六、一本松での始末のこと

 八坂の話にあった荒谷町の空き家はすぐにつきとめられ、彼の話どおり、争った痕と腕らしきものが包まれた、血の染みた黒い片袖が見つかった。

 一本松への呼び出しについては、将領、皇領の奉行所間で捕り方の手配が進められているらしい。

 その話を聞きながら、百が庭で洗濯をしていると、八十村の若者が走ってくるのが見えた。

「おみつさんが?」

 洗濯の手を止め、若者と二言三言話していた百の顔からさっと血の気が引いたのを、縁側にいた蘇芳は認めた。

「姉さん、何か――まさか、また?」

 洗濯を終わらせ、戻ってきた百は、蒼白の面を蘇芳に向けた。

「そう、言ってもいいだろうね」

 百の声は乾いて平坦に聞こえた。きつく握られた拳は、小さく震えていた。

「何があった?」

「殺された三弥――島屋の若い衆の母親が、首をくくったのだそうです。見つかったときにはもう遅かったのだそうで……」

 きれぎれの、短い音が二、三、百の口からこぼれる。歯をくいこませた唇に、血の滴がもりあがった。

「あの人は、旦那さんに死に別れてからずっと、女手ひとつで息子を育ててきたんです。その息子を殺されて、このさき生きていくのぞみがなくなった、と、書き置きがあったのだそうです」

 八坂が、恥じ入るように面を伏せる。

 ちらりとそれを横目に見て、百は唇を引き結んだまま文机の前に座り、筆をとった。

 しばらくして。

「胡堂様、長谷部様にこちらをお渡しいただけますか」

『始末御願おんねがい』。

 整った字で書かれた表書きには、そうあった。

「八宏を、切る気か」

「切らねば――すみますまい」

 始末屋がひとを始末するときには、必ずその旨を書いた願書ねがいがきを奉行所に提出することになっている。ただの殺人と始末とを区別するためである。仮に無届けでひとの始末を行った場合は、それがどれほど正当であろうと、その始末屋は殺人の咎で裁かれることになる。

 百が始末屋になると決めたとき、養父の春臣から耳にたこができるほど言い聞かされたのがこのことだった。

――ひとのことならできるだけ、奉行所に任せておいたほうがいい。奉行所が手出しできないモノを相手にするのが始末屋だ。そう覚えておけ。

 この言葉を肝に銘じ、百はこれまで、主に妖を相手に刀をふるってきた。

 百がその刀でひとを始末するということは、本来奉行所で裁かれるべき相手が法ではなく、百の一存で、百によって裁かれるということだ。

 その責は重いものだと、百は理解していた。

「本来奉行所そちらの役であることは重々承知しております。しかし、始末屋はひとに仇なすものを討つのが役目。その建前でもって、八宏を始末したく存じます。もし私が倒れたら、そのときにはお願いいたします」

 始末屋の顔で、百は深々と頭をさげた。



 百の願書はすぐに奉行・長谷部平内のもとへ届けられ、その日のうちに受理された。願書がこれだけ早く受理されるのは滅多にない。それだけ重要だと受け取られたのである。

「ただし、捕り方も同行する。それでいいな」

「もちろんです」

「よし。しかし、どう戦うつもりだ」

「それは申さぬほうがよろしいかと思います」

「そうか」

 自身も剣をつかう右京である。百の内心を察したらしく、それ以上は言葉を重ねなかった。

 その夜、月明かりの下で、百は真剣で型を使っていた。

 白肌と白刃が月明に映えてうかびあがり、艶やかな柳髪が闇にとけこむ。

 するすると動くたび、かすかに衣擦れの音が聞こえ、玉散る刃が夜気を裂き、鋭い息の音がなる。

 昨今、剣術の型には〈燕〉だの〈落葉〉だのと仰山名がつけられていることが多いが、百が師事していた大槻左内の無谷むがい流には型の名はない。ただ型ノ一、二と番号がふってあるのみである。

