。


 久しぶりの映画館で戸惑っている大地は、お守りみたいに握っていた黒いカードに新たな文字が浮かんでいるのが見えた。スクリーンと座席の番号だ。

 何の映画を見ようか選んでいないのに座席を指定されたのは不思議だったが、何を見ればいいのかもわからなかったので番号の通りに座席に向かう。


 数十人が座れるだけの小さなシアタールームに通された大地はふかふかの座席に座る。するとカコンと床が二つに開いた。椅子がエレベータみたいに下がっていく。

 椅子が完全に下がりきるまでしがみついていると、白く明るい小さな部屋に到着した。


『初めての被験者様ですね。名前を教えてください』


 スピーカーから滑らかな声が聞こえた。被験者と呼ばれたことから何かの実験に巻き込まれたことを察したが、大地は特に驚かなかった。別の世界と誘われる時点でやばいのは明らかだったから。それにもし、危険な実験だったとしても家に帰るよりはマシだ。


 降りてきた上の穴は閉じてしまって、出られる方法もわからない。後ろを見るとドアがあったが、ドアノブがないので許可なく外に出ることはできないのだろう。大地は声の指示に従うことにした。


「鎖原大地です」


『ようこそ、鎖原様。フルトレースプロジェクト“ASTRAL TRAVEL; E”にご参加いただきありがとうございます』


「アストラルトラベルE?」


『ASTRAL TRAVEL; E。通称ATEエイトは完全なフルダイブSRのための試験的プロジェクトです』


 難解で柔軟性のない回答が返ってきたことで、大地は話している相手が人工合成音声であることに気がついた。滑らかで完璧な抑揚は人間と変わらない。むしろ完璧すぎて、人間から遠ざかってしまった心細さを感じさせる。

 人の声を真似しても、人の心まで宿らない。


「フルダイブSR? フルダイブVRは聞いたことがありますが、SRってなんですか?」


 そもそもVR、バーチャルリアリティとは現実を錯覚させる技術のことだ。人工現実感と訳すのが正しいのだが、仮想現実という呼び方が浸透してしまっている。


 最近では三次元映像を映し出すゴーグルを被り、ゲームやコミュニケーションを行うことができるようになった。


 大地はそういった娯楽に触れないので馴染みがないが、安価なゴーグル型HMDが発売されたこともあり普及し始めている。


 だがSRというのは一般でも認知度は低い。


『SRとは、シミュレーテッドリアリティのことです』


「VRとは何が違うのですか?」


『現実と区別がつかないほどに精密であると言う点で異なります』


「……VRとあまり変わらなくないですか、それ」


 ふわっとした定義だな、と大地は思った。石をどれだけ砕けば砂になるのか。みたいな話だ。


 研究者がなんでも分類したがるせいで、細かい区別ばかりが出来上がって話をややこしくする。好きに研究させたら無限に小さく分類するのだろうから、大地は研究者にはなりたくないなと思う。


 VRもSRもひっくるめてVRでいいだろう。


 面倒な名前をつけないでくれと願う大地を無視して、人工合成音声は淡々と説明する。


 コンピュータ上でシミュレートされた現実。シミュレーテッドリアリティ。VRは自分がVRをしていると理解できるのだが、SRは気がつかない。気がつくことができない。


『世界シミュレーション仮説の元となる考え方です』


 現実と区別できないほどの世界を、コンピュータで作ろうとしているというのは途方もない話だ。


 どうやらSRで作られた新しい世界が、緒方に言われた別の世界のことらしい。映画よりかは面白そうだが、映画みたいに突拍子のない話である。専門的な話が続いたので、大地は理解するのを諦めた。


「まあ、細かい話はわからないですから、別にいいです。重要なのは、どうすればATEに行けるのか」


『まずは書類の記入を行います』


 秘密厳守のほかに、生活の監視、強制居住、命の保証がない等、正式な実験じゃないゆえの危険な文言がずらりと並んだ書類にサインする。このまま眠らされて臓器を抜き取られても文句が言えないような内容である。


 今更ながら踏み入れてはいけない領域にきたことを実感して、頭がくらくらする。書類が出力されたタブレットを持つ手に力が入らない。


「いや……ガス?」


 壁の隙間からガスが吹き出てきた。匂いはなく、部屋が白いせいでわかりづらいが薄くモヤがかかっている。気づいた時にはもう遅い。ガスを吸い込んだ大地は深い眠りについた。



