選び取り

一、百、磯崎家で養生すること

 前日から降っていた雨は刻一刻と激しさを増し、この日の夜には嵐となっていた。

 表では吹き荒ぶ風が暴れる獣さながらの唸り声をあげ、雨戸をがたがたと揺さぶる。ぴたりと閉じられた雨戸は、今にも外れそうなほど揺れていた。

 その合間に雷鳴がとどろき、あたりがぱっと真昼のような光で照らされる。

 轟音。

 水だ、と誰かが叫ぶ。逃げろ、と別の、切羽詰まった声も聞こえた。

――高台へ逃げろ、急げ!

 父の声。

 母に手を引かれ、家を出る。

 その直後、茶色く濁った水がどっとかぶさってきた。


 自分があげた悲鳴で、百ははっと目を覚ました。

 枕元に座る奈津が、百を不満げに見守っている。

 汗でぐっしょり濡れた寝巻が、冷たく肌に触れた。

 奈津の手を借りて濡れた寝巻を着替え、水を一杯飲んで、人心地の付いた百はふうっと息を吐いた。

 百が寝ているのは、磯崎家の離れの六畳間である。

 外からは、ぱらぱらと雨の音が聞こえてくる。昼すぎから、それまでの快晴が嘘のように急に雨が叩いてきたのである。いっときは車軸を流すような勢いの雨だったが、今はかなり雨勢は弱まっており、夜が明けるころには止むだろうと思われた。

「どう、少しは気分がよくなった?」

「はい」

 再び枕に頭を乗せた百の額に、奈津が手をあてる。

「よかった。熱も下がってきたみたいね」

 ほっと胸をなでおろした様子で奈津がささやく。

 額に乗せられた、濡らした布の冷感を心地よく感じながら、百はまもなくうとうとと眠りに落ちた。

 事の起こりは数日前。

 その日、皇領の尾木村に住む同門の兄弟子、磯崎要が百の暮らす西澤淵の百姓屋に顔を見せた。

 要は将領の井佐町に住んでいる知人を訪ねた帰りに、百の顔を見に寄ってみたという。

 ちょうどそのとき、百は手掛けていた仕事をひとつ終わらせて、家へ帰ってきたところだった。

 家の前で顔を合わせるやいなや、要が眉をひそめた。

「どうも顔色がよくないようだが……ちゃんと休んでいるか?」

 訊ねられ、百は苦笑を浮かべた。

「このところ、仕事が立て込んでおりまして。休んでいるつもりではあるのですが、あまり休めていないかもしれませんね」

「……まったく。少し休め。それこそ仕事に差し支えるぞ。お前、そこまで身体が丈夫なほうじゃないだろう。この間実家に顔を出したとき、近ごろは顔を見ないがどうしているか、無理はしていないかと義母ははも心配していたぞ」

「そういえば、しばらくお屋敷にお伺いしておりませんが、皆様にお変わりはありませんでしたか?」

「ああ、変わりなかった」

「それは何よりです」

 微笑んだ百に、要も――彼にしては珍しく――表情を和らげた。

「年明けにお世話になってからご無沙汰をしておりますし、今引き受けている仕事を片付けたら、一度ご挨拶に伺おうと思います」

「それなら伝えておくが、本当に無理をするなよ」

 要にそう念を押され、百は素直にうなずいた。

 それから何日か、百は仕事を片付けるために寸暇を惜しんで働き、引き受けた仕事をどうやら全てしおおせた。

 こうして百の手が空いたのが二日前のことであった。

 手が空いてすぐ、百は要に話していたとおり、皇領・観音町の磯崎家を訪問した。

 昔から、百を我が子のように可愛がってくれる奈津は、大喜びで百を迎えてくれ、彼女は奈津の話し相手をつとめていた。

 遅くなる前に帰るつもりだった百だが、奈津から夕餉を共にするよう強くすすめられ、百は断りきれずに夕餉を馳走になることにした。

 しかし、気付かぬうちに疲労が溜まっていたのか、百は夕餉の前に高熱を発して倒れてしまった。

 それから二日間、百は磯崎家の離れの一室で養生を続けていた。

 夜が明け、やがて昼すぎになると、要が百の見舞いに顔を見せた。

 通っている富田村の大槻道場での稽古の帰りに立ち寄ったと言った要だが、実のところ、要が住んでいる尾木村のほうが、磯崎家のある観音町より富田村に近いのである。

「和馬から、お前が家に来て倒れたと聞いて案じていたんだが、その様子なら大丈夫そうだな」

「ありがとうございます。今朝には熱も下がりましたし、身体ももう大丈夫なのですけれど……」

「大事をとってもう二、三日泊まっていけとでも言われたか? まだ顔色もよくないし、俺もそうしたほうがいいと思うがな。今は特に差し迫った仕事はないんだろう?」

「ええ、ありませんけれど、お屋敷の皆様にこれ以上ご迷惑をおかけするのも気が引けて……」

「なに、迷惑なことがあるものか。もし迷惑に思っていたらそんなことは言わないだろうよ。構わないから気にせず休んでいろ。熱が下がったからといって、また無理をするなよ」

