三、志月、逆恨みに遭うこと

 百が柚羅川で瀕死の男を拾ってから四日後、男はどうやら息を吹きかえした。

 傷にさわらないよう、男は布団に横向きに寝かされている。

「う、うう……」

 意識とともに戻ってきた激痛に、男は弱々しくうめいた。

「あ、まだ動いちゃいけない」

 起きあがろうとした男を、枕頭につきそっていた百がそっと制する。

 ぐったりと臥所ふしどに横たわり、男が不安と驚きの入り混じった目で百を見かえす。

「ここ、は……?」

「西澤淵。さあ、もうしゃべっちゃいけない」

「に、し……」

 宗庵に指示されたとおり薬湯を飲ませると、男は目を閉じ、そのまま眠りこんだ。

 その日の午後、川井宗庵が往診に来て薬を飲ませたとき、男はうっすらと目を開いたものの、すぐに気を失った。

「どうでしょうか?」

「まだ油断はできぬな」

 難しい顔で、宗庵が眉をひそめる。

 それから数日後、宗庵の治療が功を奏し、男はなんとか危機を脱した。

 男を見た宗庵が、「このぶんなら……」と愁眉を開いたこともあり、百は男に、

「いったい何があったのです?」

 訊ねてみると、男は顔を歪め、途方にくれた様子で、

「何も、思い出せない……」

 と小さく首をふった。

 男は当夜のできごとばかりでなく、己の名も、過去も、その一切を忘れてしまった、というのである。

 宗庵いわく、

「これは、頭を打たれたためであろうよ」

 ということであった。

 何か思い出すことはないかと、こころみに、百は男を見つけたその夜のことを話して聞かせたが、男はすっかり困惑しきった表情で、呆然とかぶりをふるばかりだった。

「さて……どうしたものかな、これは」

 さすがの百も、これには頭を抱えたものの、同心たちや蘇芳とも相談し、宗庵にも意見をあおいで、とにかく今は、傷が癒えるまで療養を、ということになった。

 右京から報告を受けた平内も同意見らしく、男のことを頼む、と言伝てがあった。

 男はすっかり気を落とし、

「いったい、これからどうすれば……」

 と懊悩煩悶おうのうはんもんしていた。

 無理もない。目を覚ましてみれば大怪我をしているうえ、自分には一切の記憶がないのである。

「なに、傷が癒えれば記憶もおいおい戻ってこよう。今は養生することだ」

 右京が穏やかに声をかける。

 はい、とうなずいた男は顔をしかめ、低くうなって頭をおさえた。傷がまだ痛むらしい。

「さ、これを飲んで、もうお休みなさい」

 薬を飲み、男が布団に身を横たえる。

 男が眠ったことを確かめ、そろりと枕頭を離れた百が、詰めている右京と密偵・〔羽賀の定助〕に茶をいれる。

「とんだことになったな。記憶は戻るだろうか」

「宗庵先生は、傷が癒えればそのみこみはあると言っておられましたが……ま、当分は養生ですね」

 百もひと口茶をすする。

「北村様という方は、善い方だったのでございましょうね」

「ああ、真面目で誠実な男だった。腕も相当に立つはずだったのだが……まさか、刀に手をかけることもなく殺されるとはな」

 惜しいことをしたものだ、と右京がつぶやく。

「しかし、身体の外側には傷をつけずに、内側だけを壊すというのは、妖術の類ですかね?」

 二人の隣で定助が首をひねる。

「前のときにもそういった話はあったな。妖なら奉行所こちらよりも始末屋そちらの領分だろうが、そういった妖術はあるのか?」

「さて……知るかぎり当てはまるものはございませんね。もっとも私も古今東西の妖術をすべて知っているわけではありませんが。武術ならば鎧き――鎧を壊さずに、内側を攻撃する技はあるそうですが、固い鎧ならともかく、人の肌のようなものでは難しいでしょうし」

