四、三弥の奇禍のこと

「八宏が出たぞ」

 昨晩から降り続く雨の中、西澤淵の百の家まで息せき切ってやってきた同心・戸岳とがくが、開口一番そう知らせた。

 屋内にさっと緊張が走り、中でも蘇芳はきつく両手を握りしめる。

「どこに出ました?」

「刈谷村と十倉村の境の辻だ。今朝、死体が見つかった。頭を内から潰されている。間違いなく、八宏の仕業だ」

「殺られたのは誰だ、村人か?」

「いや、それが違うんだ。驚くじゃないか。去年ひと騒ぎあった皇領の〔西屋〕の奉公人で、俊吉という男だそうだ」

 西屋ぁ、と胡堂が声をあげる。

「志月にあらためてもらったから、間違いはあるまいと思う。昨夜、俊吉は志月のところに来たというしな」

「しかし――」

 西屋と聞き、難しい顔の百が口を開く。

「西屋の奉公人が、志月の居所を知るはずがないと思うのですが。刈谷村に住むようになってから、志月は西屋とは連絡を絶って、住居すまいも知らせていないといっていましたので」

「なぜ居所を知ったかはわからないが、とにかく俊吉は家まで来たのだそうだ。西屋で急な用ができたからすぐに来てもらえないかと言ってきたが、夜も遅いからと断ったら、ひどく不機嫌な様子で帰っていったらしい。おそらくその後に、俊吉は八宏に襲われたのだろう」

 俊吉の遺体の引き取りなどの手続きのために、戸岳が奉行所へ戻ったあと、百は男が目の色を変え、顔をこわばらせていることに気が付いた。

「どうしました?」

「かりや、むら……やひろ……しづき……」

「覚えがありますか?」

「どこかで……聞いたような……」

「どこで聞きました!?」

 蘇芳が身を乗りだす。

 男はじっと空を注視し、賢明に記憶をたぐりよせようとしていた。

「う……」

 男の面上に、苦悶の色が浮かぶ。

「あ、ああ……」

 顔を歪めた男が頭を抱え、悲痛なうめき声を上げる。

「志月に覚えがあるのなら、引き合わせれば何かわかるかもしれんな」

 どうにか男をなだめた百が、そうですね、とうなずいた。


 その夜。

 男の枕頭に座って様子を見守っていた百のところへ、蘇芳が茶を持ってきた。

「飲む?」

「うん、もらうよ」

 はく、と、ぽつりと蘇芳が呼びかける。

 幼いころと同じ呼びかたに、ん? と百が首をふりむける。

 じっと百を見つめる蘇芳の顔つきは、いつになく真剣だった。

はく、お願いだから、今のうちにどこかに隠れて。八宏は危険だから」

「ありがとう、紅。心配してくれてるのは充分わかってる。でも、八宏がいつ、この人が生きていることを知ってしまうかわからない。それに香具師の配下なんてのは、殺しそこねた相手を放っておいたりなんかしない。だからこの人を守るためにも、私はここにいなきゃいけない。それにここのほうが、他所よりも人が来るのがわかりやすいからね」

「そう、よね」

「勘違いしないでよ。あんたが私をかかわらせたくないことも、その理由もわかってる。それでも……今離れるわけにはいかないよ」

「うん、わかってる。でも姉さん、本当に無理はしないでよ」

「しないよ。でもあんたも気を付けなよ。顔、知られてるんだから」

 もちろん、と、蘇芳は大きくうなずいた。


 翌日、百の家を志月が訪れた。

「やあ、白菊、元気かい?」

「おかげさまで、なんとか。昨日は大変だったらしいね」

「ああ、ちょっと慌ただしかったね。それで言伝は聞いたけど、誰かに会ってほしいんだって?」

「うん」

 家に入って男を見るなり、志月は大きく目を見開いた。

「八坂さん! いったいどうしたんです!?」

 思わず声をあげた志月を、男は当惑しきった様子で見かえした。

「ど、どなたでしょうか」

 志月の様子を見、知り合いか、と右京がひと膝ゆすりだす。

 以前の西屋での一件を思い出したのか、志月はばつが悪そうな表情になった。

 百から男を見つけた経緯と男の記憶喪失のことを聞いて、志月は得心したようにうなずいた。

 志月の言によると、男は八坂といい、昨冬からつい二月ほど前まで、志月のもとに逗留していたのだという。

「きっかけですか? 家の近くで行き倒れになっていたので、家に連れてきたのです。なんでも、兄を探していると聞きました。二月ほど前に、手がかりが見つかったと出ていかれて、それから消息を聞かなかったのですが……」

