三、二つの紋様のこと
翌日、要や巽と共に、改めて訪れた竜胆家は、どんよりと暗くしずんで見えた。革眼帯を外した左目に、屋敷をくるむ瘴気がうつる。
さすがの百も、この有様をまのあたりにして顔をひきつらせた。
一昨日、門の前から垣間見たときよりも、瘴気が明らかに濃くなっている。
「大丈夫か?」
青ざめている百を見て要がささやく。身仕舞いをきちんとしてはいるが、彼女の顔色の悪さは傍目にも容易に知れた。
「大丈夫です。参りましょう」
強いて凛とした声を出す。怖気をふるっている場合ではない。
門番に話をすると、すぐに三人は中に通された。
「お待ちしておりました」
隼斗がほっとした顔で頭を下げる。
彼の案内で廊下を進む。屋敷のうちにも瘴気がただよい、すれ違う使用人も、心なしか表情が暗い。
途中、きいきいと鳴く声を聞きとがめ、百はその方に目を向けた。
庭の片隅、瘴気が溜まっている場所に、掌に乗るほどの人面鬼身の妖が二匹。
「失礼」
庭に降りて妖に近付く。
懐剣で軽く撫でるように切ると、妖は甲高い鳴き声とともに霧散した。
見回すと、瘴気に惹かれたのか、あちこちに同じ妖がいる。
これは
しかしこれらが集まっていると、それを餌にする別の妖がやってくる。今のところ、集まっているのは
「何かありましたか?」
「妖がいましたね。ごく弱いモノでしたが」
こともなげに答えて廊下へあがる。妖と聞いて、隼斗はぞっと身を震わせた。
廊下を歩くにつれて瘴気が濃くなり、ちりちりと肌を刺す。加えて絡みつくような悪意が混じっているのを、百は感じ取っていた。
「嫌な感じだな」
「ああ」
巽と要も、他へ聞こえぬよう、ごく低い声でささやきあっている。
後を振り返り、大丈夫ですか、と目で問うた百へ、二人とも大丈夫だと目顔で伝えてきた。
昨日、百は前々から世話になっている寺で魔除けの札を買い、これを二人に渡していた。自分も同じものを懐に入れていることは言うまでもない。
(しかし、長居はできそうにないな)
「姉上、始末屋殿が来られました」
隼斗が声をかけると、お入りください、といくぶん震えを帯びた声が応える。
「失礼いたします」
さらりとふすまを開き、部屋をひと目見た百の顔が凍る。
右目にうつるのは、日当たりの良い六畳間。しかし左目には、墨でもぶちまけたように黒く染まった部屋が視えている。
部屋にいる千代にも瘴気は絡んでいるが、その隣で人形で遊んでいるお幸には、瘴気は全く視られなかった。よく見れば、人形にも瘴気は視えない。
(はて……?)
屋敷で起きた変事の原因が人形なら、人形がそれこそ黒い影に見えるほど瘴気に染まっていてもおかしくはない。だが、瘴気に染まっているのは人形ではなかった。
部屋を見回し、片隅に置かれた箱に目を留める。
「あの箱は、人形が入っていたものですか?」
「そうです」
「ふむ……。まず、お部屋を移りましょう。この部屋は、少し穢れがきつすぎますから」
有無を言わせぬ百に、千代は不安げに顔を曇らせて腰をあげた。
いくらか瘴気の薄い別の部屋で改めて挨拶をし、百はお幸の抱く人形に目を向けた。
「かわいらしいお人形ですね。見せていただけますか、お嬢様?」
千代になだめられ、おずおずとお幸は人形をさしだした。
見たところ、よくある人形である。
百の指先が人形に触れたとたん、何百もの針に刺し貫かれたような鋭痛が、指先から肩まで通り抜けた。
息をつめ、声を噛み殺す。
息を深く吸い、
(これ以上は危険、か)
手をおろしても、まだ痛みは残っている。
周囲の音がどっと戻ってきて、百はこれまで何も聞こえていなかったのだと気が付いた。
額にうっすらと浮いた汗を拭う。
「百殿、その人形に、何か……?」
「……まだ何とも言えませんね。ひとつお伺いしたいのですが、お屋敷で変事が起こってから、お嬢様に何か害があったことはございますか?」
「そういえば、何も……」
「なるほど。奥様、お手数なのですが、人形の着物を脱がせていただけますか? どうやら私では触れられぬようで」
きょとんとしたものの、千代はお幸をなだめすかして人形を取り、その着物を脱がせた。
木でできた身体の、背の部分に、黒ずんだ線で紋様が描かれていた。
「これは……!?
