二、竜胆家の変事のこと

「お引き受けいただけますか?」

 若侍が、すがるように百を見る。

「さて、私でお力になれますかどうか……。ま、とにかくお入りください。お話だけでもうかがいましょう」

 三人を招じ入れて茶をいれ、茶請けにと羊羹を出す。

 要や巽は平気な顔で茶を飲んでいたが、若侍はすっかりかたくなってかしこまっており、茶も喉を通らぬ様子である。

 それでもどうやら、自分は皇宮で祐筆をつとめる竜胆隼之介りんどうしゅんのすけの長男で、隼斗と申します、と名乗りはしたが、その先が続かない。

 黙ってしまった隼斗を見かねてか、巽がひと膝ゆすりでた。

「まったく、自分で頼んでここまで来ておいて、まだこいつは話しにくいと言うんだから、俺がかわって話してもいいだろうか」

「どうぞ。うかがいます」

 間違いがあったら正してくれ、と隼斗に言い置いて、巽が話をはじめた。

 隼斗の父である竜胆家の現当主、隼之介は祐筆という文官でありながら、多嶋流の槍術をおさめ、免許皆伝の腕前である。

 それゆえ頑健で、これまで風邪ひとつひいたことがないという隼之介が突如、大熱を発して倒れたのを皮切りに、女中や奉公人が次々と発熱で倒れたり、手足に何かにつかまれたような痣が浮かびでたり、ということが続いた。

 そればかりでなく、女中が縁先から庭に転げ落ちてひどい怪我をする、長年料理人をつとめていた男があやまって包丁で指を切る、下男が風もないのに屋根から滑り落ちてきた瓦に肩を打たれる、と、怪我人が次々と出るようになった。そのせいで一人またひとり奉公人が暇をとり、最近では日々の雑事にも事欠く始末。

 奉公人ばかりでなく、母や姉もやはり体調が思わしくないという。

「その……これを見てください」

 ためらいがちに言い出た隼斗が袖をまくる。そこに見えたものに、百が柳眉を寄せ、要と巽が思わず息を呑んだ。

 腕にくっきりと、二つの小さな、紅葉のような手の跡が浮いていた。

「お屋敷に、お子様はいらっしゃいますか?」

「今、姪がおりますが、しかしこの跡は、姪の手にしては小さすぎるので……。いえ、何の手かは察しております。あの人形の手に相違ありません」

 隼斗の口はほぐれてきたが、その声は上ずって震えていた。

「人形、でございますか?」

「はい。人形というものは霊が憑きやすいと聞いております。あの人形にも何かが宿っていて、それで動き出して凶事を振りまいているに違いありません」

 口角泡を飛ばさんばかりの隼斗に、百が辟易しているところへ、少し落ち着け、と巽が口を入れた。

「そうまくしたてたんじゃ、ものの順序ってものが分からないだろう」

 茶を飲んで、少し気を静めた隼斗があらためて話しだした。

 隼斗の姉、千代は先年、皇領の奉行所で捕り方をつとめる同心・橘半之丞に嫁ぎ、おこうという、今年四つの娘がある。

 千代がお幸をつれ、実家の竜胆家に戻ってきたのは、隼之介が病に倒れる三日前のことであった。

 これは別段、千代が離縁されたとか、夫婦仲が悪くなったとかではない。

 ひとつには、夫の半之丞が将領の奉行所へ出向しているためである。これは奉行所の慣例で、半年ごとに二月の期限で、皇領から将領へ、または将領から皇領へ、同心を一人か二人、出向させるのである。

 いまひとつには、住んでいる同心の組屋敷が老朽のため、建てかえをすることになったためである。

 話を聞いて、隼之介が、それなら半之丞が戻るまで、実家ですごせばよかろうとすすめたのであった。

 そして、実家に帰ってきたときにお幸が持ってきたのが件の人形であった。なんでも実家に帰る前、半之丞の実家である橘家に挨拶に行ったときに、姑のおけいにもらったものだという。

