三、尾木村での始末のこと

 尾木村にある石井角之介の家は、村の中でも端のほうにあった。

 他の家から少し離れたところに建つその家は、生垣で囲まれた、洒落たつくりの一軒家である。

 要によると、その家はもともとどこかの武家の隠居が囲い者を住まわせていた、いわゆる妾宅であったらしい。

 しかしその女は囲われていながら若い男を引っ張りこんでいたようで、それが隠居に知れて怒りを買い、その囲い者は手打ちにされて死骸は裏手の井戸へ投げこまれたという。

 それ以降、家のまわりで火の玉を見たとか、井戸のそばで血みどろの女を見たとかいう話が村人の間でささやかれていた。

「まあ、相当昔の話らしいし、俺は何も見たことはないけどな」

 家の話をしたあとで、要は笑ってそうつけくわえた。

 そんな話を聞かされたところで、もとより幽霊に怯えるような百ではない。

 石井角之介とこうのことは村でも噂になっているようで、道々ひそひそとささやいては不安そうに目を見交わす村人たちの姿が見られた。

 家のまわりにも人気はない。

 百は今、気配を絶って物陰にひそみ、左目の眼帯を外して石井の家の様子をうかがっていた。

 あらかじめ打ち合わせておいたとおり、要が何気ない様子で石井の家を訪ねる。

 戸口で要と話している石井角之介とこうを認め、百はすいと目を細めた。

 人に見えぬモノを視る百の左目には、死霊としてのこうがはっきりと映っていた。

 人目を避け、遠回りをした百が要の家に戻ってきたときには、要は既に帰ってきていた。

「どうだった?」

「死霊、でしたね。間違いなく」

「やはり、そうだったか」

 俺の勘もあながち外れてはいないな、と要が満足そうにうなずく。

 夕方になってから、要は飯を炊き、百も手伝って熱い味噌汁と漬物で夕餉の膳をととのえた。

「石井殿のことは、ずいぶん噂になっているようですね」

 味噌汁をすすりながら、百が口を開く。

「そうだな。だが無理もないだろう。死んだはずの妻と暮らしているとなればな。俺もそうだが、おこう殿の葬式に出た者も多いのだし。それにこんな村では、なかなか隠しごとをするのは難しいものだぞ。石井殿もそれくらいはわかっていただろうに」

「……それでもなお、忘れられなかったのでしょうね」

 しんみりと百が呟く。

 そうだろうな、と要も首肯した。

 夕餉のあと、百は奥の間、要は次の間にそれぞれ寝床をしつらえた。


 深夜――。

 ぐっすりと眠っていた要は、ふと目を覚ました。

 日ごろは静かな家の中から、小さな声が聞こえてくる。

(百……?)

 寝床に入ったときには、百は穏やかな寝息を立てていたことを要は覚えていた。

 しかし今、襖の向こうから聞こえてくる声は、ひどく苦しそうに聞こえた。

 起きあがり、奥の間をのぞく。

 眠ったまま、百が顔をしかめて呻き声をあげていた。

「おい、起きろ、百」

 声をかけ、軽く肩を揺する。

 百は喉の奥で小さく唸ったものの、目を覚ます様子はない。額には玉の汗がびっしりと浮いている。

「百! 起きろ!」

「う……」

 強く肩を揺すると、百はようやくうっすらと目を開けた。

 その目はどこか焦点があっていない。

「百!」

 軽く肩を叩く。

「あ……」

 要を認め、百が何か言いたげに口を動かした。荒い息の音はするが、声にはなっていない。

「大丈夫、大丈夫だ。疲れたんだろう。さ、ゆっくり休め。もう大丈夫だし、俺もここにいるから」

 そっと汗を拭ってやり、要は優しく百の肩を撫でた。

 大きく息を吐き、百が目を閉じる。

 百が悪夢にうなされるのは、何もこれがはじめてではない。たいてい、具合が悪いときや疲れているときにひどくうなされるのだということも、百と幼いころからつきあいのある要はよく知っていた。