 しませんよ、と口を尖らせる百を見て、要が小さく笑った。

「とにかく、今朝熱が下がったばかりなんだろう? せめて今日一日はゆっくり寝ていろ。明日体調がよかったら、足慣らしに少し出かけようか、どうだ?」

「はい」

 ぱっと百の顔が明るくなる。

「何にせよ、大事がなくてよかった。それじゃ今日は休んでいろよ」

 愁眉を開いた様子で、要が部屋を去る。

 要の姿が見えなくなって、百はふと、冷風に吹かれたような心持ちになった。

(早く明日になればいいのに)

 そんなことを考えた自分に苦笑する。

 寝込んでいたせいで、人恋しくなっているのだろうか。

(まったく、何を子供のようなことを……)

 横になって布団をかぶったものの、百は結局眠れないまま時間をすごしていた。


 翌日の夕方、百は要とともに足慣らしがてら観音町の社へ出かけた。

 百は奈津に借りた薄青の単衣、要は濃紺の単衣に脇差ひとつを差している。

 この社には武芸の神・壮士が祀られており、旗本屋敷が多い観音町という土地柄、日ごろから武術の稽古に励む旗本の子息や家来たちが参詣に訪れる。

 しかし今は夕方ということもあり、境内に参詣者は少なかった。

 社に詣でたあと、二人は足休めに近くの茶店に入った。表の床几しょうぎに腰をかけ、茶と団子を頼む。

 床几のそばに繋がれて寝そべっていた犬――茶店で飼われているらしい――が、尻尾をふりながら百に甘えかかる。

 目を細めて笑った百は、よしよしと犬を撫でてやった。

 その様子を見ていた要も、口元を緩めて柔らかな表情を浮かべている。

「体調はどうだ?」

「病後ゆえか、少し疲れましたね。いえ、たいしたことはありませんが」

 言いつつ身体を起こし、団子をかじっている百の顔を、要がじっと見つめる。

「私の顔に何か付いていますか?」

「あ、いや……」

 小首をかしげる百から慌てて目をそらし、茶をすすった要は、こちらへ歩いてくる男女に気付いて訝しげに眉を寄せた。

 男は二十六、七の侍で、大小の刀を腰に差し、茶色い麻の単衣を着ている。髷もきちんと結い、こざっぱりとした格好だが、その顔は病人のようにやつれ果てていた。

 隣を歩く女は二十そこそこだろうか。淡い紫の単衣を着て、髪を丸髷に結っている。

 何気なく女を見た要が小さく、しかし鋭く息を内へ吸ったのに気付き、百も彼の視線をたどった。

 一瞬、百と女の目がぴたりと合った。

(まさか……?)

 女に違和感を覚えた百が内心でそう呟いたとき、それまで百の足元で寝そべっていた犬が唸りながら起きあがり、女に向けて吠えかかった。

 女がきゃっと悲鳴をあげ、傍らの男にすがりつく。

 今にも綱を引きちぎりかねない様子の犬に驚きつつ、とっさに百は綱をつかんで犬を押さえた。

 こちらも驚いて飛び出してきた茶店の主人を手伝って、百は犬を中に入れた。

 女が見えなくなって、犬はようやく少し落ち着いたらしいが、まだ低い唸り声を立てていた。

 外に戻ると、女を背に庇ったまま、男がぎろりと百を睨みつけた。

「そこな女、私の妻になんぞ恨みでもあるのか」

 つかつかと百に歩み寄った男が、尖りきった目で百をねめつける。

 間近でその顔を見、

(これは……)

 百の勘は、男が相当命を削られていることを感じ取っていた。

 それでも、しいて落ち着いた声を出す。

「ご新造に? そもそもお会いするのは今が初めてのはずでございますが――」

「お前が妻に犬をけしかけようとしたのではないのか。妻に何の恨みがあるというのだ」

 上ずった声で言いつのる男は、今にも百につかみかからんばかりの剣幕だった。

「石井殿」

 静かな、ぴしりとした声が横から割って入る。

 男は声の主を見て、それが要だと気付くとはっとしたようだった。どうやら男はこのときまで、すぐそばにいた要に気付かなかったらしい。

「これは……磯崎殿」

「ここ二月ほど顔を見ていなかったゆえ、どうしているかと思っていたのだが……まあそれはいい。百はご新造に何もしていない。俺が隣でずっと見ていたのだから、間違いはない」

