第15話 備忘録の執筆

1991年6月 

 

 初詣以来、備忘録を書くため、昨年夏の出来事を丁寧に思い出していた。

戻らぬ時を、戻らぬ獅狼との思い出を、書き留める。

気付かないうちに涙が落ち、ノートに涙輪を描いた日もあった。

時に休みながら、時には一心不乱に大事な宝物を紡いでいった。

時間がかかったが、夏前に欠落していた記憶を全てを取り返した。


 その頃には私の心は、ある言葉で占められていた。

それは『先に老いていこうが獅狼の側にたい。』だった。

記憶を無くしていた間、私はモノクロの世界で、ただ日々が過ぎゆくのを傍観しているだけだった。生きてる実感もなく。

辛くても、辛いと感じれる。

悲しくても悲しいと実感できる。

そんな人生の方がよほど私らしく、意味があると。


 それから私は獅狼に逢いたくて天神さんへ通い始めた。

何度行っても、逢うことは出来なかった。

ある日、阿吽像の前で遊んでいる子供達をみた。

幼稚園くらいの女の子だろう。

自分のおやつなのか、ポケットから飴を1つ出してはつま先立ちでお供えした。

その光景はとても愛らしかった。思わず微笑みながら見ていると、ふと私の脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。


 私もお供えしていた。

自分のおやつを自分が食べる前に、お供えしてから食べていた。

時にはビスケット、飴、キャラメル、チョコレート・・・

そして、そんな私の頭を優しく撫でてくれた大きな手があった。

その人は、くせ毛の前髪から少し瑠璃色の瞳を覗かせて、

「お供えしてくれて、ありがとう。」私は綺麗な瞳だなぁと思った。


 それから天神さんへ行っては、そのお兄さんと遊んだ。

でも私があまりに一人で通うから心配したお兄さんはある日

「陽葵ちゃん、君はもうすぐ小学生になる。

沢山お友達を作って、楽しい事を沢山経験しておいで。

俺はいつでもここで陽葵ちゃんを見守っている。」

そう言って、2度と私の前に姿を現わさなかった。


私は以前から獅狼を知っている。あの綺麗な瞳を知っている。

私は嬉しくなった。また一つ忘れていた大切な思い出が蘇った。




 後日、私は天神さんへの階段を上っていった。

手にはお供え、昨夜久しぶりにクッキーを焼いた。


 記憶を無くしていた頃、元気が無かった私を母は随分と心配してくれた。

母は幼い頃から、一定の距離を持って私に接していた母。

それは私が自分で考え、判断できるよう身を持って学ぶためだ。

そんな母が、そのころは珍しく夕飯は私の好物を良く並べてくれていた。

生きる事に興味を無くしていた私は、食べる事にも興味を失っていた。

日を追う毎に痩せていく娘を見る母の気持ちを考えると、ひどく申し訳ない気持ちになった。


だからクッキーを焼くまでに回復した私を見て、母は本当に嬉しそうに笑顔を浮かべて「いってらっしゃい」と送り出してくれた。

あいにくの空模様だった。まるで獅狼と初めて逢った日のようだ。


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