四、西澤淵の鬼祓いのこと
弓はどうしたかと聞くと、後で重助が届けに来ると言う。
「弓のほかに鏡を一つ頼んだから、ちょっと遅くなるだろうよ」
「鏡を?」
「落としたところで、封じれなきゃ意味がないだろう。しかし西屋の方でも馬鹿な真似をしたもんだ。いくら気に入らないからって、そんなものに触ったらろくでもないことになるってことくらい、ちゃんと知ってただろうに」
菖蒲と蓬を煮ながら、全くだと百も同意する。
夕方には蘇芳が夜鳥と胡堂、それから胡堂と同じく同心を務める鬼の
百は台所に立って夕飯の支度にかかった。小さく切った鶏肉を甘辛く炒りつけたのを混ぜた握り飯と、味噌を塗って軽く炙った握り飯。それに熱い味噌汁という質素な夕餉である。
それでも中々に評判で、戸岳などは役宅の料理人にこれを伝授してほしい、などと言っていた。
夕餉を終え、段取りを確かめて一息吐いたとき、夜鳥が縁の方へ顔を向け、胡堂が眉をひそめて刀に手をかけた。
「からとり、きてる」
「近付いてるな」
「確かに、鬼にしちゃ妙な気だな。変なものが混ざってる」
「では、手はず通りに」
西澤淵の近くに、かろうじて四ツ辻と呼べるような道がある。胡堂と戸岳、重助はそこで弓を鳴らし、西澤淵まで志月を追いこむ役、春臣は彼らに何かあった場合の護衛、百と蘇芳は菖蒲と蓬を煮た湯を志月に飲ませ、鏡に空鳥を封じる役である。
万一これで空鳥が落ちなければ、そのときには自分が志月を斬る、と、百は一同に伝えていた。
「
春臣は答えず、ただ闇を凝視している。重助もそれ以上は言葉を重ねず、きりりと弓を引き絞った。
鳴き声が、闇に響く。
金属が軋るような、あるいはひょうひょうとも聞こえるような。
その鳴き声が消えるか消えないかのうちに、白い影――志月が彼らの眼前に降りた。
髪は乱れ、着物は土に汚れ、あちこちが大きく裂けて、着物をまとっていると言うよりも、ようやく身につけている、といったふうであった。
三方から、弓弦が鳴る。
途端、それまでよりも一層高い声を上げた志月が、一散に西澤淵まで駆けていった。
「行ったぞ!」
春臣の声を聞くまでもなく、駆けてくる志月が百にも見えていた。その速度は、以前よりも明らかに落ちていた。右足を引きずっているせいだろう。
左足で踏み切り、高々と飛び上がった志月の眼が、百に向く。太刀で辛うじて受け止めたものの、大きく後ろに押される。
志月の顔を正面から見て、さすがの百も背筋が冷たくなるのを覚えた。
その
「志月!」
百の大喝も志月に届いた様子はない。ひょう、と短く鳴いた志月の、赤くなった眼が百を射る。
「紅!」
蘇芳が柄杓で桶の湯を汲み、志月に駆け寄る。それが何か察したものか、志月が低く唸りながら後ろへ飛んだ。
それを見た戸岳が懐から出した捕縄をさばきながら駆け寄り、志月へぱっと投げかける。
戸岳は同心のうちでも捕縄の名手として知られている。蘇芳に注意を向けていたところに、背後から早縄をかけられたのであるから、志月には到底避ける暇がなかった。
首に縄をかけられ、流石にひるんだ志月を戸岳が地に引き倒す。そのまま慣れた様子で両腕を固めた戸岳だったが、たちまち顔色を変えた。
「おい、止せ!」
腕を固められた志月は、そのまま更に腕を曲げようとしていたのである。戸岳の手の下で、腕の骨が軋んでいた。そんなことをすれば腕が折れる。そもそも、両腕を固められている時点で相当な痛みを感じているはずだが、志月は全く意に介していない。
たじろいだ戸岳が振り払われ、志月が縄を絡めたまま立ち上がる。その眼前へ飛び込んできた百が、志月の耳へ、容赦なく刀の腹を叩きつけた。
この一撃は効いたらしい。よろめいた志月の腕を戸岳と胡堂が捻るように掴んだ。
ようやく動きが止まった志月の口へ、蘇芳が湯を注ぎ込む。志月が咳き込んだために大部分は零れたが、それでも確かに、湯は喉を通った。
ひいいい、と、甲高い鳴き声が志月の喉から迸る。尋常でない力で同心二人を振りほどいた志月は更に二度、三度高く鳴いて、そのまま土の上に突っ伏した。
志月の口から黒い靄のようなものが溢れ出す。靄は
瞳のない白い眼が百に向く。蛇に睨まれた蛙のように、息さえ止めた百へ、つと影が近寄った。
ざわざわと空気が震える。風の音にも似たざわめきに混じる言葉を、百ははっきりと聞き取った。