「魔除けの紋様ですね」
え、と千代と隼斗が百の顔を見る。
「魔除け、ですか?」
「魔除けです」
「しかし、ではなぜ百殿が触れられぬのです。人形が良くないモノだからではないのですか」
隼斗が横から口を入れる。百は小さく苦笑いを浮かべ、自分の角を指してみせた。
「このとおり、鬼の血を引いておりますので、魔除けの種類によっては弾かれるのですよ。たまにあることです。それはともかく、先ほどのお部屋にあった箱には塩をつめて、日に一度取り替えてください。それから、お屋敷の玄関にこちらの札を貼ってください」
「それだけ、でございますか?」
「今は、少々お屋敷の穢れが強すぎますので、ある程度清めないことには手が出せないのですよ。それから、あの箱のある部屋には、塩の取り替え以外では、できるだけお入りにならないでください。脅かすわけではありませんが、あの部屋が一番穢れが濃い部屋ですので」
「分かりました」
「二日ののちに、またうかがいます。もし、それまでに何か変事がおこりましたら、私は磯崎様のお屋敷に逗留しておりますので、お手数ですが、お知らせを願います」
百が磯崎家に逗留することについては、すでに平馬の許可を得ている。
昨日、磯崎家を訪れ、
「おりいって、お願いしたいことがあるのですが……」
かしこまる百を見て平馬は大笑し、二つ返事で逗留を承知した。これにはさすがに渋られるかと思っていた百も拍子抜けしたものである。
「百殿、本当に人形は悪いモノではないのですか? よく聞く話のように、人形に霊が憑いてこのようなことを引き起こしているのでは? それに、腕についた手形はどう理屈をつけられる?」
上ずった声で隼斗が言いかける。
「魔除けがされている以上、霊は憑けませぬよ。手の跡は、庭にいた妖の仕業でございましょう」
「それが確かだという証があるのですか? 話を聞いていれば、まるで箱に原因があるような口ぶりですが、ただの木箱がどうして変事を招くのです」
「それを調べたいので、一旦塩で清めてくださいとお頼みしたのです。それとも、何か人形で気になることがおありですか?」
隼斗が口の中でもごもごと言って黙りこむ。
箱に塩をつめ、屋敷の玄関に札を張って、三人は磯崎家に戻った。
磯崎家では、昼餉の準備がされていた。ありがたく馳走になり、三人で額を集めて話しあう。
「箱が原因とはな」と要。
「まだはっきりと決まったわけではありませんが。なにせあの瘴気では、調べる前にあてられそうでしたので。それはそれとして、竜胆様は何か人形に悪い思い出でもあるのですか? ずいぶん人形のせいにしたがっているように思えましたが」
「聞いたことはないな。あいつは昔から、怖いもの見たさで怪談を聞くくせに肝が小さいから、人形の怪談でも読んで、人形には霊が憑くものだとでも思いこんでいるんじゃないか。なんならどういうつもりなのか、ちょっと聞いてきてやろうか。お前は休んでいろ」
ぐいと茶を飲んで、巽が立ち上がる。
「……そんなに疲れて見えますか?」
「ああ、だいぶ顔色が悪いぞ。夕飯まで横になっていろ。隼斗殿のことは、巽に任せておけばいい」
「そうさせていただきます」
それから、少しうとうととまどろんだつもりの百だったが、起きたときにはもう夕方だった。指先はまだしびれているが、それを除けば体調はいい。
様子を見に来た要に聞くと、今のところは特に竜胆家からの報せはないという。
「今日行ったばかりなのだし、そちらは心配しなくてもいいだろう。ただ、な」
「はい?」
「隼斗殿が、ずいぶん人形にこだわっているらしい。何を言っても人形に何かが憑いていないとは言えないと言い張っていると、さっき巽がぼやいていった」
「少しお屋敷の空気にあてられておいでなのかもしれませんね。人形が無関係、というわけではないと思うのですが、変事の原因はおそらくあの箱でしょうね。今度うかがったときに原因がはっきりするといいのですが」
「そうだな。だが無理はするなよ」