 パチリと目が覚めると変わらない部屋だった。映画館のふかふかの椅子まで同じ。白すぎて目がチカチカしてくる小さな部屋。

 立ち上がってお腹をさすってみるが、おかしな凹みは見当たらず、体の感覚も変わっていない。内臓は無事のようだ。

 唯一の変更点といえば、頭にガーゼが巻かれていることだった。


「なんだったんだ?」


『気分はいかがですか。名前を覚えていますか』


「……気分はすこぶる良いです。名前は鎖原大地」


『自我確認』


「……これはあれですか。頭を打った人にやる検査のやつ。眠らされた時に何かされたってことですか」


『接続チップの手術を行いました』


 ダイチの想像の通り、眠っている間にATEに接続するためのチップが埋め込まれていた。脳に直接チップを刺すのだが、最新設備のあるこの映画館地下なら医者がいなくても正確な手術が可能である。


 書類にも手術のことは書かれていたが、ダイチは重要そうなところ以外読み飛ばしていたため気づかなかった。知ってたとしても、不意打ちの睡眠ガス噴射をくらうことは変わらないのだが。


『これは何に見えますか』


 真っ白いだけの壁がスクリーンになる。インクをこぼした紙を折りたたんで、また開いたような不思議な模様だ。何かを表しているようには見えないが、あえて何かに当てはめるとしたら。


「蝶々?」


 ダイチが答えると、別の模様に変わる。数回、模様が何に見えるか答えさせられると、今度は計算問題が映し出された。


『計算してください』


「暗算でですか? えーっと、488だから、答えは1952」


 それなりに勉強させられてきたダイチにとって、暗算は苦ではない。少し詰まりながらも答える。正解だった。


『ディスプレイに直接、自由に木を描いてください』


「何本でもいいのですか?」


 ロールシャッハテストに純粋な計算問題、バウムテストなど、人の心をはかるためのテストが次々と出題される。ダイチは不思議に思いながらも、言われるがまま解いていった。


 似たような問題を何問も解かされ、ダイチがいい加減うんざりしてきたところで出題は終了する。合成音声が告げた。


『100%一致。トレースは完了しました』


 その瞬間、世界がバラバラになって消滅した。


 白い部屋も椅子も全部がチリのように消え、代わりに地平線と白い空が現れる。まっさらなワールドには、グリッド線が縦横に伸びる地面しかない。


「幻覚でも見てるのか……?」


『チュートリアルワールドへようこそ。鎖原大地のアバター様』


「アバター? 俺が? もしかしてもうSRの中なのか!?」


 現実だと思っていたあの白い部屋が、シミュレートされた世界だった?

 いつからが現実で、いつからSRだったのか。おそらく眠らされた時に切り替わったのだろうが、全く気がつかなかった。ダイチは素直に恐ろしいと思う。


 SRはVRよりも現実に近いと説明されたが、本当に現実と変わらないとは。頬をつねれば確かに痛い。この痛みもシミュレーション?


 青い粒子が集まって白い球体を産んだ。バレーボールほどの球体にはスピーカーのマークが描かれており、そこから合成音声が聞こえる。


『ATEでは初めに一つのスキルを入手できます。あなたが望むものを教えてください』


「ゲームみたいな感じなんですね。それなら……」


 自分が望むもの。

 ダイチは現実が嫌になって別の世界を望んだ。だから、言ってしまえばATEに来た時点で望むものは手に入っている。


 改めて望むものと聞かれると困る。スキルというのだからお金などの物理的な物ではないし、英会話のスキルなんてつまらないものでもない。


 普通の人間は、急に悪魔が願いを叶えてくれると言ったって答えに詰まってしまうのだ。瞬間移動? 火を吹く能力? そんなのあったって意味がない。


 天才だったらどうだろう。ダイチをここへ誘った緒方なら、何を望むのだろうか。なんでも持っていそうな緒方が、現実で手に入らないものを望むなら。


「……空を飛ぶスキルが欲しい」


 ダイチは、緒方と出会ったときの言葉を選んだ。自由に空を飛んでみたい。緒方はきっと違うことを願うだろうが、ダイチはそのスキルがしっくりときた。


『自己同一性の範囲を超えています。制限を行いますがよろしいですか?』


「空を飛ぶことはできないってことですか?」


『いいえ。スキルを強化することで自由に空を飛ぶことが可能になります』


 いきなり空を飛べるようになれば、現実との隔離が起きてしまう。それを防ぐために段階的に能力を解放しようというのだ。


「だったら、制限も大丈夫です」


 大地がうなずくと、白い球体に文字が浮かび上がる。


『スキルシード:ムーンジャンパーを入手しました』

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