 白い下ぶくれの顔に黒い目、おかっぱ頭にあかい着物の、よくある人形ではあるが、

「その人形が動くのです。いえ、動くとしか思われないのです」

 寝ていれば、枕元で何やらことことと音がする。鼠でも出たものかと起きてみれば、音がしたあたりに白い人影が立っている。奉公人が怪我をしたときには、それを見守っていたかのように白い影が近くに立っていたらしい。

 それに手の跡は、ちょうど人形の手の大きさなのである。

 一刻も早く始末屋に相談したいと隼斗が言うので、道を知っている要を案内人に、三人は西澤淵まで来たのだった。

「なるほど、家へ来られた事情はよくわかりました」

 百は言葉を切り、ぬるくなった茶をすすった。

 瘴気に満ちたあの屋敷に関わるというのは、気のすすまぬことではあるが、事情はかなり切羽詰まっているらしい。

「お引き受けくださいますでしょうか。無論、お礼は必ずいたします。その、そう多くはだせませんが……」

 とん、と、百が音を立てて湯呑を置いた。

「いいでしょう。お引き受けいたしましょう。お金のことは、今は気になさらずとも結構です」

 隼斗が顔を明るくし、腕を組んで考えごとをしていた要が、咎めるような視線をよこす。

「で、いくつか心得のためにうかがっておきたいのですが、まず、お屋敷の方々には、ひとから恨みを買うような心当たりはございますか?」

 まったくない、と、隼斗は言下に答えた。横から巽も口を挟んで、自分も竜胆の屋敷に悪い話はかつて聞いたことがないと言った。

「それではいまひとつ。はなはだぶしつけなことをうかがいますが、どうか気を悪くなさらないでくださいね。最近お屋敷で、どなたかお亡くなりになったことはございますか?」

 それもない、と隼斗が首をふる。

「それでは、姉上様が嫁がれた、橘様のお屋敷については、何か恨みを買っているような噂でもお聞きになったことはございますか?」

「さて、一向に……」

「そうですか? 御祐筆の御息女と奉行所の同心では、いささか身分に差があるように思われますが」

「確かに身分に差はあるが、下手に何かを言って、屋敷の耳に入ってみろ。武家を誹謗したと言われて、面倒なことになるのがおちだぞ。竜胆の御当主、この縁談に相当乗り気だったらしいから、なおさらそんな、不興を買うような真似をする阿呆もないと思うがな」

「それに、橘殿には恩もありまして……」

 その恩というのはこうである。

 六年前、千代は女中をつれて皇領の五霊大社へ参詣に行った。

 無事に参詣を済ませた帰途、二人はどこぞの中間にからまれた。

 昼間から酒にくらい酔っていたその中間は、千代にしつこくみだらがましいことを言いかけた。あまつさえ、止めに入った女中を殴りつけ、千代を物陰に無理に引っ張っていこうとした。

 それを見咎めて、千代を救ったのが半之丞であった。

 千代と女中を屋敷まで送り届けたのが縁となって、半之丞と隼之介は知り合うことになった。

 隼之介は武術も好むが、碁や将棋も好んでよくする。半之丞は、碁は嫌いだが将棋は好んでやる。そのことで、二人は親交を持つようになった。

 真面目で実直な半之丞は隼之介にたいそう気に入られ、また千代も、危ういところを救ってくれた半之丞を憎からず思っていたこともあって、二人の縁談がまとまったのであった。

「橘……橘……ああ、思い出した」

「要様?」

「いや、橘半之丞という名を、どこかで聞いたと思っていたのだが、以前、先生から聞いたことがあった。堀町に荒木忠信という剣客が道場を開いているそうなのだ。確か流派は尾野羽流だったか。で、弟子のうちで一番の腕利きが、その橘半之丞だという話だ。もっとも、他の道場の話だし、詳しいことは知らないが、少なくとも悪い話は聞かぬ仁だな」