 志月の話を聞いても、男は自分のこととは思えなかったらしい。きょとんとした様子で話を聞いている。

「何か、こころあたりは……?」

 百が訊ねてみても、男は首をかしげるばかりだった。

 考えているうち、男は顔をしかめ、苦しげな声をあげた。

 男を落ちつかせて寝かせたあと、右京がふと思いついたように口を開いた。

「動けるようになったら、刈谷村に行ってみたらどうだ? 何か思い出すことがあるかもしれないし」

「それがいいかもしれませんね」

「そうだ、白菊。西屋から、何か君のところに言ってきてはいないかい」

「特に何も。どうして?」

「いや、西屋の奉公人が、あんなことになっただろう? もしかしたら君のところに迷惑がかかっていないかと思ったものだから。何もないならいいけれど、もし西屋から何か言ってきたら、すぐに知らせてくれよ。これ以上、君に迷惑はかけられないからね」

 志月の言葉に、百がひょいと眉をあげる。

「知らせるのはいいけれど、迷惑かけられないからって一人で無茶はしないでよ」

「大丈夫。そこはわきまえてるよ」

 また前みたいなことになったら大変だし、と志月が笑う。

「あの二人はどうしてる?」

「二人……ああ、夜鳥と空鳥? あの二人ならあいかわらずだよ。ときどき出てきて、昔みたいに子供に混じって遊んでるよ」

「それなら大丈夫そうだね」

「うん、あんなことはあったけど、空鳥も今は落ちついてるしね。八坂さんのことで何かあったら、いつでも呼んでくれよ」

「ありがとう。帰り、気を付けて」

 帰っていく志月の後ろ姿を、男は険しい顔でじっと見つめていた。

 その口から、重い溜息が落ちる。

「あまり、思いつめないほうがいいですよ。不安なのはわかりますが、今は養生してください」

 男がぱっと顔をあげた。

 青白い顔の中、細い目がぎらぎらと光って百を睨みすえている。

「あなたに、何が――」

「わかりますよ。私も、昔のことを覚えていない時期がありましたから」

 さらりと答えた百に、男が続けようとした言葉を詰まらせる。

「今は……?」

「今も、全てを思い出したわけではありません。忘れていることさえ、忘れてしまっているものもあるでしょうね」

 ちらりと、ほんの一瞬だけ表情を曇らせたものの、百はすぐに普段の調子を取り戻した。

「夕方、ちょっと村の寄合に顔を出してきますよ」

「こんなときに?」

「こんなときだからね。八宏のことがあるから、ちょっと行って、注意くらいはしなきゃいけない。用をすませたら、すぐに戻るよ」


 すぐに戻る。

 百は確かにそう言ったし、彼女としてもそのつもりだった。

 しかし、彼女が村の集会所を出たときには、すでに日は落ちていた。

 急ぎ足で、夜道を駆ける。

 百が家を出てきたときには雨が降っており、今は止んでこそいたものの、道はぬかるんでいた。

 ぬかるみに足をとられ、転ぶのを踏みこらえた拍子に、草履の鼻緒がぷっつりと切れた。

 小さく舌打ちをしてかがみこみ、懐紙で手早く鼻緒をすげていると、手元が照らされた。

「鼻緒が切れましたか」

「ああ、三弥か。島屋にいなくていいのか?」

「今日は特別に休みをもらったんです。母が昨日から腰を痛めていて」

「おや、それはいけないな。大丈夫か?」

「はい、もうだいぶ良くなっているので。ところであの男の人は大丈夫ですか?」

「ああ、良くなってきているよ」

 三弥と別れ、駆け足で西澤淵の家に戻る。

「ごめん、遅くなった」

「何があったのかと思ったわよ。胡堂様に頼んで見に行っていただこうかと思ってた」

「本当にごめん。こんなに遅くなるとは思わなくて」

「何か情報はあったか?」

「残念ながら、何も」

「そうか。何か手がかりが見つかればと思っていたのだがな」

