暗黒の男

一、百の墓参のこと

 数日降り続いていた雨が、朝になってようやく止んだ。

 外に出ると、ふわりと雨あがりの湿った匂いがたちのぼる。庭に植えられた紫陽花はしっとりと濡れていた。

(この様子なら、夜まで天気はもちそうだ)

 雲間から薄陽がさしてきたのを見て、百は胸のうちでつぶやいた。

「こんにちは」

「こんにちは、おみつさん」

 昼の準備にかかろうと家の中へ入りかけた百を、籠を手にやってきたおみつが呼び止めた。

 おみつはこの近くの八十やそ村で一人息子の三弥さんやと暮らしており、百を気にかけて何かと世話を焼いてくれる。

 三弥は百のなじみの船宿〔島屋〕で、今は船頭の見習いとして働いている。気さくで明るい、母親思いの若者で、はじめはぎこちなかった船頭としての腕も日に日に上達している、と島屋の船頭・玖善くぜんが話していた。

「白瓜がたくさんできたから、どうかと思って。確か瓜は好きだって言ってたろ?」

「助かるよ、ありがとう。ところでおみつさん、具合が悪いってこの前三さんが言ってたけど、もう大丈夫?」

「ああ、この間はちょっと疲れが出たみたいでね。あたしも歳かねえ」

「力仕事なんかは三さんに任せておけばいいんですよ」

 そうだねえ、とおみつは明るく笑った。

 その後、米飯と味噌汁で簡単に昼餉をすませ、百は愛用の刀匠・國鬼の手による四尺あまりの朱塗りの大太刀を背負い、秦国廣はたのくにひろの一尺八寸の脇差をいて家を出た。

 長く艶やかな緑の黒髪を、蜻蛉とんぼ玉の付いた赤い髪紐でまとめ、若草色の小袖に細めに仕立てた淡黄色の帯を前でしめ、そのうえ帯刀している百は、町の中ではかなり人目を引く。事実、異装の百とすれ違ってから、驚きふりかえって見る者も多い。

 そういった視線には慣れているので、百は気にもとめずに歩いていく。

 季節は春をすぎて初夏の長雨の時期に入り、ここ数日はずっと雨が降っていた。そんな中での久しぶりの晴れ間ということもあって、町中には人手が多かった。

 何件か顔を出さなければならないところがあったので、百はまずそちらへまわり、用がすんでから、彼女は下手町の呉服屋〔伊乃屋惣七〕方へおもむいた。

 主人の惣七と世間話をしながら、夏着に仕立てる反物を選ぶ。

 一から着物を仕立てるのは、買うよりも金がかかる。そのため百も普段は古着を買って仕立て直すことが多いのだが、今持っている夏着がだいぶくたびれているのと、懐具合に充分な余裕があったので、今年は着物を仕立てることにしたのだ。

 あれこれとしばらく悩んで、空色と白の反物で一着ずつ仕立ててもらうことにし、ついでに着物にあう帯も整えてもらうことにする。

 百はこれまでにも何度か、伊乃屋で着物を仕立てており、惣七も彼女の好みはよくわきまえている。

「明後日には仕立ててお届けいたします」

 惣七に見送られ、帰途につきかけた百だったが、ふと、

(そうだ、せっかくここまできたんだから、洞縁寺へお参りを……)

 そう思い立ち、彼女は荒神町の洞縁寺へ足を向けた。

 もしこのとき、百が洞縁寺への参詣を思いつかなければ、彼女はこれからの一件に関わることはなかっただろう。

 荒神町の洞縁寺には、百の父母の墓がある。

 寺門前の店で花と線香を買い求め、すれ違う顔見知りの僧と挨拶をかわしながら墓へ向かう。

 墓前には青いしきみと菊の花が供えられ、立てられた線香からは、まだ細い煙があがっている。

(蘇芳?)

 自分以外にこの墓に詣でるとすれば、妹くらいしか思いつかない。父方にせよ母方にせよ、親類縁者に心当たりはないのだ。

 墓前に香華を手向け、手を合わせて日ごろの無沙汰を詫びる。

 帰りぎわ、百はある墓に詣でている娘を見かけた。来るときには気付かなかったが、娘は妹の蘇芳であった。

 妹の墓参に不思議はないが、

(誰か、知り合いの墓か?)

