第6話 修行の始まり

――― アマイア暦1329年葡萄の月9月21日 午後 ―――

    <レイル共和国 ラフス川中流 ミズロ湿地>



カドマ村からラフス川に沿って3日程歩くとたどり着くのがミズロ湿地だ。


土が柔らかく、水分を豊富に含んでおり、ブーツが足首の上まで沈む。


まだ夏の暑さが残っているこの時期の湿地はジットリとした暑さがあり、ムワッ、と土の香りが地面から立ち上ってくる。


危険な魔物や魔獣が多いため、ここには地元の人もほとんど立ち入らないので、草は伸び放題で、道もない。


やや霧がかっており、視界もあまり良くない。




「なんかジメジメしたところですね」


オルロが額の汗を拭いながら前を歩くボイルを追う。


「ふむ…。そろそろ湿地ウェットランドに入ったか。そろそろ目的地だぞ、オルロ」


ボイルはこの泥濘ぬかるんだ大地でも、足が沈むこと無く、平然と進む。


「…それ、さっきからずっと気になってるんですけど、一体どうなってるんです?」


オルロは先程から気になっていたボイルの足元を指差して尋ねる。


「む?」


オルロのブーツはすねのあたりまでとっくに泥だらけになっているが、ボイルの足には泥の汚れすらなくピカピカだ。


さらに驚きなのは、ボイルはさっきから平然と文字通り水草の上・・・・を歩いている。


「なに、水の上を歩くのと同じことだ。物に足が触れた瞬間に足を引いて、反対の足を出す。それを交互に繰り返しているだけのこと。空を歩くよりはるかに簡単だ」


「いやいや…」


オルロは苦笑いする。冗談のように聞こえるが、ボイルは大真面目に言っており、実際に実現しているのだろう。


この3日の旅で水の上を歩いているところも空を歩いているところも見ている。


―――ちなみに空はどうやって歩くのか聞いたら「空気を踏むのだ。これは少しコツがいるが…」と回答が返ってきた。


「…オルロ、何度も言うが、固定観念に囚われてはいかん。そして、技術とは洗練されればされる程無駄がないものなのだ」


「……………」


オルロはボイルの言葉に頷き、自分もできるだけ速く左右の足を持ち上げて泥の上に立とうとしてみる。


しかし、泥を盛大にき散らし、全身が泥だらけになる結果に終わる。


「力が入り過ぎだ。もっと力を抜きたまえ。…こうだ」


ボイルを見ると、オルロがき散らした泥の上を蹴って・・・、跳躍する。


そしてくるりと一回転すると、水草の上にふわり、と降り立った。


足は全く動いているように見えないし、高速で移動することで風が発生している様子もない。


ボイルに言わせれば「物凄く速く足を交互に動かしている」だけでも、オルロはその様子を視認することすらできない。


泥や草の上に跳び乗り、それらを動かすことなく、まるで足場のように移動するこの技術は魔法よりもよっぽど不思議だ。


「師匠、それで筋肉痛・・・なんですよね?」


先日のグリフォン戦で『時渡り』を連続で使用した反動で、ボイルは現在、全身の筋肉痛で苦しんでいるという。


1ヶ月くらいは『時渡り』ができない程だというが、目の前のこの現象はなんなのだろうか。


「左様。…しかし安心したまえ、物事には順序がある。君の今回の目標はそれではない」


「?」


「…湿地ウェットランドにはその特殊な環境のせいで、それに適応するために特異な生態系が生まれることが多い。このミズロ湿地特有の生物といえば、ヒトクイグサとアシュラバエだ。彼らが君のトレーニング相手だ」


オルロも冒険者として、日頃から魔物や魔獣の勉強は欠かさないが、流石にこんな地方の限定的な生き物の勉強はしていない。


首を傾げ、師匠に問う。


「それは一体どんなまも…」


「オルロ、下だ。踏み抜いたようだ。気をつけたまえ」


ボイルはオルロの質問の上にかぶせて、ステッキでオルロの足元を指す。


「は?」


地面が一瞬震えたと思った瞬間、視界が一瞬で暗くなる。




バクンッ!!!




