二、百、大槻道場で門人と立ち合うこと
翌朝、大槻道場へ稽古に行く要や和馬とともに、百も富田村へ向かった。もっとも、今日の百の目的は道場ではなく、村に住む始末屋にして養父の梶春臣であった。
百は格子縞の薄物の小袖に脇差を差し、背には愛用の朱塗りの大太刀を負っている。
道場の前で二人と別れ、春臣の家を訪ねる。
特に何も知らせていなかったので、春臣が家にいるかどうか、心もとなく思っていた百だが、折よく養父は家にいた。
表で鉈をふるって薪を割っていた春臣は、歩いてきた百を認めて諸肌を脱いだまま、よう、と笑いかけた。
「しばらく顔を見せなかったな。あんまり顔を見なかったから、忘れられたんじゃないかと思ってたぞ」
開口一番、軽口を叩く春臣に、百もにっと笑う。
「年が明けてから、何だかんだと忙しくてね」
「顔を見りゃわかるよ。おおかた、それでまた寝込んだろう」
言い当てられ、百は肩をすくめた。
「ま、あがれ」
肌を入れ、百へそう声をかけた春臣は、
(こいつ、どこか変わったような……?)
ふと、そんな思いを抱いた。
百の外見は、これまでと変わっていない。
蜻蛉玉の付いた赤い髪紐で根結いの垂髪にまとめられた艷やかな緑の黒髪、左目に革眼帯をぴたりとあて、大小の刀を携えている。
始末屋ということを差し引いても、女の格好にしてはずいぶん物々しい身なりなのだが、春臣は百に確かに若い娘を康じとった。
「で、今日は何の用だ? 無沙汰ほどきの顔見せ、ってだけじゃないんだろう?」
「実は、昨日――」
茶を飲みながら、百は昨日の神社でのことを物語った。
「ほう、お前が磯崎のご長男とな……」
話を聞いた春臣がにやりと笑う。
「いや、それを言いたいんじゃなくて」
「わかってるさ。それで、お前はどう思うんだ?」
「少し見ただけだから、はっきりとは言えないんだけど……たぶん、死霊、だと思う」
「ふむ……話だけで判断するなら、死霊かどうかは五分、ってところだな。だがな、百」
とん、と春臣が湯呑を置いた。
「もしその女が死霊だとしたら――後が厄介だぞ」
百を見つめる春臣の目は鋭かった。
始末屋の目だった。
「厄介?」
「死霊が留まる理由は知っているだろう?」
「死んだ当人の未練、でしょう?」
「そうだ。だが、もうひとつある」
「もうひとつ?」
「生きてる側の愛着だよ」
「愛着……?」
「死んだ相手を愛しく思う心、死者と離れがたく思う心が死者をこの世に縛りつけるんだ。死者は死にきれずに苦しみ、生者も命を削られていく。あくまでも、その女が死霊なら、の話だがな。
死んだ本人が未練で留まっているなら、死霊を討たなくとも、その未練を晴らしてやればいい。だが愛着で縛られているのなら、いいか。一度手元から失ったものが手元に戻ってきて、それを再び失ったなら――愛着が強ければ強いほど、奪われたときの憎悪は激しくなるぞ」
そう聞いて、百の頭をよぎったのは妹、蘇芳のことだった。
とうに死んだと思っていた妹と再会し、今では互いのところを行き来するようになっている。
(蘇芳がいなくなったなら……)
それを思うと、胸に鋭い痛みが走る。
もしも誰か他人の手で、蘇芳の命が奪われたなら――自分は心底、その相手を恨むだろう。たとえ刺し違えることになったとしても、相手を殺さなければおさまらないだろう。
「始末屋があつかうモノとしては、死霊はそこまで珍しいモノじゃない。だが死霊を討つのなら、生者の恨みを背負うことを覚悟しておけよ」
春臣の声は低い。その重い声音は、それまでの彼とはまるで違っていた。
白刃のように鋭い春臣の視線を、百は正面からしっかりと受け止めた。