「ええ、わかっています」
厳しい目をした要に、百は素直にうなずいた。
それから何事もなく二日がすぎ、百は要、巽とともに、再び竜胆家を訪れた。
まだ瘴気は残っているが、以前と比べるとだいぶ薄くなっている。
「この二日、何か変事はございましたか?」
「いえ、何も起きていません」
「それはようございました。そういえば、御当主様の御容態はいかがでございますか?」
「ありがとうございます。だいぶ良くなっていると聞いております」
「それはなによりでございます。それでは、先日のお部屋を見聞させていただきます」
案内された部屋の瘴気も、二日前と比べると薄まっている。一隅に置かれたままの箱も、ところどころ木地が見える程度には瘴気が薄れていた。
桶を借り、箱に詰められた塩を一旦取り出して、箱の中を確かめる。
一見、特に変わったところはない。
しかし瘴気はこの箱が一番濃い。首を傾げ、箱をひっくり返すと、中から滑り落ちたものがあった。薄い木の板である。
それを取りあげ、裏に描かれた紋様を見て、百はふむ、と考えこんだ。
魔を寄せる紋様。あまり使われることはないが、魔や邪気を引き寄せ、溜めるための紋様である。
箱にはこれ以外に何もなく、板を戻して塩をつめなおし、百が部屋を出ようとしたとき、背後に何かの気配がした。
反射的に振り返る。
そこには、十五、六の娘が立っていた。その身体を透かして向こうが見えるのを見てとって、百が顔をけわしくする。
白い切り髪、青白い顔。じっと百を見つめる目は、左が赤く、右が白黒逆の逆目になっている。
「どなたですか」
声をかける。敵意はみられない。
背後、ふすまの向こうで要と巽が動く気配がした。
「大丈夫です」
娘から目を離さないまま、後ろに声を投げる。
再び娘に声をかけると、娘はおずおずと口を開き、
「橘、
名を聞いて、百は片眉をきりりとあげたものの、すぐに座って居住まいを正した。
「百と申します。十和様とおっしゃいますと、半之丞様の姉上様でいらっしゃいますか?」
「そうです。その、私の力不足でこのような事態を招いてしまい、真に申しわけございません」
「頭をあげてください。力不足、とはどういうわけでございます?」
口の重い十和から、百がひと通りの事情を聞き終えるには、およそ一刻半(約三時間)はかかっただろうか。
「お待たせしました」
「大丈夫か?」
「ええ」
言いつつ浮かぬ顔の百に、要が眉をひそめた。
「いかがでございました?」
「やはり、おおもとの原因は箱でしたね。あと二、三日塩で穢れを薄めてから、お寺で供養していただくのが――」
庭先から言い争う声と泣き声。
何事かと飛び出すと、隼斗がお幸から強引に人形を取りあげていた。
「こんなものがあるからいけないのだ」
隼斗が人形をふりあげる。
止めようと百が庭へおりるのと同時に、隼斗の眼前に十和が現れた。
首を横に振る十和をまじまじと見、その身体が透けていることに気付いた隼斗が、壊れた笛のような悲鳴を上げて卒倒した。倒れる隼斗を巽と要が支え、百が人形を取りあげてお幸に渡す。
一室に隼斗を寝かせたあと、一体どうしたのかとお幸に聞いてみる。千代がどうにかお幸から聞き取ったところによると、不意に隼斗が人形を渡せと言い出したらしい。
隼斗には、確かに悪意があった。
人の感情は、あまりに多く集まると、ものの性質を変化させることがある。瘴気は薄れていたが、それに混ざる悪意は、瘴気ほど薄れてはいなかった。
おそらく隼斗は、その悪意にあてられたのだろう。
(しかし、なぜ人形に固執する? やはりいわくを知るほかないか)
「箱はあと二、三日塩で穢れを清めてから、お寺で供養していただくのがよろしいかと思います」
「人形はどういたしましょう?」
「そうですね。もしご心配なら、供養とはいかずともお経をあげていただくのがよろしいでしょう。魔除けが施されていますから、このまま持っていても害はないと思いますが」
念のために残る、と言い出した巽を後に残し、百と要は屋敷を出た。
