第7話 ボイルの課題


蝿はなぜこんなにも素早いのだろうか?


その答えは簡単だ。そもそもハエと人間とでは見える世界が全く異なっている。


彼らにとって人間の動きはスローモーションに等しい。


蝿の脳の画像処理速度は人間の6倍以上だと言う。


それは蝿の目から脳への神経経路が非常に短いことに起因する。


視覚情報を脳の様々なところに伝達する人間と違い、蝿は即座に脳に情報を伝達し、ほぼ反射的に動くことができるのだ。


脳の性能的には高度な思考ができる人間の方が圧倒的に良いだろう。しかし、反射という1点においてはシンプル故に蝿の方が上回る。


蝿は余計な情報処理をせず、対象の動きに合わせて即座に回避・攻撃行動取れるのだ。


こちらが攻撃動作に入っている段階で蝿はすでにその方向を予測し、回避の方向を演算しているという。


さらに蝿が優れているのは視覚だけではない。風圧を感知する能力にも非常に優れている。


また、その速度は人間が瞬きをする50倍のスピードを持っており、ホバリングや急激な方向転換など飛行能力でも他の追随ついずいを許さない。




1mに巨大化し、複眼を6つ持ったこの蝿の魔獣―――アシュラバエもまたそれと同じ特性を持っていた。


むしろ、オリジナルの蝿よりもそれぞれの特性は強化され、視界も360度超解像度でカバーされている。


さらに18本ある腕があらゆる方向からの攻撃への対応を可能にしており、単純な反射行動においてはこの世界で屈指の生き物と言えるだろう。




オルロの透明の剣をアシュラバエは易易やすやすと回避する。


透明の剣の特性である『透明化』ステルスも頭についた短い触覚のような器官―――端刺たんしによって、剣の風圧や空気の振動を探知されてしまうので意味をなさない。


「くそッ!!」


ただでさえ足元が泥濘ぬかるんでおり、しかもヒトクイグサが潜んでいる可能性がある中で、アシュラバエを捉えるのは相当な難易度だ。


「ちなみに、そのアシュラバエだが、雌は生き物の身体に卵を産み付ける。気をつけたまえ」


ボイルの忠告が後ろから聞こえる。


「え…これは…コイツは雄ですか?雌ですか?」


オルロは悲鳴に近い声をあげてボイルに確認する。


ボイルは肩をすくめて「わからん」と応える。


「吾輩もあまりじっくり観察したことはないのでな…。しばらく待っていたまえ」


ボイルはそう言って一瞬で姿を消す。


数分後、同じ位置にいつの間にか戻ってきて「ふう」と息を吐く。


「オルロ、安心したまえ、雄だ。確認してきた」


ボイルは事も無げにそう言い放つ。


「早い…」


筋肉痛で、超高速移動術『時渡り』は使えない筈だが、そんなものを使わなくても彼は圧倒的に早い。


どうやらこの湿地のどこかに生息する他のアシュラバエと比較し、雄雌を観察してきたのだろう。


「見分け方は思いの外簡単だった。尻尾が下がってるのが雄で、上がってるのが雌だ。それはほら、下がってるだろう?」


だろう、と言われてもオルロには尻尾の確認をしている余裕はない。


―――ボイルは尻尾と表現したが、正確には尻尾ではなく、生殖器で、雄は把握片はあくへん、雌には産卵管さんらんかんがついている。


「わかるような、わからないような…」


「じっくり見ればわかる」


「そんな余裕が残念ながら俺にはありません」


「ふむ…」


アシュラバエは速いが、その姿を目で追えない程ではない。


幸い攻撃力もそれほど高くないので、防御自体は今の所、何とかなっていた。


しかし…


「!? 痛ッ!!」


アシュラバエがオルロの一瞬の隙をつき、腕に張り付き、頑丈な顎で鎧ごと皮膚をかじり取っていく。


「オルロ、気をつけたまえ。今のが雌なら次は傷口に卵を産み付けられるぞ」


オルロは自分の腕に卵を産み付けられる想像をし、背筋が凍りつく。


というよりも、これから対峙するのは目の前のアシュラバエだけではない。これから注意していないとそうした目にうわけだ。