「だが、な。生者の恨みを背負うと言っても、この世に縛られるのは、死者にとっても辛いんだ。死霊を討つことは、生者だけでなく死者を救うことにもなるんだ。それも覚えておけよ」
昼を少しすぎ、午前の稽古が終わる時間を見計らって、百は春臣の家を出て大槻道場へ向かった。
午前の稽古を終えた門人たちが次々と表へ出てくる。
門人の中にはこのまま帰る者もいれば、昼を使ってから午後も稽古を続ける者もいる。
門人たちに混ざる要を、百はすぐに見つけた。
要のほうでも百に気付いたらしく、歩いてくる彼女に軽く手をふった。
「どうだ、梶殿に変わりはなかったか?」
「ええ、腹立たしいほどいつもどおりでした」
百の言いかたがおかしかったのか、要が喉の奥でくつくつと笑い声を立てる。
普段、声を立てて笑うことの少ない要が笑い声をあげたことに、周りの門人たちがちょっとざわめいた。
「やあ、久しいな、百」
そこへ、道場着が入っているらしい包みを提げた相馬巽が歩いてきた。
「相馬様、ご無沙汰をしております」
「しばらく顔を見なかったな。雪ノ月(二月)以来か?」
「そうですね。あれから竜胆様にお変わりはありませんか?」
「ああ、何もおかしなことは起きていないそうだ」
「それは何よりです」
「相馬、昼からの稽古は頼む。ちょっと用があるんだ」
「ああ、わかった」
百と要を見比べ、巽がにやりと笑う。
「何だその顔は」
「うん? 道場きっての石部金吉がやっと色を知ったかと――」
「何を馬鹿なことを」
ふん、と要が鼻を鳴らす。
「あの、相馬殿、この女人は……?」
周囲で三人のやりとりを見ていた門人の一人が、おずおずと口を挟む。
磯崎要と相馬巽。大槻道場の〔竜虎〕と称される高弟二人と親しげに話すこの女は何者か、と言いたげな視線が、先刻から百に向けられている。その中にはいくつか、刺々しい視線も混じっていた。
「前に話した〔三羽烏〕の始末屋の百だ」
巽の言葉に、その場の幾人かがどよめく。百を知らない門人なのであろう。
もし以前から道場に通っている門人なら、百がかつて要と巽に加えて大槻道場の〔三羽烏〕と呼ばれていたほどの腕前であることを知っているはずだからだ。
「まさか。いかに鬼人とはいえ、女人が……?」
そんな声をあげたのは、二十六、七の門人だった。がっちりとした身体つきで、相当に修行を積んでいることが見て取れる。
細い、鋭い目をしていて鼻が高く、鼻筋がとおったなかなかの好男子である。
後で知ったことだが、この侍は大倉辰蔵といい、柳道場の門人では五指に入る腕を持っていた。
「いや、大倉。こちらは相当な腕だと思うが……」
大倉の隣にいた、彼と同年代らしい門人がとりなすように口を挟む。色の白い、どことなく大人しそうな風貌の男だったが、目の奥の光はなかなか鋭い。
それを聞いた大倉が、鼻にしわを寄せて冷ややかに百を見た。突き刺すような目だった。
「小沢、いかに腕が立ったところで所詮は女だぞ」
聞こえよがしの言葉。
この手の侮言には慣れている百は涼しい顔で聞き流していたが、横にいた要は眉間に深いしわを刻んでいた。
「おい――」
「――なら、自分で確かめてみるか?」
低い声で言いかけた要を目顔で制しつつ、こちらも渋い顔をしていた巽が口を開く。
少し待て、と巽が道場に入っていく。
ややあって戻った巽が、
「先生から立ち合いのお許しが出たぞ。それと、百。『加減はいらぬ』そうだ」
再び周囲がざわめく。
今度声を立てたのは、以前から道場に通っており、百のこともよく知っている門人たちだった。