 横を通るときにちらりと見ると、墓石には北村なにがしという名が見えた。

 寺を出たところで、後ろから、姉さん、と声がかかる。

「蘇芳、あんたも来てたの?」

 素知らぬ顔でふりかえる。

「うん、ちょっと暇ができたから。姉さん、最近は落ち着いた? 年が明けてからこっち、ずっと忙しそうだったけれど」

「やっと身体が空いたよ。何かと仕事が続いたんで、今年は花を見ている暇もなかった」

 それから蘇芳に誘われて、百は寺の近くの〔きく井〕という汁粉屋へ入った。

 きく井は小料理屋のような店構えの、ちょっとしゃれた店である。

 もっとも、汁粉屋などはたいてい、こじゃれた店構えをしているものだ。

 汁粉屋にはただ汁粉めあてに来る客ばかりでなく、逢い引きの男女や密談のために座敷を使う客が来るためである。

 姉妹は二階の小座敷へあがり、汁粉と酒を頼んだ。階下のいれこみで汁粉を食う客には酒は出ないが、座敷にあがった客は金を払えば酒を出してもらえる。

 まもなく、女中が汁粉と酒を運んできた。

 こんがりと焦げ目のついた、紅白の小さな切り餅が入った〔紅白しるこ〕はこの店の名物で、蘇芳の好物でもあるという。

「ここにはよく来るの?」

「うん、お参りの帰りにね」

 汁粉を食べ、酒を飲みながら、二人は話に花を咲かせる。

 結局、一刻半(約三時間)あまりをきく井ですごし、店を出たときには、あたりにはもう薄闇がおりかかっていた。

「もう遅いし、家まで送っていくよ」

「大丈夫。慣れた道だし、まだそんなに暗くないもの」

「慣れていても、夜道を女一人で歩くのは物騒だよ」

「でも、帰りは姉さんが一人になるじゃない」

「なに、いざとなったらこれがあるよ」

 百は笑って、腰の刀を軽く叩いてみせた。

 それから多少の押し問答はあったものの、結局百は蘇芳を上六町の裏長屋まで送りとどけた。

 その帰りは折よく行きあった辻駕籠を拾い、下手町まで戻ってきた百は、なじみの船宿〔島屋〕の前で駕籠をおりた。

 ここから家のある西澤淵まではおか徒歩かちで行くよりも、舟で柚羅川を下ったほうがはやいのである。

 島屋にはちょうど玖善がおり、すぐに舟を出してくれた。

 百と玖善、それに仕事を覚えるためにと三弥が乗り、舟が川面へ滑り出ていく。

「悪いね、もう遅いのに」

「なに、かまやしねえ。それにまだそんなに遅かねえや。なあ、三」

 そうですよ、と三弥がうなずく。

 昼は大小の舟が行きかっていた柚羅川も、夜になると舟の行き来はぱったり途絶える。

「また降ってきそうだな」

 玖善の言葉に空を見上げると、いつのまにか、黒雲が夜空にたれこめている。

「季節がら仕方はないが、こう雨が続くと鬱陶しくて嫌になる」

「まったくだ。船宿も客が減るしな。雨が必要だってのはわかるが、早いところ長雨は終わってほしいもんだ」

 西澤淵の近くまで来たとき、川下で何かが水に落ちた音が聞こえ、三人は顔を見合わせた。

 玖善が音のしたほうに目をやり、ぎょっとして声をあげる。

「おい、百ちゃん。ありゃ、人じゃねえか?」

「うん?」

 玖善が指さすほうへ目をこらす。三弥も提灯を掲げて水面を照らした。

 確かに、何か黒いものが浮いている。

「人……らしいな。身投げか? とにかく人なら引き上げてやろう。まだ間に合うかもしれない」

 すぐに玖善が舟を漕ぎ寄せ、彼と三弥が二人で舟上に引き上げたのは、まだ若い人間の男だった。

「こいつぁ……ひでえことをしやあがる」

 百が眉をつりあげ、三弥が息を呑み、玖善も思わず顔をしかめてそう漏らした。

 男はあちこちに傷を受けているうえ、右腕の肘から先はぶっつりと切り落とされていた。

 百は懐から小刀を出し、自分の着物の袖を裂いて、慣れた手付きで血止めにかかった。

 何よりも先に右腕の止血にかかった百だったが、その断面を見て彼女は思わず喉の奥で押し殺した声を立てた。

 男の肘のあたりは、肉も骨も区別なく、ぐずぐずに破壊されていた。

(これは……?)

 一体何があればこうなるのかと思いながら、畳んだ布を腕にあてがい、髪紐を解いてきつく縛る。続いて頭や首、脇腹の傷に止血をほどこし、百はほっと息を吐いた。

 ぐったりと船底に横たわる男の青白い顔には、散切りの黒い髪が濡れてはりついている。広い額には、古い火傷の痕が見えた。

 玖善が水を吐かせたものの、男は目を開けなかった。

「こりゃ……もういけねえんじゃねえか?」

 舟を岸につけながら、玖善がささやく。

 百は答えず、瀕死の男を我が家へ担ぎこみ、半ば放心している三弥を追い立てて医者を呼びに行かせた。

 男は黒い筒袖の着物に黒の裁付たっつけ袴を身につけ、懐中には紙入れがあった。

 紙入れを開いてみると、金貨が二枚、銀貨が五、六枚入っている。町人が持ち歩くにしては、ずいぶんな大金である。

 金が入った紙入れが、盗られずに残っているということは、

(物盗りの類ではないな。辻斬りにでも遭ったのか?)