地面からハエトリグサのような形をした食人・・植物が2枚の葉―――最早凶悪な牙に見える―――を高速で閉じ、オルロを呑み込む。




「なんだ?俺はなにかに喰われたのか?」とオルロは暗闇の中で状況を振り返る。


不幸中の幸いか、オルロの反応が遅かったために、鋭い牙に触れる前に丸呑みにされてしまったので、身体を切断されることはなかった。


だが、身体がブヨブヨ、ヌルヌルとした肉厚の葉に挟まれ、オルロの身動きは封じられていた。


オルロは食人植物に呑み込まれたということまでは理解できていなかったが、これがなにかの口の中だということはわかった。


「…熱ッ」


生暖かいドロリとした液体が上から垂れてきて、それが頬に当たる。


ジュゥゥゥゥ、と音を立ててオルロの頬を焦がした。


「消化液かなんかか?ってことは…」


身体中の装備も同様に消化液によって溶け始めていた。


「マズい…。師匠が助けてくれないってことは、恐らくこれぐらいは自分で出てこいってことだろうな」


オルロは義足の推進装置ブースターを使用して、『飛翔』ひしょうのスキルを発動するか迷う。


一度使えばしばらく使えないが、こんなタイミングでそれを使って良いものか…。


しかし、こうしている間にも身体中の装備が傷んでいく。露出している部分は頭だけだが、長くは持たない。


「そういえば…」


オルロは身体をよじってなんとか腰に手を回し、鞘から鋼のナイフを抜き放つ。


ボイルに「小回りが効く武器は1つ持っておくと良い」と勧められて、出発前にカドマ村で買ったものだ。


「なるほど…これを見越してってことですか」


鋼のナイフに『猛毒攻撃』のスキルを付与する。どれくらい効果があるかわからないが、と思いながらナイフを肉の壁に突き刺した。




「…大丈夫だろうか」


ボイルはオルロが動く様子がないため、ソワソワした様子で髭を触りながらヒトクイグサを見つめる。


…呑み込まれる瞬間は見た。角度的に牙には触れていない筈だ。


とすると、中でパニックになっているのか?


それとも意識を失っている?


いや、作戦を考えているのかもしれない。


落ち着け、ボイル。だから吾輩は未熟なのだ。もう少しオルロを信じろ、半熟め。


ボイルは自分の心の内で葛藤する。



消化まであと数十秒はあるはずなので、もう少し待って自力で脱出できないようであれば、助けに入るつもりだ。


これまで弟子を取ったことがないボイルは、どのように弟子を育てれば良いか手探りだった。


彼の実力なら十分に対処できると踏んでいたが、初回からスパルタ過ぎただろうか。


オルロはボイルが心の内で迷っていることなど全く気づいていないが、実はボイルはこの数日、彼をどのように育てれば良いかずっと考えていたのだ。


「…むむむ、そろそろ限界か」


ボイルは介入を決め、「今助けるぞ、オルロ」と呟いた時、目の前のヒトクイグサが震えた。


「!?」


ボイルは仕込みステッキの刀を引き抜く手を止め、ヒトクイグサを見つめる。


泥と水草の色に擬態したヒトクイグサの表面がみるみる内に黒ずみ、オルロを挟む2枚の葉が膨らんだ。


その瞬間、葉の内側から剣が閃き、ヒトクイグサのパックリと閉じた2枚の葉の上部が地面に落ちる。


その中から消化液にまみれ、赤い顔をしたオルロが透明の剣を構えて飛び出してくる。




「オルロ!」


ボイルは内心ホッとしつつ、オルロへ近づく。


「大丈夫かね?」


「…大丈夫です。すみません。反応が遅れて逃げそびれました」


オルロは足元の水たまりで全身についた消化液を落とす。


「これも使いたまえ」


ボイルはオルロにポーションを手渡す。


「…ありがとうございます」


オルロは頭からポーションを被る。


ポーションによって、消化液で炎症を起こして赤くなった顔が回復していくのがわかる。


ポーションは、肌に触れるとジン、と少し痛いような気持ち良いような、不快ではない感覚を引き起こし、染み込んで消えていく。


まだ少しその回復の余韻よいんが残っている。


全身の装備を確認すると、幸い使い物にならなくなった装備はなさそうだ。




「…これは?」


オルロは自分を呑み込んだ魔獣を振り返ってボイルに尋ねる。


「これが今回の君の修行相手のひとつ、ヒトクイグサだ。この湿地ウェットランドの至るところに生えている」


ボイルは湿地をステッキで指し、説明を始める。


「まず、君にはこのヒトクイグサをどんな形でも構わない。反応される前・・・・・・に対応してもらう」


「ヒトクイグサを見分けて迂回うかいするのは?」


「もちろんありだが、恐らくそんな余裕はないだろう。なぜなら…」


ボイルはステッキで遠くを指し示す。


「…この湿地ウェットランドには沢山の凶悪な魔獣や魔物がいるからだ」


徐々にこちらに近づいてくる生き物がいた。


「丁度いいところにもうひとつの君の修行相手がきたようだ」




ブブブブブブ…


羽がこすれるような不快な音が聞こえる。


それの羽音は一つではなく、複数。


何かがこちらに向かって高速で飛んでくる。


全身は黒く、目には赤い複眼がある。


ハエのような姿だが、それは単純な蝿ではない。


赤い複眼は正面に2つ、左右にさらに2つずつあり、計6つ。


腕もまた3倍の18本。


羽も6枚ある。


身体は1mくらいある異形の蝿の魔獣だ。


「…アシュラバエ。アレとも君には戦ってもらう。もちろん、足元のヒトクイグサに注意しながらだ。ちなみに、この湿地ウェットランドには他の魔獣や魔物もいる。吾輩はできるだけ君の手助けはしない」


ボイルはシルクハットに手をかけるとフワリ、と跳んで後ろに下がった。


「さて、ここからが本番だ。オルロ、君は君の戦い方で良い。まずは自分の得意を把握したまえ、そしてそれを伸ばすことだ。強くなる答えは一つではない。だが、頭をひねらなければこの課題、なかなか厳しいぞ」


アシュラバエは18本の腕をこすり、頭を細かく傾けながらオルロを見つけて、その口をカパッ、と開く。


オルロはあまりの醜悪な姿に顔をしかめながら、透明の剣と鋼の盾を構える。


「…行きます」






オルロのその様子を、少し離れたところで眺めながらボイルは心の中で「やはりスパルタだろうか…しかし、ううむ…」と呟いていた。

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