 夕方、荒神町の番屋に詰めていた胡堂と蘇芳が交代でやってきた。

「変わりはないか?」

「ええ、特に何も。探索のほうは……?」

「今のところは手がかりもないな」

 胡堂が難しい顔で首をふる。

「姉さん、少し休んだら? 何だか顔色もよくないもの」

「うん、少し寝かせてもらうよ」

 寝所の隅に布団を敷いて横になり、百はすぐに眠りこんだ。

 それを見て、蘇芳がほっと息を吐く。

「どうした?」

「姉は昔から身体が弱いのです。無理をしていないかと心配で。そのくせ意地っ張りなんですから、やせ我慢でもされたらどうしようかと……あ、姉には黙っていてくださいね。私がこんなことを言っていたと知ったら、きっと怒るでしょうから」

「怒るのか」

「怒らないまでも、嫌な顔はするでしょうね。……小さいときからそうなんです。ほんとうに強情なんですから。できることなら、これ以上まきこみたくないのですが」

「そうは言ってもな……もう巻きこまれているのと変わらぬだろう」

「それはそうなのですが……北村様ばかりでなく、姉までも失いたくないのです」

 しばらく黙っていた蘇芳は、ようやく口を開いてそうこぼした。

 む、と胡堂が眉根を寄せる。

「一度、話をしてみたらどうだ。悪く取るような性格ではないだろう」

「ええ、それはそうなのですけれど……」

 何せ強情なんですから、と、蘇芳は口を尖らせた。



 その日、将領の刈谷村で寺子屋を開く鬼、志月は荒谷町へ買い物に出たついでに食事をして帰ろうと、たまたま見つけた一膳飯屋へ入った。

 ちょうど夕飯どきで、店の中は混んでいた。

 女中に空いている席まで案内される志月を見た客の一人が、はっとしたように面を伏せた。目の端でそれをとらえ、志月もちらりと横目でその客を見る。

 若い男である。どこかの商家にでも勤めているような身なりをしている。

 どこかで見たような男だと記憶をたどる。しかし思い出す前に、男は代を置いてそそくさと店を出ていった。

 内心で首を傾げつつ席に座る。

 まもなく白飯と味噌汁、煮しめと香の物が乗った膳が運ばれてきた。

(それにしても……)

 あの男は誰だっただろうか。

 喉に魚の骨でもひっかかったような感覚を覚えながら飯を食いつつ、記憶をたどる。最近見かけた顔ではないし、刈谷村の人間でもない。

 味噌汁を飲み、あ、と志月は低い声を立てた。

 男は、志月が昨年まで寄宿していた皇領の生薬屋〔西屋〕の奉公人だ。志月が西屋を出る一年ほど前に雇われた男で、名を俊吉といった。

 志月が西屋に身を寄せていたとき、俊吉は彼にきつくあたった。

 本来なら、新参の奉公人にすぎない俊吉が、店の主人の親戚であり、もう何年も店にいる志月にそのような態度を取るのは咎められるべきだ。しかし当時の西屋では、他の奉公人どころか、女将の松江でさえそれを咎めなかった。むしろ松江が率先して志月に辛くあたっていた。

 飲みこんだ飯が、不意に腹の中で石にでも変じたように、胃の腑が重くなる。

 膳の残りをどうにか腹におさめ、代を置いて店を出る。

 妙に胸騒ぎがした。

 店の奉公人が、盆でも正月でもないのに、そう簡単に店を空けられるはずはない。

 店の用での外出かと一旦は思ったが、今いる荒谷町やその近隣には、西屋が取引をしている店はない。ではなぜ、と首をひねった志月だったが、いっこうに納得のいく答えは浮かばなかった。

 俊吉の姿はすでに周囲に見えず、荷物を提げて帰る道すがら、何か起きるのではないかと用心していた志月だったが、予想に反して彼は無事に家まで帰りついた。

 帰ってみると、土間には笊に入れた葉野菜が置いてある。どうやら村の誰かが置いていったものらしい。

 志月は寺子屋を開き、村の子供らに読み書き算盤そろばんを教えている。月々の授業料はごく安く、その礼にと、時々村人がこうして野菜などを持ってきてくれる。

 はじめは面食らった志月だが、今ではすっかり慣れた。

 しかし、と葉野菜を見て、志月は考えこんだ。

 少し前なら同居人もおり、これくらいの量でもすぐに食べきっていたのだが、今はまた独り暮らしに戻っている。笊いっぱいの葉野菜は、一人で食べるには量が多い。

(そうだ)