「チッ…」


オルロは背中から弓を取り出そうとするが、弓が無いことに気づく。


「ちなみに今回は弓はなしだ」


気づくとボイルがいつの間にかオルロから弓と矢を取り上げていた。


「ししょ…」


アシュラバエが襲ってくるのを盾で防ぎながら「師匠~」とオルロは叫ぶ。


「この数日見ていたが、君は弓に頼りすぎだ。君の良さだが、折角良い剣を持っているんだ。剣技をもっと学びたまえ」


「…はい」






――― アマイア暦1329年葡萄の月9月21日 夜 ―――

<レイル共和国 ラフス川中流 ミズロ湿地付近>



夕方以降のミズロ湿地はオルロにはまだ危険であり、また、キャンプにも適さないため、湿地から少し離れたところで野営を行うことにした。


「さて、今日はどうだったかな?」


星空の下で焚き火を起こすオルロに、ボイルは尋ねる。


「…」


オルロは渋い顔をする。


結局一度もアシュラバエにダメージを与える事ができず、体中を噛みつかれ、鎧はボロボロだ。


結局、避けながら移動した先で偶然アシュラバエの下にいたヒトクイグサがアシュラバエを呑み込み、決着となった。


「正直、全然ダメですね。アシュラバエには全く攻撃が当たらないし、あそこにヒトクイグサがいた事に俺は気づけなかった。もう一歩踏み込んでたら、喰われてたのは俺の方でした」


「うむ」


ボイルは頷く。そして、オルロの起こした火で、ラフス川からんできた水を入れたヤカンをあたためる。


「アシュラバエもヒトクイグサもラッキーパンチが起こりにくい魔獣だ。重要なのはここを使うこと」


ボイルは自分の頭をコンコン、と叩く。


その姿はまるで卵を割る動作に似ているとオルロは思ったが、口が裂けてもそれは言えない。


さくを練りたまえ」




「…策、か」


食事を終え、武器と防具の手入れをしながらオルロは呟く。


透明の剣の刃を念入りにいでいく。


道具の手入れに関しては「できるだけ毎日やれ」と口を酸っぱくリューから言われていた。


最初は面倒だったが、今ではこれをしないと気持ちが悪い。


刃こぼれを確認すると、1日振り回していただけでも少しあるようだ。


透明の剣はかなりの業物わざものだ。1日使った程度でこれだけ摩耗まもうさせてしまうのはオルロがりきんでいる証拠だった。


泥濘ぬかるむ足場でバランスを取りながら、足元と上空同時に警戒する状況は今までなかった。


アシュラバエにはかすりもしなかったが、斬ろうと勢い余って近くに生えていた木や岩などを叩いてしまうことがあった。


それにヒトクイグサの消化液も被っている。


「…まだまだ未熟だな」


オルロはボイルの口癖を真似て呟く。




アシュラバエを倒す方法をずっと考えていたが、自力で倒す方法は大きくわけて3つだと思っている。


その1「動きを先読みして倒す」


何度も剣を振るって実感したのは、あの蝿はオルロが振りかぶった瞬間すでに回避動作に移っている。つまり、元々いる場所に剣を振るえば、すでにそこヤツはいない。


だからもし当てるとすれば、蝿の動きを予測し、そこに剣を合わせるしかない。




その2「気づかれずに倒す」


アシュラバエにこちらの存在を悟られない範囲からの攻撃、もしくは奇襲攻撃を繰り出す。


前者は弓を封じられているため、魔法でもない限り難しいだろう。後者は透明の剣ですら当てることができないのでなんらかの工夫が必要だ。


頭の中によぎるのは『ハイド』のスキルだが、ボイルに意識を向けさせて攻撃するのは反則のような気がする。


しかし、それをしてはいけない、とも言われていないので明日は試してみよう。




その3「圧倒する速度で倒す」


これは今の所できる気がしないが、ボイル程の速度があればこれを選ぶだろう。


オルロの手持ちのスキルや戦闘技術ではアシュラバエの知覚を出し抜いて攻撃するのは難しい…。




では、ヒトクイグサの対策はどうだろうか?