 不届きな侍が手に入れた刀の試し斬りと称して、往来で行きあった者を手にかける辻斬りは、珂国でもしばしば問題になっている。

 実際、百も辻斬りに遭いかけたことがある。無論、辻斬りごときに遅れをとるような百ではないが、そのせいで、そのときに受けていた仕事が危うく台無しになるところだった。

 辻斬りは当然重罪であるが、相手が死んでいる以上その下手人がわからず、たとえ下手人がわかっても、相手の身分が高く、奉行所でも容易に手を出せないのが現状であった。

 しかし、辻斬りだというならこの、内側から破壊されたような傷はなんだ。

(さて、助かるかな……)

 男は気を失ったままである。

 年のころはおそらく二十四、五であろうか。出血していることもあって顔色は悪く、鼻すじが低い顔はけわしいが、それほど悪相というわけではない。

 そこへ、息を切らした三弥が荒神町の外科医、川井宗庵をつれて戻ってきた。

 宗庵は意識のない男を見て難しい顔をしたが、すぐにてきぱきと傷の縫合にとりかかった。

「助かりましょうか」

「ふむ……難しいが、みこみはないでもないな」

 宗庵を手伝いながら、百は三弥に怪しい者を見なかったかと訊ねてみたが、特に見なかったという答えがかえってきた。

 男の手当が一段落すると、百は玖善にこのことを奉行所に届けるように頼んだ。二つ返事で引き受け、玖善が走り出ていく。

 男は時折、弱々しい声で唸っていた。

 やがて、奉行・長谷部平内が尾上右京、胡堂の二同心をつれて西澤淵まではせつけた。

 男を見た平内が小さく唸り、右京の顔が固くこわばる。

「八宏……?」

 右京のざらついた呟きを聞き、胡堂が隣で訝しげに眉をひそめる。

 平内に問われるがまま、百は男を見つけた経緯いきさつを詳しく語った。

「ご存知の方なのですか?」

「ああ、手配者として人相書が回っている男――によく似ている」

 百に答えた胡堂を、平内がちらりと見やった。

「ふむ……。この男、他所へ移しても?」

「いや、なりません。今動かしては助かるものも助かりません」

 きっぱりと宗庵が首を横にふる。

「左様か。この男の手当を続けていただけようか?」

「無論のことでございます」

「かたじけない。ところで胡堂。この男は八宏ではない、と?」

 平内の問いに、胡堂ははじめ、答えることをためらった。右京もいつになく、厳しい眼差しを胡堂に向けていた。

「は、その……」

「構わぬ。話してみよ」

「は。顔は……確かに人相書にあるものと瓜二つですが……凶状持ちに見られる怨の混じった気が一切ないのが気になりまして……それに確か、八宏は顔に傷はなかったはずです」

「おお、そうであったな」

 ふむ、と平内が黙考し、蘇芳を呼んでくるよう胡堂に命じた。

 その間に、平内と右京が家の周囲を見て回る。

 やがて降り出した雨の中、胡堂が蘇芳をつれてやってきた。

「遅くにすまぬな」

「いえ、話は胡堂様にうかがいました」

 いっけん落ちついているように見えるが、蘇芳の顔は青ざめていた。

 玖善と三弥を口止めをして島屋へ帰し、蘇芳を招じ入れる。

 しばらくじっと男を見つめていた蘇芳が、面に困惑の色をのぼらせた。

「どうだ?」

「違います。よく似てはおりますが……八宏ではございません」

「確かだな」

「はい」

「この男を見つけたとき、何か妙なことはなかったか?」

「妙なことですか? ああ、そういえば――」

 百が男の異常な腕の傷について語ったとたん、彼女と宗庵以外の全員が顔色を変えた。特に蘇芳の顔は青を通り越して真っ白になり、右京はわずかに腰を浮かせ、今にも走り出ていきたそうなそぶりを見せた。

「奴が、戻ってきたか」

 平内の言葉が重く落ちる。

 その後、同心たちと蘇芳にはここに詰めておくように指示を与え、百と宗庵に男のことを頼んで、平内は奉行所に戻っていった。

「その、八宏というのは?」

 事情がのみこめない百が訊ねると、同心二人は顔を見合わせた。

「どうだ、右京。俺としては聞いてもらったほうが良いと思うが」

「ああ、異論はない」

 右京の同意を受けて、胡堂が口を開いた。

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