人形怪

一、大槻道場の稽古のこと

「先生、ご無沙汰をいたしました」

 始末屋の百が、富田村の大槻左内の剣術道場をうたのは、年が明け、暦が新ノ月(一月)から雪ノ月(二月)に変わってすぐのことだった。

 道場の奥の居間で、携えてきた酒と、観音町の菓子舗〔大國屋〕の〔鳩落雁〕を渡すと、左内はおおいに喜んだ。鳩落雁は左内の好物なのである。

 大槻左内は五十そこそこの、一見するとどこぞの大店おおだなの主のように見える、温厚な男である。

 だがその見た目に反して、若いときには珂国では指折りの剣客であったと言う。彼の教えかたは丁寧で、門人一人ひとりの腕を見て、それぞれの特徴を伸ばしていくような稽古をする。

 道場主の人柄がこうであるので、道場の雰囲気も非常に穏やかなものである。

 しかし門人たちの腕は確かで、高弟の磯崎要いそざきかなめ相馬巽そうまたつみは、〔竜虎〕と称され、珂国かのくにの若い剣客のうちではひとかどのものだという評判だった。

 ときには、道場の前をとおりがかった剣客が、「一手、ご指南を……」と来ることがあるが、二人とも、一度たりとも遅れを取ったことはない。

「近ごろはどうじゃ。また身体を悪くしたと聞いたが、大事ないか?」

「はい。もっと早くにご挨拶にうかがうつもりだったのですが、年明け早々、風邪に憑かれてしまいましたので、すっかり遅くなってしまいました。申しわけありません」

「なに、かまわぬことよ。せっかく来たのだ、ちょっと腕を見せてもらおうか」

「かまいませぬか?」

「かまわぬとも」

 道場では、相馬巽と磯崎要が、他の門人たちに稽古をつけていた。

 木太刀を打ち合う音が、道場の空気をどよめかせている。

 左内の指示で、門人二人がまず百と立ち会った。

 こちらは、あっという間に勝負が決まった。一人は木刀を弾きとばされ、もう一人は木刀を叩き落とされ、たじたじとなって退く。

「磯崎」

「はい」

 師に指名され、要が木刀を手に立ち上がる。

 百は木太刀を正眼にかまえ、要は八双にかまえて対峙する。

 門人たちは壁際に座り、息をつめて二人を見ている。道場は、ぴんとはりつめた緊張の中にあった。

 百はきっと要を見すえ、すいと一歩間合いを詰める。白い額には汗が浮いている。

 要は動かぬ。木太刀をかまえ、静かに立ったままである。

「やあ!」

 打ちかかった百は、転瞬、ぱっと飛び退って八双にかまえなおした。

 要も百を見つめたまま、かまえを下段に転じた。少し細めた両眼に、白刃を思わせる、鋭い光が宿っている。

「鋭!」

 気合声を発し、切り下げた百の一刀を、要はすっと下がってかわし、

「たあっ!」

 はじめて裂帛の気合いとともに、一気に踏みこんで木刀を突きいれた。

 まわりの門人たちから、おさえきれぬざわめきが起こる。見所けんぞに座る大槻左内だけが、落ちつきはらって二人の立ち会いを見守っている。

 床板を踏み鳴らしてもつれあい、二人はそのまま鍔迫り合いとなった。

 鬼と人の間に産まれた百は、鬼の血のために人間よりも力が強い。とはいえ要も決して負けてはおらず、百の木太刀を止めている。

 二人は一旦するすると後退し、