「これからどうする?」
「まずは明鐘寺に行ってみるつもりです。橘様のお屋敷から人形が持ちこまれたことがあるかどうか、確かめたいので。ただ場所を知りませんので、駕籠でも雇いませんと……」
「いや、明鐘寺なら知っている。母の菩提寺だから住職とも顔馴染だし、なんなら同道するぞ」
「そうですね、お願いします」
要の案内で明鐘寺に向かう。彼の口添えもあり、住職の英達にはすんなり会うことができた。
英達は今年七十になる老僧だが、かくしゃくとしており、肌の色艶もいい。
自分の身分をあかし、橘家から人形が持ちこまれたことはないかと訊ねると、英達はきっぱりと否定した。
「人形にせよ何にせよ、橘様から供養のために物がもちこまれたことは一度もござらぬ」
「左様でございますか、承知しました。ありがとうございます」
明鐘寺を出たとたん、要が渋い顔になる。
「やはり、嘘だったか」
「そうですね。まあお武家のことですから、何かと事情はあるのでしょうが。しかしいよいよ半之丞様に話を聞かねばなりませんね。たぶん、戻るのは明日の朝になるかと思いますので、奥様にそうお伝えいただけますか?」
「一人で行くつもりか?」
「ええ、お
「そうか。もし何か起こったら、かまわないから磯崎の名を出せ。それで傷がつくような家ではないし、お前なら滅多なことはしないだろう」
「ありがとうございます」
要と別れて駕籠を雇い、将領の奉行所へ向かう。
顔見知りの門番に半之丞はいるかと訊ねると、彼は今日は非番だという。
同心の長屋を訪ねると、折よく半之丞は長屋にいた。
半之丞を茅町の料理屋〔八総〕へ誘い、二階の座敷へあがる。
女中に、呼ぶまで来なくていいと言いつけ、百はそれまでにこやかだった顔をにわかに厳しくさせて、半之丞へ向き直った。
「橘様、本当のことを話していただけますか」
「本当のこと、というと?」
「先日お話いただいた人形のいわく、あれは全てが真実というわけではないでしょう。今からでも、全てお話しいただけますか」
半之丞の顔面に血がのぼる。
「……それとこの件と、何の関わりがある」
「先日も申し上げましたが、始末のやり方に関わるゆえ、本当のことを話してください」
ぎろりと半之丞が百を睨む。殺気さえ感じられるその視線を、百は正面から受け止め、鋭い視線を投げ返した。
「口は災いの元、と知らぬか。武家の内情に、口を入れぬほうが身のためだぞ」
「口を入れるつもりなどありませんよ。下手に話せば橘様のお
「……分かった。確かに、拙者は嘘を吐いていた。姉は病で死んだのではない、庭にあった池に身を投げたのだ。人形も、寺に預けてはおらぬ。家人の誰も人形に触れられなかったので、奉公人に命じて箱におさめ、蔵に置いておいたのだ。その理由までは知らぬ。父の胸ひとつにあったことだ」
「姉上様が亡くなった理由は……忌み子だったから、ですか? 何でもお屋敷には、白子で産まれた子供は忌み子とする風習がある、とうかがいましたが」
「どこで……どこで、それを?」
「十和様から、ある程度の話は伺いました。それが事実かどうか確かめたかったので、こうしてご足労願ったのです。それと、変事はまだ完全におさまったわけではございませんが、原因は察しがつきましたので、一旦ご連絡をと思いまして」
「原因は?」
「一言で言えは人の感情……今回の場合は悪意、でしょうか」
簡潔に、人形と箱にそれぞれ魔除け、魔寄せの細工がされていたことを説明する。
「人形をはじめ、人の姿をしたものというのは、霊が憑きやすい、宿りやすいというのは、昔から言うことなのですが、魔寄せの類がありますと、穢れ……霊だとか、瘴気だとか、そうしたものはそちらに溜まるのですね。同じように、人の感情というものも、条件が揃えば溜まるのです。多くは、人が大勢集まる場所、そして、その対象が決まっている場合ですね。これは推測なのですが、十和様について、お屋敷の内外で、何かと噂が囁かれていたのではございませんか?」