ヒトクイグサの特性は自分の真上にきた生き物を感知した瞬間に鋭い牙のついた2枚の葉で挟んで、消化液でドロドロに溶かし喰らうこと。


この対策は4つ思いついた。


その1「ヒトクイグサの位置を特定する」


これは今の所は出来ていないが、擬態ぎたいしているわけだから『ハイド』同様、存在が消えているわけではない。


ということは特徴さえ掴めば捉えることは可能なはずだ。




その2「喰らう瞬間に察知し、倒す」


一歩進むごとに全神経を地面に張り巡らせて、葉が出現した瞬間に斬り伏せるのはどうだろうか。


ヒトクイグサだけがターゲットならばなんとかなるかもしれない。


しかし、アシュラバエやその他の魔獣、魔物と戦いながらこれができるとは思えない。


そもそも、一歩間違えれば、あの鋭い牙に触れてしまい、身体のどこかがくなる危険性がある。




その3「誤認させて出てきたところを倒す」


アシュラバエを喰らった様子から、捕食する対象は人間だけではないことがわかる。…まあこの湿地に近づく人間は多くないので当然だろうが。


ということは生き物がなにかを特定しているのではなく、機械的に上にいるものを察知し、葉を閉じるという反射行動だと考えられる。


ならば、その反射を逆手にとることはできないだろうか。


例えば、物を放ったり、振動を起こすとどうなるのか。この辺は試す価値がありそうだ。




その4「そもそも察知させない」


これができればベストだろう。


師匠のように地面や草に体重をかけずに移動する。


そうすればヒトクイグサは…




「ん?」


オルロはそこまで考えて、透明の剣の研磨を止める。


「…今、なにか…」


重要なヒントがあった気がする。


「…そもそも、ヒトクイグサはなぜアシュラバエを喰らうことが出来たんだ?」


オルロは呟いた。


圧倒的な反応速度を持つあの3面蝿は下方向に弱い?


いや、左右にもある複眼で360度視野はカバーされている筈だ。


ではなぜ反応出来なかったんだ?


「そもそもどうして師匠はこの湿地を選び、ヒトクイグサとアシュラバエに限定して俺の修行相手にしたんだ?」


オルロはブツブツと呟く。


こんな時、ユージンならどう考えるだろうか?


ユージンを真似て左目に左手を当てて考えてみる。


彼ならば修行の意図を考える筈だ。


「師匠の言葉を思い出せ…」






『君に暗殺者の才能があるとして、君はその才能をどう活かす?』



そうだ…師匠は才能を活かすことを強調していた。


俺の才能…。


弓を取り上げられている今、使えるのは『猛毒攻撃』と『ハイド』。


『猛毒攻撃』はヒトクイグサには有効だったが、アシュラバエに効くとは思えない。


やはりポイントは『ハイド』なのか?



オルロは研磨を終えた透明の剣の刀身を眺める。


透き通る刀身に夜空が映り込み、まるで手元に星があるようだ。


『ハイド』でヒトクイグサとアシュラバエを避けて戦う?


2匹の攻略で共通点があるとしたら「向こうよりも素早く動く」「先読みをする」「気づかれない」だ。


オルロの才能、という言葉が示すならば『ハイド』を使って「気づかれない」が師匠の意図するところの正解なのではないか?


しかし、『ハイド』は気配を消すことはできるが、いなくなるわけではない。


果たして2匹をあざむくことができるのか。






「他の2つの可能性はどうだろうか?」


オルロは透明の剣に映り込む星空を眺めながら考える。


「向こうよりも素早く動く」、これはオルロの才能ではない。


だが、アシュラバエとヒトクイグサを攻略する答えの1つだろう。


師匠のような『時渡り』ができるようになる、あるいはその前の段階、草や土にほとんど触れずに浮くことができれば…。


いや、待て…あの時、その技を披露した師匠はなんと言っていただろうか?



『君の今回の目標はそれではない』



そうだ。確かにそう言っていた。


ということは…「速さ」ではない、のか?


そもそも、あれが簡単にできるとは思えない。




では、「先読みをする」はどうだろうか?


先読み自体は弓を射る技術の内に含まれる。苦手ではない、と思う。


ユージン程知恵が回るわけではないが…。


行動のパターンを予測し、先回る。


この方法も間違いではない気がする。




そもそも正解は複数あってもおかしくない。ボイルには「頭を使え」「策を練れ」とだけしか言われていない。


まずは試してみることだ。明日は『ハイド』を使う、「先読みをする」、この2つを試してみよう。


オルロは頷き、剣をしまう。明日の実践に向けてどのように立ち回るのかを考えながら防具の補修に移った。


そうして修行の初日は過ぎていった。

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