第13話 失った記憶

 昨日はいくら疲れていたからと言っても、高校生にしては随分と早い時間に寝てしまった。

そのせいか何かの大きい声?音?に飛び起きた。よく聞くと蝉の鳴き声でだった。

あまりの音量に驚いて目が覚めた。私の住む街では、こんなに沢山の蝉の声はしない、ここは尾道だった。


時計を見ると5時だった。

昨日の続きが気になった、読み進めることにした。




1990年8月


 私が目を覚ました時は、頬は涙で濡れていた。

でも私は何が悲しいのかは、分からなかった。よく見ると体のあちこちに傷がある。

そうだ、昨日天神さんで転けたんだ。転けた記憶はなんとなくある、でもどうやって家に帰ったのか憶えていなかった。夢でも見ていたかのように、あやふやな記憶しかなかった。

 

ただ手に握りしめていたリンゴの木彫り、このれはお守りだから肌身離さず持たないといけない。このことだけは頭に強く残っていた。


早朝でまだ誰も起きていなかった。

取りあえず、ボーとした頭をすっきりさせるためにも、シャワーを浴びたかった。

縁側を通って浴室へと向かう、外は早朝だというのに蝉が五月蠅いほど鳴いていた。

シャワーから勢いよく出たお湯が傷口に当たると、しみた。

すると自然とまた涙が頬を伝う。

私はびっくりした。いくらしみると言っても泣くほど痛む訳がない。

何か別の理由があるのか?自分の感情が理解不能だった。


うちの洗面所には窓があり、磨りガラスがはめ込まれていた。

その優しい光に少しほっとした。


 部屋にもどり椅子に座った。

ふと机の上を見ると飾っておいた、お気に入りガラスのリンゴが無くなっている。

交差する色を気泡が優しく包んでいて、とても綺麗なリンゴだった。

そう言えば、あのガラス細工のリンゴは何処で買ったの?貰ったの?

何も覚えていない。でも、とても大事な物だった記憶がある。

でも、本当に存在したのだろうか?

大事な物だったのに忘れてしまうなんてことあるの?


他にも、夏休みに天神さんへ通った記憶はある、何故そんなに足繁く通ったか理由がわかなかった。多くの釈然としない出来事が頭をもたげる。

でも、いくら思い出そうとしても濃霧の中だった。



 後日、何度か天神さんに行こうと石段を途中まで上るけど、胸が締め付けられる痛みで、動けなくなる。

苦しい、でも何が苦しいか分からなかった。

悲しい、でも何が悲しいか分からなかった。

そして、ある日天神さんへ行くことを諦めた。

私の高校2年生の夏休みは静かに終わった。


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