「八宏はもう、このあたりにはいないのではないでしょうか? 町方の探索が激しくなっているのは、向こうもわかっているでしょう」

「どうだろうな」

 鼓動が顔をしかめて腕を組んだ。


 翌日、百姓家の扉が激しく叩かれた。

 何事かと慌てて出てみると、そこには面をこれでもかと歪めた戸岳が、息を切らせて立っていた。

「また――殺られた」

「な……誰が」

 わからない、と戸岳が首をふる。

「下手町で見つかった。番屋に運んだところだ」

 死体の人相風体を聞いて、百の顔が徐々に青ざめる。

「おそらく、知人かと」

 胡堂と蘇芳に断わって、戸岳とともに下手町に走る。

 番屋の一隅に、むしろをかぶせた死体が寝かせてあった。

 筵をめくる。

 潰れかけの袋のようにべしゃりと潰れた顔は、それでもかろうじて相好を見分けられた。着ている着物にも覚えがある。

 吐き気をこらえるように口を手で覆い、筵を戻す。

「大丈夫か?」

 目を閉じて息を整えていた百は、小さくうなずいた。

「知っている人間だったか?」

「はい。この近くの船宿――〔島屋〕の若い衆で、三弥という男です。一応、船宿のほうにも確かめておかれたほうがいいかと思いますが」

「承知した。感謝する。どうする、少し休んでいくか?」

「……いえ、大丈夫です」

 その後、顔面蒼白で戻ってきた百を見て、井戸から水を汲んでいた蘇芳は、手に持っていた桶を取り落としかけた。

「ね、姉さん、どうしたの!? 大丈夫!?」

「ああ、悪いけど、水を一杯もらえないか」

 冷えた水を一杯あおり、百は胡堂と蘇芳に事の次第を伝えた。

「気違いめ」

 胡堂が低い声で毒づく。

「やっぱり、頭を?」

「ああ。“内側から砕かれる”の意味がわかったよ」

 百の脳裏に浮かんでいたのは、男の、肉も骨も関係なく砕けた腕だった。

 男を見ると、話が聞こえていたのか青ざめている。

「しかし、手でこう……挟んで間のものを壊すというのは、どういう理屈なんだ?」

 ぽん、と胡堂が手を叩く。

 その音を聞き、その動きを見て、男は鋭く息を吸いこみ、まなじりが裂けんばかりに目を見開いた。

「――手を」

 三人の目が男に向く。

「手を合わせることで気を通して、間にあるものを破壊する技、です」

 百に劣らず血相を変えた男が、嗚呼、と頭を抱える。

 男を落ちつかせようとした百は、ふと男から視線を外し、庭の紫陽花をじっと見つめた。

 その手はさりげなく、帯びたままの脇差にかかっている。

「そこにいるのは何者か」

 ゆらり、と。

 花の影から、黒装束の男が立ちあがった。

「生きていたのだねえ、八坂」

 青白い顔、低い鼻、火傷の痕こそないが、ほとんど瓜二つの男。

「八宏……!」

 今にも飛びかかりそうな蘇芳を、百は腕をつかんで引き止めた。

「そう、それがいいね。うっかりと襲ってしまっては大変だから。ねえ、八坂。私をどうにかしたいなら、三日後の夕刻、五ノ刻に一色村の一本松までお出で。それまでは、私は誰も襲わないし殺しもしない。誓おうじゃないか。捕り方でもなんでも、好きなだけつれてお出で」

 優しげな、柔らかな声で言うだけ言ってしまうと、男はにこりと微笑んだ。

「もしその日に来なければ、それから一日に一人、どこかで誰かが死ぬことになる。男か女か、若者か老人か、人か鬼かは知らないけどね」

 くすくすと笑いながら、八宏はくるりと背を向けて走り出し、その姿はすぐに見えなくなった。

 八宏の姿をみてしばらく、男はひどく取り乱し、まともに口をきくのもままならぬほどだった。

 それをどうやら正気にかえすと、男はぽつぽつと話しだした。

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