 ひととおりの型を終え、百は静かに刀をおさめた。

 家へ入った百に、蘇芳が茶をさしだした。

「ありがとう」

「剣術なんて、いつ覚えたの?」

「今の父さんに引き取られてからだね。少しは身体が丈夫になるんじゃないかって。実際、昔よりは寝こまなくなったんだよ、これでも」

 ゆっくりと茶を飲み、百は少し眉を寄せて、じっと蘇芳を見た。

「それで、なにか言いたいことがあるんじゃないの」

 八宏を討つ、と宣言してから、蘇芳の顔は陰っていた。

「それは……」

「言いたいことがあるなら言えばいい。言えないような関係でもないだろうに」

 蘇芳はうつむいたまま、しばらく黙りこくっていた。

「――いいえ、やっぱり言わないでおく」

「紅」

「ほら、姉さんはもう寝てちょうだい」

 いつになく強引に、蘇芳は百を布団に寝かせた。

 静まり返った屋内で、

「……死なないで、なんて言えないわよね」

 小さなささやきが、暗い部屋に消えた。



 真鶴郡の一色村は、海の近くにある。

 磯の香が空気にまじり、人の声とともに波の音が耳に届く。

 大八車に乗った八坂とそれを押す小者、その後に百、そして将領と皇領の奉行所から手練れの与力、同心がしめて十名。中に胡堂や右京がいるのはいうまでもない。

 百は秦国廣はたのくにひろの脇差とともに、始末屋になるときに養父の梶春臣から譲られた伊上國定いのうえくにさだの大刀を腰に差し、革眼帯を外して、白い短袖の着物に軽衫かるさん袴、草鞋ばきという姿であった。

 赤い髪紐でまとめられた緑の黒髪には、翡翠のかんざしが刺さっている。

 家を出るとき、蘇芳が自分のかんざしを渡してきたのである。

 遠くへ行くひとに自分が身に着けているものを託せば、相手は無事に帰ってくる。

 珂国に昔から伝わるまじないである。

 今にも泣き出しそうな空を背に、一本松は生えていた。

 樹齢何年か見当もつかない、立派な枝ぶりのごつごつとした樹である。

 八宏はすでにそこにいた。

 薄汚れた黒い筒袖の着物の裾を端折り、袴はつけずに脚絆きゃはんと草鞋。得物を持っている様子はなく、だらりと両の腕をさげている。

 血の気の薄い頬、低い鼻、短い散切りの黒髪。その全身には気の弱い者なら卒倒しそうなほどの怨念がまとわりついている。

「来たねえ」

 柔らかな声を発し、八宏がにい、と笑った。

 波の音が聞こえる。

 ざ、と潮風が吹きつける。

「八宏……」

 八坂のかすれ声が、風にさらわれる。

 ぽつぽつと、大粒の雨が落ちてきた。

 砂利を踏んで、百が一歩進み出た。

「あなたが……先かな」

「そうです」

 にっこりと相好を崩した八宏とは対象的に、百は眉ひとつ動かさず、國定の大刀をするりと抜いた。

 砂利の上を、ほとんど足音を立てず、滑るように動いて、八宏は百との距離を縮める。

 百は大刀をかまえ――すっと後ずさって距離を広げた。

 捕り方がざわめき、幾人かは前に出ようとする。

「引っこんでいろ!」

 女と思えぬ大音声で一喝するや、百は八宏へ向かって矢のように迫った。

 こちらのものとばかりにふりあげられた八宏の腕が、百の頭へ向けて叩きつけられようとしたとき、さっと半身になった百は刀をはらった。

 八宏の左腕が、断ち切られた。

「あ……」

 更に一歩、百が踏みこんだ刹那、八宏の右腕が切り飛ばされる。

「う、あ、ああっ……!」

 よろめき、悲鳴をあげかけた八宏の正面から、

「鋭!」

 大音声の気合声とともに、百が大刀をふりおろした。

「ぎゃあっ……」

 袈裟懸けに切りおろされ、八宏はのたうち回る間もなく絶命した。

 刀をひとふりして血を拭い、百は八宏の躯の傍にかがみ、その髪をひと房切り取り、懐紙で包んでそっと八坂に手渡した。

 海鳴りと雨音の中、八坂のむせび泣きが起こった。

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