 一歩前に出て、百を背に隠すようにしながら、要は落ち着いた態度で男をいさめる。

 その様子を見守っていた百は、要の落ち着きの裏にひそむ、ぴんとはりつめた緊張を感じとっていた。

「磯崎殿がそう言われるのなら……」

 じろりと百に一瞥をくれ、男は女をつれて社のほうへ歩いていく。

 二人の姿が見えなくなってから、要はどさりと床几に腰をおろした。その顔からは血の気が引き、頬が強張ってそそけだっている。

 湯呑に残っている茶をぐいとひと息にあおり、要は二、三度、肩を大きく上下させた。

「要様?」

「話は後だ。あの二人が戻ってくる前に急いで戻るぞ」

 立ちあがった要が、二人分の茶代を払う。

 事情は呑みこめないものの、要のただならぬ様子に、百も素直に床几を立った。

 それから何事もなく磯崎家へ帰りついた二人は、離れで差し向かいに座っていた。

「急かして悪かったな。体調はどうだ?」

「大丈夫です。要様、先ほどの方はお知り合いですか?」

「ああ。雛ノ月(三月)から道場に来ている、石井角之介という男だ」

 要によると、石井角之介はもともと皇領の池部町で一刀流の道場を開いていた剣客、柳大膳の門人だったという。

「柳大膳殿、というと、昔皇宮の御前試合で大槻先生が立ち合ったという……?」

「その柳大膳殿だ」

 そのときの試合は、百や要の師、大槻左内と柳大膳が木刀を構えたまま、

「小半刻あまりも睨みあい……」

 結局勝負がつかぬまま、勝負は引き分けとなったのだという。

「あのとき、もう数瞬長く睨みあっていたら、儂が負けておったろうよ」

 いつか、左内は要や百、やはり兄弟子の相馬巽にそう笑いながら話したことがあった。

 その柳大膳は、高齢を理由に道場を閉じて故郷の真鶴郡・成生の里に隠居することを決め、例の御前試合以降、親しくつきあっていた大槻左内に門人を頼んだのである。

 その後、左内の紹介で別の道場に移った者もいたが、石井角之介を含めた数人が大槻道場で稽古を積んでいた。

 しかしここ一月半ほど、石井は道場に通ってこなくなった。

 というのも、石井の妻、こうは卯ノ月(四月)に入ってまもなく、出先で倒れてそのまま世を去った。

 こうは池部町の〔鈴白屋〕という菓子舗の次女で、昨年石井の元へ嫁入りし、その夫婦仲は人も羨むほどであったという。

 もともと住んでいた池部町から富田村までは少し距離があるということもあり、道場を変わったとき、石井は尾木村の一軒家を借りてそこに二人で住むようになった。そのため、同じ尾木村に住む要は、度々二人の仲睦まじい様子を見かけていたのである。

「ご新造が亡くなってから、石井殿は何も手につかぬ様子でな。突然のことで無理もないだろうが……」

「ご新造には、何か持病でも?」

「そこまでは俺は知らんな。聞いた話じゃ卒中だということだが……」

 要が一度言葉を切り、ややあって、ためらいがちにゆっくりと口を開く。

「百、お前が相手だから言うんだが……石井殿がつれていたあの女、ご新造……おこう殿に瓜二つだったんだ。仮にあの女がおこう殿の姉妹か、単に顔がそっくりの別人だったとして、前妻の喪が明けないうちから後添いを迎えるか?」

「よほどの事情がないかぎりは、そんなことはしないでしょうね」

「そうだろう。それと……お前はあの女をどう思った?」

「どう……と申されますと?」

「……俺の考えすぎならいいんだが、あの女を見たとき、嫌な感じがしたんだ。……箱の一件、覚えてるか?」

「ええ」

「……あのとき……箱を預かっていたとき、毎晩感じていた気配と、あの女の気配が……よく、似ていた」

 話すにつれて、要の言葉は喉から無理矢理絞り出しているかのようにしわがれ、その顔色は青をとおりこして土色になりかけていた。

「要様」

 声をかけ、百はそっと自分の手で要の手を包みこんだ。

 爪が食い込むほどきつく握られた要の手は冷たい。

 要がぎょっと百を見返した。

 大きく息を吐き、要がゆっくりと、ぎこちなく手を開く。要の口元には、かすかに苦笑があらわれていた。

「あれから、何かございましたか?」

「ああ、いや」

 微苦笑をすぐに穏やかな笑みに変え、要が首をふる。

「心配するな。前より勘は鋭くなったが、おかしなことは起きていないよ」

「それならよろしいのですけれど……」

「俺のことより、石井殿をどうする? もしもあの女が妖異の類なら、石井殿は危ないのではないか?」

「そうですね……。仮にあの女人が害をなすモノならば、確かに討たねばならないのですが、それと決めつけるのはまだ早計でしょう。動くのならば、きちんと確かめてからにしなければ」

「それはそうだな。明日、道場で何人かに話を聞いてみるよ。悪いがもう少しこっちにいてくれないか? 話は俺からしておくから」

「わかりました。お願いします」

 頭を下げた百は、まだ要の手を握っていたことに気付き、慌てて手を離した。

 百の耳がさっと赤くなる。

「どうした?」

 要が不思議そうに百を見やったところで、女中が夕餉の支度ができたと呼びに来た。

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