お空ぷかぷかVRMMO。

第1話 空飛ばない現実

1


 本校舎四階。ここにあるのは屋上に続く扉だけ。

 屋上は飛び降りの危険があるため解放されておらず、教師を含め、ここは誰も踏み入らない死角になる。そのせいか、ふしだらな高校生達やタバコに手を出した不良が愛用する、爪弾き物の聖地となっていた。


 そんな場所に、ここに似つかわしくない生徒が来た。

 鎖原大地さはらだいちは高校三年の平均身長よりは少し高いくらいの背を持ち、髪の毛は整えているが遊びがない。そしてメガネをかけている。見るからに真面目で勉強ばかりしていた人間だった。


 大地は窓を開けた。屋上の扉は内側からも鍵がかかっているが、窓は教室と同じクレセント錠なので簡単に開けられる。

 だが、窓は屋上に続いているわけではなく、下を除けば地面は遠い。窓から顔を出して左をのぞけば、離れたところに屋上の柵が見える。


 大地は躊躇いなく窓に足をかけ、飛び上がった。せり出ているパイプを掴み、体をひねる。鉄棒みたいに回転して足を屋上の柵に引っ掛けると、見た目にそぐわない俊敏な動きで屋上へと乗り込んだ。


 屋上へ侵入するのは三年間ですっかり慣れてしまった。嫌なことがあった日はいつもここに来る。


 高校三年生の悩みといえば進路である。どこの大学を受験するのか、どこに就職するのか、何になりたいのか。大地はそこそこ勉強させられてきたし、どの大学に進むかも決まっていた。だから大地が悩むのは未確定な将来についてではない。


 その全く逆である、未来が決められすぎていることに対してだった。

 親の意向で塾に通わされ、親の決めた大学を目指し、おそらく親の勧める企業に就職する。この高校だって親が選んだところだった。レールが勝手に組み上げられ、道を選ぶことができない。


 グラウンドでは昼練に励むサッカー部が見えた。大地は勉強が疎かになるからと、部活は許されていない。運動部は憧れの一つだ。


「空、飛びたいなあ」


 ここで急に柵を飛び越えたら、親はどう思うだろう。自殺した理由はあんたたちだと理解してくれるだろうか。それとも普通の親のフリをして泣くのだろうか。

 仕返しするなら、遺書でも書くべきか。きれいに揃えた靴を文鎮にして。


 独り言は誰にも聞かれないはずだった。この場所はいつも一人だったし、独りになりたくてここに来た。

 だから返事がくるとは予想していなかった。


「飛ぶには素晴らしい天気だからね」


 包み込むような優しい声だ。屋上と校舎を隔てていた開かずの扉を開けて、緒方笑綺おがたしょうきは現れた。ふわふわの髪の毛とアルカイックスマイルを携えた怪しげな同級生は、昼食のゼリー飲料を片手に歩み寄る。


「えっと……緒方くん、ですよね。別に飛びたいわけじゃないですよ」


「覚えてくれてて光栄だな。そう警戒しないでよ。ここにいる時点で、共犯者でしょ?」


 緒方は手にした黒い棒をくるくると回した。大地はそれが何かわからなかったが、マイクロマシンを用いた最新のピッキングツールだ


 緒方笑綺は有名人だ。友達の少ない大地ですら、彼のことは聞いたことがある。

 超一流企業の息子。頭脳明晰。眉目秀麗。天才発明家。宇宙人。アインシュタインの生まれ変わり。などなど。


 明らかに嘘が混じっているが、それくらい天才で金持ちでイケメンで完璧超人だ。なんでこんな面白みもない学校に通っているかというと、天才ゆえに勝手に学ぶから場所に執着しない、という馬鹿みたいな理由による。


「ご飯は食べないの? 大地君」


「食べる気にならなくて」


「そうなんだ。これあげよっか? 僕考案の完全食ゼリー飲料。ピーチ味だし食べやすいよ?」


「いや、いいです」


 緒方はぐいぐいと距離を詰めるタイプの人間だった。間合いに入られたくなかったので断ると、緒方は捨てられた子犬みたいに悲しそうな顔をする。


 悪いことはしていないのに、罪悪感が芽生えてしまう。イケメンはずるいと大地は思った。


 でも大地が頑なにゼリー飲料を受け取らないので、表情をくるりと変える。


「そっか。自殺するならご飯もいらないしね」


 緒方が優しい笑みして核心をつくので、大地はとっさに何も言えなかった。想像していただけで本当に自殺しようとしていたわけではないのだが、見透かされているようで焦る。


「ねえ、別の人生に興味ない?」


 悪魔みたいな言葉だ。でも全てを受け入れてくれそうな神様みたいでもある。

 胡散臭い宗教勧誘が、緒方が言うと本当に聞こえるからたちが悪い。大地は突っぱねることができず、救いを求める子羊のように話を聞いてしまった。これが全ての始まりだった。


「飛び降りろってことですか」


「来世に期待なんてことは言わないよ。もっと現実的なものさ」


 緒方はポケットから名刺入れを取り出した。高校生には縁遠いそれを出すと、途端に大人っぽく見えるのだから不思議である。

 紙にしては硬いカードを渡される。黒い背景に樹のマークが描かれた艶のあるカードを受け取ると、白い文字が浮き上がった。


「住所……?」


「そこ、来てよ。許可証になってるから、なくさないでね」


 大地が質問しようとするとゼリー飲料をパスされた。緒方はひらひらと手を降って校舎に帰っていく。取り残されたのはゼリー飲料とカードを持った大地、そして山ほどの疑問だった。




 もらったゼリー飲料を咥えながら考えていると、校舎の下が少しうるさい。身を乗り出して下を見ると野次馬にどよめきが走る。野次馬たちは大地を見ていた。


 大地はそこで失敗したことを悟った。緒方に気を取られすぎて下から見える位置にいたのを忘れていた。扉が乱暴に開かれると、屈強な体育教師と担任の女教師、それにあまり顔を知らない先生までなだれ込んでくる。


「早まるのはやめなさい」


「あ、いえ、そう言うわけじゃ……」


「鎖原君はそんなことする子じゃないよね。心配事があるならなんでも聞くから」


「いや、あの……」


「さあ、こちらに来なさい」


 威圧してくる体育教師に泣きそうな担任。三年間秘密にしていた大地の秘密の場所に、何人も土足で踏み込んでくる。

 誰も俺の話を聞いてくれない、と大地は苛立った。だが本当に飛び降りるわけにもいかないのでゆっくりと柵から離れば、数人がかりで大地を組みふせる。死のうとする人間に遠慮はいらないのだろうか、大人たちの力がのしかかり身体中が痛かった。


 急に呼び出された母親はひどい顔をしていた。


「あんた、なんてことをしてくれたの」


 母親は大地を殴ることも、抱きしめることもしなかった。ただ射殺すように睨み付けて、大声で何度も怒鳴る。


 学校側は自殺未遂とは言わなかった。責任を追及されるのを恐れたのだろう。母親には屋上に侵入したとだけ伝えられた。実際その通りだったし、大地はその方がありがたかった。


「落ちて怪我でもしたら学校にも迷惑かかるのよ」


「ごめんなさい」


「それに内申点に響いたらどうするの!? 不良になりましたなんてどこの大学に入れてもらえないわよ」


 頭がぐつぐつと熱くなって母親の声が反響した。怒りに任せて殴りかからなかったのは、緒方の言葉が頭にあったから。ポケットにしまった冷たいカードの感触がよくわかる。この時、大地は別の世界に行く決心をした。

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