「言われてみれば、根も葉もないものだが、姉について、何かと言われていたのは耳に挟んだことがある。もっとも、はっきりと聞いたことはないが」
「まあ、そうしたものは大っぴらに言われることではありませんからね。そして噂というものは、えてして背びれ尾ひれがつくものです。例えば、手足が一本余計にあるとか、身体にもうひとつ顔がある化け物だ、とか。無論、事実無根の話です。しかしそれでも、ほんのわずか、明らかな悪意ではなくとも、無意識に悪意を含んで囁かれる噂は、この場合、十和様という対象を得、お屋敷の内外で人々の口の端にのぼることで、不特定多数の人々に語られることになった。十和様も、これに気付いておられたそうです。ですから、人形に魔除けを刻み、悪意の受け皿として箱に魔寄せの紋を描いた、と言っておいででした。橘様のお屋敷で変事が起こらなかったのは、十和様が亡くなって、噂が下火になっていたことと、人形に描かれた魔除けの効果で、よくないモノが溜まりにくくなっていたのでしょう。それが、箱が開けられ、人形が出されたことで、元々溜まっていた悪意に加え、さらに人形に向けられた感情も箱に溜まって瘴気を生みだし、変事が起きたのだと思われます」
「では、おさめるにはどうすればよいのだ?」
「御新造様にも申し上げたのですが、もう二、三日塩で瘴気を薄めたあと、箱は供養していただければ、もうこれ以上の変事は起こらないでしょう。それと、竜胆の御当主様には、原因は伏せて、古いものにはままあることだとお話するつもりですが、問題ありませんか?」
「それで、納得されるだろうか」
「そこはそれ、何とでもなります。橘様のお
「姉が……?」
「ええ。ただ一つ、お願いしたいのですが」
「何だ」
「十和様のために、法要をおこなってくださいませんか。ずっと、成仏できずにとどまっておられたようですから」
「分かった、兄と相談にはなるが……。義父への話は、いいように頼む」
承知しました、とうなずき、百は手を打って女中を呼んだ。
それから三日ののち、箱は中の魔寄せの木札とともに、竜胆家の菩提寺で供養された。屋敷の瘴気もかなり薄まっており、
隼斗も人形についてとやかく言わなくなり、箱を寺へ届けるために屋敷を訪れた百に、自分でも、なぜあれほど人形が憎かったのかわからないと首をかしげて話した。
「まあ、ああいう場合、たいていは人形が原因ですからね」
百も苦笑しながら答えたものである。
別邸で養生していた隼之介も、その後まもなく本復し、屋敷に戻ってきた。百から話を聞いて、少し苦い顔をしていたものの、誰を責めるものでもない、と納得したらしい。
その翌月、百は自宅の縁側で月を見ていた。
「あの……」
声の方に顔を向け、百はそこに十和が立っているのを認めた。
「どうなさいました」
「お礼に、うかがいました。先日は、大変ご迷惑をおかけしました。本当に、ありがとうございました」
「ご迷惑などと。あれが私の生業でございますよ。お役に立てたなら幸いです」
ほっと十和が笑う。可愛らしい笑みだった。
「良い、月ですね。家にいたころは、こうして月を見ることもありませんでした」
「……どうぞ、お好きなだけ見ていってください」
隣を示すと、十和は遠慮がちに腰を下ろした。黙ってじっと月を見上げている。
「親を恨んだことはありませんでしたけれど、ずっと、外を歩きたかったんです。好きなところに行って、見たいものを見て……。もう、心残りはありません。明日には離れなければいけませんから、どうしても今日のうちに、うかがっておきたかったのです。ありがとう、ございました」
すっと立ち上がり、深々と頭を下げて、白い影が遠ざかっていく。
その翌日――十和の月命日――に、橘家で明鐘寺の英達を頼んで、十和の追善供養が行われたことを、後に百は知った。
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