 傷ませて捨ててしまうのももったいないし、年が明けてから、顔を見ていないことでもあるし、明日にでも挨拶がてら、西澤淵の百のところへ少し持っていこう。

 そう思い、野菜をとりわけていると、家の戸が叩かれた。

「誰かな?」

 若旦那、と客は低い声で言った。

 俊吉の声だった。

「若旦那、すぐに来てもらえませんか。女将さんがどうしてもとおっしゃっているので」

「またずいぶんおかしなことを言うね。松江さんは僕の顔など、もう見たくないだろうに」

「いえ、ですからどうしても、とおっしゃっているので。時間はとらせませんから」

「……わかったよ」

 外に出る。

 久しぶりにまともに見た俊吉は、異様に目をぎらつかせていた。

 また雨になるのか、夜気は湿気を含んでいる。

 もう日が落ちて、あたりは暗い。月は雲に隠れ、明かりといえるのは俊吉の持つ提灯だけ。とはいえ鬼であり、夜目のきく志月には、そのことは問題にもならない。

「ねえ、若旦那……」

 俊吉の、やけに陰々とした声が、志月の足を止めさせた。

「どうかしたかい?」

 言葉をかえしながら、志月はそっと後ずさった。

 ぱっとふりかえった俊吉が、懐にでものんでいた短刀を志月めがけて突き出した。

 短刀が空を切る。

 よろめいた俊吉を、志月は冷ややかに射すくめた。

「今帰るなら、今日のことは黙っておくよ」

 俊吉が鋭い舌打ちを漏らす。

 す、と志月の眉が寄った。

「さあ、もう帰るといい。誰のさしがねかは察するけれど、それを言われたくはないだろう?」

 その語調こそ落ち着いていたが、端々から怒りが感じ取れた。

 日ごろは温厚で、余程のことがなければ怒気をあらわすことのない志月だが、一度その怒りに火がつけば、ただでは済まないことを俊吉はよく知っていた。

 それに、いくら志月が穏やかな性格だといっても、彼は鬼である。純粋な腕力で、人間は鬼にかなわない。

 再度舌打ちをして、俊吉の姿が暗夜に消える。

 提灯の火が見えなくなるまで、志月はその場に立っていた。

 雲におおわれた空から、ついに雨が降ってきた。

 さすがに今夜は戻ってくることもあるまいと、雨の中、志月は急ぎ足で家に戻った。


 大粒の雨の中、俊吉は息を弾ませて駆けていた。

 昨年、西屋で起きた騒動の結果、皇領での西屋の評判はたいそう悪くなった。

 女将の松江は、それが志月のせいだと言い、ひどく志月を恨んでいた。それを察していた志月も、西屋を出た後の落ち着き先を、将領ということ以外、松江には伝えていなかった。

 そのため、ちょうど将領の親戚の病気見舞いを口実に休みを願い出た俊吉に、松江は志月の居所を探すように頼んだ。

 もとは将領の西澤淵に住んでいる、志月の知り合いだという始末屋の女を訪ね、志月の居所を問いただすつもりであった俊吉だが、たまたま荒谷町で志月を見かけたため、帰宅する彼の後をつけて住居をつきとめたのであった。

 志月の居所を知り、俊吉は急いで短刀を求めた。本来なら、彼は松江に報せればよいのだが、彼はいっそ、志月を亡き者にしてしまおうと思ったのである。しかし結局、彼は見事に志月に気圧されたのだった。

 かっかしながら走っているうちに、俊吉は何者かに勢いよくつきあたった。

 よく見ればそれは、黒装束の、背の高い人影であった。

「なんだ、気を付けねえか!」

 むしゃくしゃ腹で怒鳴りつけると、影がゆるりとこちらへふりむいた。黒装束の、背の高い男だった。

「……そう、気を付けるとしよう」

 優しげな、女のような声だった。

「夜道を歩かないようにね」

 青白い、蛇のような面立ちの男が両手をあげ、ぽん、と俊吉の頭を挟んだ。

 目を見開いた俊吉の頭がたちまちふくれあがり、ぶっと血を吹いて、彼はそのまま、どうとぬかるみの中に倒れた。

「こうして、襲われるかもしれないからね」

 小さく含み笑いをして、黒装束は闇に消えた。

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