「鋭!」

「応!」

 腹の底からの気合い声とともに、互いに相手に木刀を打ちこんだ。

 百の剣先は要の首筋に伸び、要は身をひねるようにしてこれをかわしざま、大きく木刀を薙ぎ払い、百の胴を打った。

「参りました」

 木刀を置き、百が頭を下げる。

「なるほど、鍛錬は怠っておらぬようだな」

「はい」

 左内に答える百は、さすがに息をはずませている。要も壁際に座り、汗を拭って息を整えていた。

 その後、ひるの稽古が終わり、他の門人たちとともに百も帰ろうとしたとき、相馬巽が彼女を呼び止めた。

「相馬様、どうなさいました?」

「俺の幼馴染なのだが、少し前から屋敷で妙なことが続いているらしくてな。始末屋に相談したいと言っていたから、これから空いているなら、話を聞いてやってくれないか?」

「そういうことなら、ええ、かまいませんよ」

 案内するという巽と、ちょうど実家に用があるという要と肩を並べ、百は観音町へと赴いた。

 観音町の、竜胆隼之介りんどうしゅんのすけという旗本の屋敷がその屋敷であるらしい。相馬家のすぐ隣、道を挟んで斜め向かいには磯崎家が建っている。

 竜胆家の屋敷を見、要が眉をひそめる。

「確かに、妙な気配がするな」

「百、どうした?」

 門に近づいたとき、ぞくりと、百の総身に悪寒が走った。

「いえ……」

 首をふる百の顔色は、青をとおりこして白くなっている。

 視界が狭まる。耳の奥でちりちりと、鈴のような音が鳴る。

 それでも進もうとして倒れかかった百を、要が慌てて抱きとめた。


 百が正気づいたときには、磯崎家の離れの一室に寝かされていた。

「気が付いたか」

 枕頭には要と巽が座り、ほっとした顔で彼女をのぞきこんでいる。

 布団の上に起きなおった百へ、大丈夫か、と巽が不安げに声をかける。

「……ええ、少し嫌なものにあてられただけでございますから。とはいえ、私にはいささか荷が重いようです。始末屋が必要なのでしたら、富田村の梶春臣かじはるおみをお訪ねください。一筆書いておきますので」

 筆を借り、懐紙にさらさらと文をしたためる。

「申しわけありません、お力になれず」

「いや、充分だ。富田村を訪ねるように伝えておく」

 文を懐に、巽が礼を言って座を立つ。それを見送ったあと、今日は泊まっていけ、と要が百にすすめた。

「いえ、休ませていただいたうえに、そこまで甘えては悪うございます」

「しかし、そんな顔をしている者を西澤淵まで帰らせるわけにはいかぬ。途中で何かあったらどうするつもりだ」

「大丈夫ですよ。慣れた道ですし、なんなら駕籠をつかいますから」

 だが、と、要が渋い顔になったとき、

「そう言わないで泊まっておいきなさい。もう小暗くなっていますよ」

 障子がさらりと開いて、要の継母、奈津が顔を出した。

「奥様」

「具合はどうですか? あまり無理をしてはいけませんよ」

 どうぞ、と茶をすすめられ、百はさすがに固くなってそれを受け取った。

 珂国は身分の上下に厳しいが、磯崎家では当主の平馬も妻の奈津も、身分の差などいささかも気にかけず、縁もゆかりもない百を、幼いころから我が娘のようにあつかってくれている。