 要がそう言ったところで、

「御免、百殿は御在宅か!」

 外から訪う声が聞こえた。


 訪れたのは、色の浅黒い、三十を一つ、二つ超えていると見える長身の侍だった。

 藍鼠色の袷に黒羽織、腰には大小二本の刀をさしている。

 男髷に結った額のきわには、よく見ないとわからないほど小さな角があった。

「どちらさまでしょうか?」

「橘半之丞と申す。本日は、ご相談したいことがあり、こうしてうかがい申した」

 名を聞いて、百が目を丸くした。

「ちょうどようございました。どうぞ、お入りください」

 先客がいるのを見て、半之丞はややためらったようだが、百にうながされて部屋にあがる。

 来客が、話に出てきた橘半之丞だと知って、三人もいちように驚いた顔になる。半之丞も、先客の中に義弟がいるのを知って、こちらも驚いたらしく目を見張った。

「噂をすれば影、というのは本当なのですね」

「なんと、拙者が噂になっておったとは。しかしこんなところで、噂に聞く〔三羽烏〕の方々とまみえることになるとは思わなんだ」

 小さく笑いながら茶を入れ、羊羹とともに半之丞にすすめる。

「橘様のお話もうかがいますが、その前に竜胆様、先のお話を橘様にお伝えしてもよろしいですか?」

 隼斗が黙ってうなずく。

 百から簡潔に竜胆家で起きた異変を知らされ、半之丞の顔がみるみる青ざめる。

「人形……もしや、蔵の中の、桐箱に入っていた、朱い着物の人形では……」

「蔵の中にあったかどうかは存じませんが、桐の箱に入っていたと、姉は申しておりました」

「やはり……。それで、隼之介殿のご容態は?」

「父は今、真鶴郡の別邸で、母とともに静養しておりまして、小康を保っていると聞いております」

「左様か。実は拙者が今日うかがったのは、妻から、竜胆家で嫌なことが続いているゆえ、始末屋を頼んでもらえないかと文が届いたからなのだ。しかし、まさかそのようなことになっていたとは……。その人形は、まだお幸が持っているのか?」

「はい、人に渡そうとしませんので……」

「その人形は、何かいわくがあるものなのですか?」

 百が訊ねると、半之丞はとたんに言い渋った。それを見て、要が口を入れる。

「橘殿、何かあるならば話しておかれたほうがよろしいかと思います。私も相馬も、始末屋を手伝うために来ておりますので、ここで聞いた話は、決して口外いたしません」

「そのとおり。我々も若輩とは言え武士。言葉を違えることはありません」

 思わず兄弟子二人に目顔で抗議した百だったが、二人はそろって蛙の面に水といった具合である。

「仕事のやりかたにも関わってくることですので、もし何かいわくがあるのでしたら、すべてうかがっておきたいのです。どうかお話ください」

「む、承知、した。その人形は、拙者の姉の十和とわが持っていたものでござる。姉は……拙者が十三のころに病で亡くなったのだが、その人形はひどく大切にしていたので、いわば形見と思っておいていたのであるが、未練がこもったものか、夜毎にすすり泣く声がするので、一度は寺におさめたのだ。しかし、あまりにも未練が強いので、寺の方でももてあましたものか、しばらくお屋敷に置いて供養を続け、未練を薄めてから持ってきてくれ、と言われたのだ。屋敷で供養を続け、人形の夜泣きはおさまったのだが、今度は姉が唯一残したものだからと、母が人形を手放したがらなくなって、仕方がないので寺で経だけあげて、屋敷に持ち帰ったのだ。それからは何事も起こらなくなったので、母が亡くなって、父が後添えをもらってからは、箱におさめて蔵にしまっておいたのだが、まさか、人手に渡ってしまったとは……」