「先生のお許しがあるのでしたら、立ち合わせていただきましょうか」
ふん、と鼻で笑った大倉が、百を見もせずに道場に入る。
大小を外し、たすきをかけた百は、木刀を手に大倉辰蔵と対峙した。
道場の中では壁際に門人たちが並んで座り、奥の
木刀をぴたりと正眼につけた大倉のかまえには隙がない。実力に裏打ちされた自信がにじみでている。
百も木刀を正眼にかまえ、ふ、と短く息を吐いた。
次の瞬間、百がすさまじい殺気を放った。白刃で斬り合うときの殺気だった。
「むう……」
喉の奥で声を立てた大倉の額には、汗が浮きだしている。
百の身体が、ひと回りもふた回りも大きくなったように見えた。
すっと百が左足を引く。
それに誘いこまれた大倉が、
「鋭!」
気合声を発して打ちこんだ。
ぱっと半身になった百がそれを避け、自分の木刀で大倉の木刀を下からすくいあげるようにして打ち払った。
異様な音。
大倉の木刀が中ほどからへし折れ、床に転がる。
「な……」
呆然とする大倉の真っ向へ、
「鋭!」
はじめて気合声を発した百が、一歩踏みこんで木刀を打ちこんだ。
とっさに折れた木刀でそれを防ごうとした大倉の右腕を、さらに一歩踏みこんで百が打った。
苦痛の声をあげた大倉が木刀を取り落とし、腕を押さえてうずくまる。
それまで、と左内の声が飛ぶ。
木刀を下ろし、百は静かに一礼した。
「他に百と立ち合いたいという者はおるか?」
大倉が門人の小沢真澄に支えられ、手当のために出て行ったあと、左内が居並ぶ門人を見回した。
誰も動く者はない。
やがて小沢が大倉の手当を終えて戻ってきた。
「大倉の具合はどうだ?」
「腕が折れているようで……当分刀は持てそうにありませぬ」
左内に答えた小沢の言葉を聞いて、門人たちの何人かが非難をこめた視線を百に向ける。
「大倉の言いかたはよくなかったが……腕を折るのはやりすぎでは」
小沢もとがめるような目を百に投げかける。
「木刀でよかったな。真剣で立ち合っていたなら、今ごろ腕が切り落とされていただろうよ」
じろりと小沢を見た要が、ぼそりと呟く。
「それに、加減はいらぬと言うてあったからの」
左内が後を続ける。語調こそ穏やかだったが、左内の瞳の光には、ひやりとするほど冷たいものがあった。
「腕に自信があるのはよいが、それで驕るのはよくないな。それに気付けぬのなら、少し頭を冷やすがよかろう。いつか命を落とすよりは、今腕を折られておいたほうがよいだろうさ」
氷を含んだ左内の言葉に、門人たちがうなだれる。
左内が奥の部屋に大倉の様子を見に行ったあと、巽が緊張をほぐすように息を吐いた。
「先生、よほどお怒りらしいな」
「大倉のあの態度じゃ無理もないだろう」
「まあ、な。そういえば、お前は百と用があるんだろう? 後は俺が引き受けたから行ってこい」
巽がちらりと百を見る。どこか悪戯っぽいその目に見られ、百はちょっと面に血をのぼらせた。
「和馬、お前はどうする?」
「今日は……もう少し稽古をしてから帰ります」
「ふうん、珍しいな」
「それはお前だよ」
巽に言われ、要が首をかしげる。
「特に妙なことを言ったつもりはないが……」
「いいから早く行け」
呆れ顔で巽がひらひらと手をふる。
「何かおかしなことを言ったか?」
道場を出てからも、要はまだ不思議そうな顔をしていた。
「さて……?」
空とぼけつつも、百の頬にはまだ赤みが差していた。
一方、二人が去った後の道場では、
「おい、和馬。お前の兄貴、朴念仁に磨きがかかっていないか」
巽が和馬を相手にそうぼやいていた。
「兄上はあのとおり剣術一辺倒ゆえ……」