 百がやがて静かな寝息を立てはじめてからも、要はしばらくその枕辺を離れなかった。



 翌朝。

 富田村の船宿〔菱や〕の二階座敷に、百と磯崎要、大倉辰蔵、小沢真澄が顔をそろえた。

「いかがでしたか?」

 百の顔を見るなり、小沢が問いかける。

「石井殿のご新造は、確かに死霊でしたね」

「死霊――」

 小沢が息を呑む。

「それでは、石井殿の身が危ういのではないか?」

 眉を曇らせてそう言った要の言葉を聞いて、小沢の顔がみるみる青ざめる。

「な……なんとか角之介を助ける方法はございませんか」

「それは――ご新造を討つことですね」

「それが角之介のためになると思っているのか? 角之介は再び妻を喪うことになるのだぞ」

 大倉が鋭く百を睨む。腕を吊っていなければ、今にも百に掴みかかりそうな剣幕だった。

「死者がこの世に留まるのは、死者にとっても辛いことなのだそうです。石井殿のお命を救い、ご新造も救うには――ご新造を討つほかありません」

「お前は始末屋なんだろう? 他にやりかたがあるのではないのか?」

「ございません。始末屋だからこそ、ご新造を討つほかないと申しあげております」

 ぎり、と大倉が歯を噛む。

 百を睨みすえる大倉の瞳には、殺気に近い光があった。

 その視線を、百の冷静な目が受け止めた。


 黄昏どき、石井角之介は妻のこうをともない、尾木村から観音町へ続く細道を歩いていた。

 道の両側には木立が広がり、何か出てきそうな雰囲気である。

 と……。

 不意に、石井がぴたりと足を止めた。

 木立の奥から歩み出てきた百が、二人の行く手を阻むように立ちふさがっていた。

 百の手は、腰の脇差にかかっている。

「そこもとは――」

「石井殿、その女子おなごから離れなされ」

 静かに言いかける百から妻を庇い、石井も腰の刀に手をかけた。

 そのとき、木立の奥から異様な音が聞こえたかと思うと、百を目がけて何かが空を切って飛んできた。

 百がぱっと飛び退る。

 その鼻先をかすめたものが、木の幹に深々と突き立った。

 差添えの小柄だった。

「逃げろ、角之介! その女、おこう殿を殺すつもりだぞ!」

 百と石井角之介が、はっと顔色を変える。

 こうの手を引き、石井が踵をかえして走り出した。

 鋭く舌打ちをして後を追おうとした百の眼前へ、右腕を吊った大倉辰蔵が左手に太刀を引っ提げて躍り出た。

「退け!」

「いや、行かせぬ!」

 言うや、大倉は太刀をふりあげて百へ斬りかかった。その太刀筋は意外にも鋭い。

 もう一度舌打ちをした百は背負った大太刀をすらりと抜きはらうや、激情のまま気合声とともに白刃をふりぬいた。

 刃と刃がぶつかり合う音が、あたりに高く響いた。

 中ほどからへし折れた大倉の太刀の切っ先が、くるくると回転しながら飛んでいく。

 唖然とした大倉が、顔を憤怒のあまり赤黒くして、

「貴様!」

 折れた太刀を捨て、大倉が脇差を引き抜く。

 対峙した刹那、百の身体からこれまでは抑えられていた殺気がふきあがった。

 はっと身構えた大倉へ、

「鋭!}

 裂帛れっぱくの気合声を発した百が、太刀を下から斬り上げた。

 大倉の口から悲鳴があがる。

 その左の肘から下が、ぶっつりと斬り落とされていた。

「百!」

 木立から走り出てきた要を認め、百が目を丸くする。

「要様?」

「話は後だ、行け!」

 手早く大倉の傷の血止めをしながら要が怒鳴る。

 太刀をおさめ、百は即座に尾木村へと駆け出した。

 やがて見えてきた石井角之介の家の戸は固く閉ざされている。

「石井殿! 石井殿はおられるか!」

 戸を叩きながら声を張り上げて呼んでも答えはない。

 そうと知った百はためらいなく戸を蹴破り、家の中へ飛びこんだ。

 玄関から続く六畳の一間を見、百の口から絶望的な呻きがこぼれた。

 座った状態から横倒しになったような姿勢で、石井角之介が横たわっていた。その傍らには女が座っている。

 生気の感じられない顔に、髪が二、三本はりついていた。

「石井殿」

 駆け寄って抱き起こし、

「石井殿、しっかり――」

 石井の顔を見て、百が絶句する。

 石井角之介の面には、幽冥へ旅立った人のしるしが明らかにあらわれていた。

 唇の端から畳へ、赤いものが糸を引いてこぼれ落ちていた。

 そっと石井を横たえて目を閉じさせ、百は座ってじっと石井を見つめる女に目を向けた。

 その視線に気付いたのか、女は少し怯えた、しかしすがるような目つきで百を見上げる。

「よろしいか」

 女がこくりとうなずく。

 脇差を引き抜いた百が、気合声とともに刃をふりおろす。

 鮮やかな一太刀だった。

 女が声もなく石井のそばに倒れる。その姿はみるみるうちに、半ば骨と化した躯へと変わっていった。

「百――」

 いつの間にか、要が戸口に立っていた。

 中の様子を見、百を見て、要は全て察したらしい。

「……ひと足、遅かったか」

 低い、血が滴るような声だった。

「石井!」

 遅れて走ってきた小沢が、家の中を見て絶句する。

 それから要の手を借りて後の諸々の手配を済ませ、夜遅くに二人は要の家へ戻ってきた。

 小沢は今夜は大倉を担ぎこんだ医者のところへ泊まるという。

 こうの始末に内心ずっと反対していた大倉辰蔵は、百と同じようにあの木立にひそんでいたらしい。

 虫の知らせか、嫌な予感がして小沢と要が駆けつけたとき、止める小沢を昏倒させてあの妄挙に及んだのだという。

 おそらく事態が始末屋の知るところとなったことを悟った石井角之介は、妻を喪うよりも妻とともに逝くことを選んだのだろう。

「百、何か食べるか?」

 そう訊ねた要に、百は沈痛な面持ちで首をふる。

 帰ってきてから、百はひと言も発さず、悄然と部屋の隅に座っているばかりだった。

「百」

 ゆっくりと歩み寄った要は、そっと百を抱き寄せた。

「辛いなら辛いと言え。悔しいなら悔しいと言え。今なら――誰にも漏れはしない」

 優しく声をかけ、背を撫でる。

 要にすがった百の喉から、悲愴な号泣があがった。

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始末屋怪叢譚 文月 郁 @Iku_Humi

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