「人形をおさめたお寺はどちらです?」

「む……明鐘寺だ」

「明鐘寺ですね。ところで今のご隠居様は、人形のいわくをご存じないのですか?」

「知らぬはずだ。父が話すはずはないし、兄も自分も話さぬ。人形のことを知っている奉公人にも口止めをしている」

「なにゆえ、口止めを?」

「今は何も起きていないのだから、話す必要はない、と父が言ったのでな。しかし蔵にある人形には触ってはならない、とは言っておくべきであった」

「……失礼を承知で申し上げますが、もし今のご隠居様が、人形のいわくを知っておられて、あえて渡された、という可能性は?」

「それはない。妻からも、一度もいさかいがあったという話は聞いたことがない」

「承知しました。失礼をお許しください」

 それから心得のために、と、百は半之丞から橘家の人々のことを聞き取った。

 半之丞の父、貫蔵は病で世を去っており、今屋敷に住んでいるのは後家のお京、家督を継いだ兄の貫十郎と妻のおりく、一人息子で十三になる貫志郎が住んでいる。無論、このほかに用人や中間、女中といった奉公人が住みこんでいるのは言うまでもない。

 百が依頼を引き受けたことで、くれぐれもよろしく頼む、と頭を下げて、半之丞は帰っていった。

「要様」

 半之丞の足音が遠ざかるや、百が恨めしげに要を見やる。

「どうした」

「私、お二方に手を貸していただきたいとお頼みした覚えはありませんが」

「ああ、こちらも頼まれた覚えはないな」

 悪びれもせずに答える要が、今日に限っては面憎い。

「かかわりあいになって、何ぞ障りでも起こったら、何となさいます」

 百がいくぶん尖った声を出す。要が目を上げて、じろりと彼女を見返した。

「それはお前も同じだろう。あてられたことをもう忘れたか」

「忘れてはおりませんが、これが生業である以上、障りを受けることは覚悟しております」

「覚悟しているからいいという問題じゃないだろう」

 二人の語調がだんだんと荒くなってくるので、隼斗ははらはらと双方を見比べている。巽のほうは一見のんきに羊羹を食っていたが、目だけはじっと二人を見つめていた。

「そう怒るな。何も始末そのものに手を出そうというわけじゃない。何より相手が武家なのだから、こっちにも武家の人間がいたほうが、調べるにせよ始末するにせよ、何かと都合がいいだろう? いくら始末屋は身分の外にあるのが建前だと言っても、武家屋敷につかつか入りこんで詮議は難しいだろう。それに武家の内実はなかなか厄介だからな。武家の人間がついているとなったら、万が一向こうが何かしかけようと思っても難しいだろうさ」

 食い下がる前に、横から巽に穏やかにとりなされ、百が鼻白んで黙りこむ。

「お前も早いうちに根回しをしておけよ。俺が言えたことじゃないが」

 たしなめられ、要が肩をすくめる。

「で、これからどうする?」

「そうですね。竜胆様のお屋敷にうかがおうと思っています。本当にその人形が原因なのかどうか、確かめておきたいので」

「大丈夫なのか? またあてられないか?」

「今日のうちに準備を整えて、明日うかがいます」

 話している間に、時刻はもう昼をまわっている。それと気付いて、百は台所に立って昼餉の支度にかかった。

 豆腐と大根、葱の味噌汁を温め、鉢に割り入れた生卵へ醤油と酒を少々加えて混ぜ、塩をふって小さく切った鶏肉を炒ったものをそれに入れて混ぜ合わせ、熱い飯にかけまわす。このほか、大根の煮物と蕪の千枚漬けが出た。

「しかし、どうも妙な話だったな」

 飯を食いながら、要がぼそりとつぶやく。

「妙だったか?」

「妙だろう。人形を形見に置いておくのは分からないでもないし、人形が夜泣きしたというのは眉唾ものだが、寺におさめたというのはわかる。だが寺が一度預かったものをつっかえすか? 未練が強いんなら、それこそ自分のところでなくて、寺が供養するべきものじゃないか?」

「そうですね。橘様の話には、いくらか嘘が混じっていることとは思いますが……ともかく、まずは調べてみなければなりますまい」

 百は、きりりとその面を引き締めた、

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