「それは俺もよく知っている。昔からあいつは木太刀がふれればそれでいいというやつだったからな。百も百で朴念仁の部類だが、あの石部金吉に比べりゃまだ色気があるぞ。要は何も気付いてないらしいがな」
「ははあ……」
和馬が小さく唸ったところへ、
「あの――」
ためらいがちに、小沢真澄が声をかけた。
そのころ……。
百と要は富田村の〔めしや〕で遅い昼飯を食っていた。
米飯と熱い味噌汁、沢庵が並ぶ膳に箸をつけながら、要が
「さっきはよくやったな」
「いえ……力を加減しませんでしたので。もし今一度立ち合ったなら、大倉殿は手強い相手であったろうかと思われます。今度は侮られることもないでしょうから」
「そうかな……」
要の呟きに、百が思わず箸を止めた。
要は百の剣の腕をよく知っている。そして大倉の剣の腕も十分知っているはずだ。そんな要が、大倉よりも百が強いと言っているのである。
「要様がそんなことを言われるのは珍しいですね」
「む……」
嬉しそうに、にこりと笑んだ百を見て、要の顔面にじわりと血がのぼった。
二人が磯崎家に戻ってまもなく、
「百様、要様がお呼びでございます」
女中に呼ばれ、百はきょとんと目をしばたたいた。
要は何か用があれば、直接百に言いに来る。こうして女中に言伝ることはないと言ってよかった。
小首をかしげつつ、女中について母屋の一室に行くと、苦虫を噛み潰したような要と強張った顔の小沢真澄、白布で右腕を吊った大倉辰蔵がそろっていた。
「何ぞ、御用でございますか?」
「……今日は道場で御無礼をはたらき、大変申しわけなく……」
どことなく一本調子でそう言った大倉が頭を下げる。
「お気になさらず。それともまだ何かございますか?」
「実は、相馬殿から百殿が始末屋だとうかがいまして、その……」
話しづらそうな小沢を見やった要が、
「二人とも、石井殿とは幼馴染だそうだ。それで、近ごろの石井殿についてお前に相談したいと……そうだったな?」
はい、と小沢がうなずき、大倉もむっつりと同意を示す。
「角之介は妻のおこう殿を亡くしてから稽古にも来なくなっていたのですが、数日前に角之介が女と歩いているところをこの大倉が見かけて……しかもその女が亡くなったおこう殿としか思えなかったそうで。私もそれを聞いて角之介の家を訪ねたのですが、角之介はまるで病人のような様子で……女も、確かに亡くなったはずのおこう殿としか思われませんでした」
「そう思われる根拠はございますか?」
「おこう殿は、額に小さな傷があるのです。その傷も確かめましたので……。先ほど磯崎殿からうかがったのですが、磯崎殿も角之介とおこう殿を見かけられたとか」
「ああ、壮士の社で見かけた。確かにおこう殿そっくりな女ではあったな」
ふむ、と百が考えこむ。
「やはり石井殿のご新造を、きちんと確かめておきたいですね」
「……それなら家に来るか?」
「要様がご迷惑でないのでしたら、お願いします」
「ああ、わかった」
翌朝、富田村の船宿〔菱や〕で落ち合うことに決め、二人は帰っていった。
その帰路のことである。
「真澄、どういうつもりだ。本気であの始末屋に頼むつもりか?」
「今の角之介は見ておられぬ。たとえ恨まれても、おこう殿が角之介の害になる存在なら、始末屋に頼むべきだろう」
「それで角之介が喜ぶか?」
「喜ばぬだろう。恨むかもしれぬ。だが俺は恨まれても構わぬ」
きっぱりと小沢が言い切る。
それからは二人とも、何も話さなかった。
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