 百もそれには感謝していたが、それに胡座あぐらをかくような真似は決してしなかった。

「殿様も、泊まっていけばいいとおっしゃっておいででしたよ。特に用がないのなら、今日は泊まっておいきなさいな」

 奈津に重ねてすすめられ、百は結局、この日は磯崎家に泊まることになった。

 その夜、百の様子に思うところがあった要は、百がいる離れに様子を見に行った。

 案の定、縁側でひとり、膝を抱えて座っている百を見つけ、思わず淡い苦笑をこぼす。

「これでも羽織っておけ。また風邪を引くぞ」

「要様」

 きまり悪そうに笑って、百が、要が持ってきた綿入れを肩に羽織った。

「こんな夜中に、どうなさったのですか?」

「お前のことだから、眠れていないんじゃないかと思ってな」

「……よくおわかりで」

「よくもなにも、妙なモノにあてられたときには眠れないと、昔言ってただろう」

「そうでしたっけ?」

「そうだったさ。まだ眠れそうにないんなら、どうだ、一杯」

「いただきます」

 燗をつけた酒を一杯、猪口に注いで渡してやる。つかのま触れた百の手は、氷のように冷えていた。

 無理もない。今は曇っていても雪こそ降っていないが、冬のさなかである。綿入れがあっても寒いところへ、百は寝間着一枚なのである。

 ひと息に燗酒を干し、ふ、と百が息を吐く。

「ああ、あたたまりますね」

「そうだろう」

 もう一杯酒を注いでやると、百は今度は少しずつ口に含んだ。

「それにしても、情けないことですね」

「そう卑下することはないだろう。あの屋敷は何だか嫌な空気だったし、お前ならあてられるのも無理はないと思うがな」

「確かに瘴気に包まれているようなお屋敷でしたけれど……要様、いつからそういったものがわかるようになったのです?」

 遠慮のない百の言葉に、要がふっと苦笑する。

「去年、あの箱の一件があっただろう。あれから前より勘が鋭くなってな。お前のように視えているわけではないが、妙なモノはわかるようになった」

「それで、何か問題は起きていませんか?」

「問題ない」

「それなら、よろしいのですけれど……」

 言いつつ、百はどこか浮かない顔である。

「何か、気になることがあるのか?」

「そういうわけではないのですが……要様、眠るのが怖いと言ったら、お笑いになりますか?」

「眠るのが?」

「ええ……」

 言ったきり百は口を閉ざし、庭に植えられた万両の赤い実をじっと見つめている。

 要は黙って酒を口に含んだ。無理に口を開かせようとしても、それで話す百ではないことを、要はよく心得ている。こういうときには先を促すよりも、彼女が言葉をくりだすのを待ったほうが良い。

「ときどき、あるのですよ。布団に入って、目を閉じて……このまま目が覚めないのじゃないかと思うことが……。モノにあてられたあとは、特にそうなのですけれど。だから、情けないと言うのです」

「だったらいっそ、くたびれるまで木太刀を振ったらどうだ。布団に入ってまであれこれ考えるから、そんなことを思うんだろう。くたくたになるまで木刀振って、さっさと寝てしまえ」

 あっさりと言い放った要に、百がやや呆れを含んだ目をむける。

「だいたい、夜の考えごとはろくな結果にならないと昔から言うだろう。あれこれ考えすぎて眠れないくらい煮つまるんなら、疲れるまで型でもつかっていろ。せいせいするぞ。なんならこれから打ち合いでもするか?」

 幼いころから剣術一筋、大槻道場の門人のうちでも、朴念仁中の朴念仁、などとからかわれる要らしい言葉ではあるが、それがかえって百には良かったらしい。

「道場での闇稽古ならともかく、こんな夜中に屋敷のうちで打ち合いなどしては、殿様と奥様に大目玉をいただくことになりますよ」

 小声で、しかし愉快そうに笑って、百はもう一杯、と手酌で酒を注いだ。

「あ、降ってきましたね」

 百が空を見上げる。なるほど、爪の先ほどの雪片が、暗い空から降り落ちてくる。

「ああ、だがこの分なら積もることはないだろうよ」

 それからさらに半刻(約一時間)ほど、二人は酒を酌み交わしていた。他愛のない世間話に興じ、ときには百ばかりでなく要も、小さな笑い声を上げる。

 酔いも手伝って、百が小さく欠伸をもらす。

「だいぶ遅くなったな。そろそろ休むか?」

「ん、そうですね。今なら寝つけそうですし」

 それじゃ、と要が空になった徳利を持って立ち上がる。

 部屋に敷かれた柔らかな布団に横になり、百はすぐに眠りこんだ。


 翌朝には、百の調子はすっかり戻っていた。

 磯崎家で朝餉を馳走になり、百は帰途についた。

 要の予報のとおり、夜中に降った雪は、地面を湿らせる程度でやんだようだ。

 一刻(約二時間)近くかけて、歩いて西澤淵に帰ってきた百が、家の用を片付けてひと息いれていると、表の戸を叩く音がした。

「はい?」

「俺だ。磯崎だ」

「要様?」

 何ごとかと思いつつ、戸を開ける。

 要と、その後ろに相馬巽、そして見知らぬ若い侍が立っている。二十三、四の、ひょろりと背の高い、腰に差した大小がいかにも重そうな若侍である。三人が三人とも、硬い表情を浮かべていた。

 若侍を見て、百の顔が一瞬凍りつく。眼帯越しでも分かるほど、彼の身は瘴気にからみつかれていた。

 それと察し、大丈夫か、と小声で要が問うのへ、百は小さくうなずいた。確かに濃い瘴気ではあるが、あの屋敷の前で感じたほど強くはない。

「何かございましたか?」

「いや、俺は道案内だ。話は相馬から聞いてくれ」

「相馬様、富田村に行かれたのではないのですか?」

「昨日、あのあとすぐに行ったんだが、手が空いていないと断られてな。お前に頼んでくれと言われた。それと、これも覚悟で始末屋になったのなら、あてられたくらいで投げ出すな、と伝えてくれ、と」

 そう聞いて、百はたちまち難しい顔になった。

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