「馬鹿野郎!」
耳元で怒鳴られ、勢いよく引き倒されて、百は自分を取り戻した。
百を庇うように、春臣が立っている。百が自失していたのは、どうやらわずかの間であったらしい。
「からとり、かえろ?」
蘇芳の傍で見守っていた夜鳥が、影に手を伸ばす。
影の――空鳥の頭がゆらゆらと横に揺れた。白い眼が、どこか恨めしげに夜鳥を見る。
横で見ていた蘇芳は、姉が哀しげな面持ちで、そうだね、と呟くのを聞いていた。
春臣が止めるのへ、大丈夫、と返し、百は空鳥の前へ出てかがみ込んだ。
「空鳥」
――はく。
「今日はお帰り。悪さしないなら、またおいで」
ゆらゆらと、小さく空鳥が揺れる。やがて、影は小さく頷いたように見えた。
夜鳥に導かれ、鏡に近付いた空鳥が、すう、と消える。それまで周りを映していた鏡の表面が黒ずんで陰った。
鏡を大切そうに、そっと抱えた夜鳥が、ありがとう、と頭を下げた。
水から浮かび上がるように、志月は目を覚ました。身体は酷く重く、熱でもあるのか、頭は熱い。
「おきた?」
「おきたね」
耳鳴りで、よく聞き取れなかったが、子供の声に聞こえた。
「ああ、起きた? 五日も寝てたから、ちょっと心配しちゃった」
別の声が混じる。見える景色も明瞭でなく、傍らに誰がいるのかも判然としない。
この声は、白菊だったか、紅菊だったか。耳鳴りが酷く、判断がつかない。
幾度か瞬いて、やっと景色がはっきりしてきた。
白菊――百が枕元で座っている。覚えのある景色から、ここは西澤淵で、自分は百の家で寝かされているのだと察しをつけた。
「気分はどう?」
「うん、大丈夫」
「じゃないでしょう。痩せ我慢してるの、見たら分かるよ」
志月は口の端をきゅっと曲げてみせた。これは彼が答えに窮したときの表情であることを、百は知っていた。
「少しは意地を張らせてくれてもいいんじゃないのかな」
「意地の張りどころが違うでしょうに。いいから今は休んで」
志月は何か抗弁しようとしたが、結局は何も言えずに目を閉じた。
志月が眠り込んだのを見届けて、百はそっと台所に立った。
半刻(約一時間)ほどして、目を覚ました志月へ、百は作った重湯を持っていった。
ゆっくりと身体を起こし、椀を受け取る。
「空鳥は、どうなった?」
「あそこ」
百が示した部屋の片隅には、小さな棚が設えられ、古びた鏡と新しい鏡が、二つ並んで置かれていた。その前には水と米と塩、神酒が供えてある。
「月乃さんに頼んでね、鏡を譲ってもらったんだ。あそこに置いておいて、また壊されでもしたら大変だし。二人とも心配して、よく出てきてたよ」
「ああ、道理で」
さっきの声もそうだったのかと、志月は密かに胸の内で納得した。
重湯を食べ、志月は再び横になった。
それから数日後には、志月は起き上がって話もできるようになった。流石に鬼の回復は早いと、百が内心密かに感心したほどである。
同心による吟味も受けたが、ものに憑かれての乱心であること、怪我人も尽く浅手で、大きな被害は出ていないこと、憑かれることになったのも、彼に直接の責任があるわけではないことから、志月についての罰は、神体とも言える鏡の管理が悪いと、きつく叱りおくだけで済んだ。
西屋の方はどうなったかと言えば、密かに志月の見舞いにきた月乃が、立板に水とまくしたてるのを聞く限り、どうやら西屋には金貨十枚の過料(罰金)が科され、松江には三十日の謹慎という処分が下ったらしい。
「命が助かっただけ良かったでしょう。御神体を故意に打ち壊すなど、場合によっては、神を鎮めるための人柱とされても文句は言えませんよ」
淡々とした百の言葉に、月乃の顔が青ざめる。本来ならそうなってもおかしくなかったのだが、命が助かったのは、志月が奉行所にあくまでも事故だったと主張したからである。
「白菊、声が大きいよ。伯母さんには養ってもらった恩がある。そう重い罰を科されたんじゃ、寝覚めが悪いもの」
「志月はひとが良すぎる。いくら恩があっても、これで帳消しじゃないの。それはそれとして、月乃さん、ちょっと」
外の井戸端、志月に話が聞こえない場所まで月乃を誘い、百はそれまでとは違う、厳しい顔で月乃に向き直った。
「志月の知り合いとしてだけでなく、始末屋として申し上げることですが、松江さんによくお伝え願います。奉行所の裁きは、もとは己の浅はかな行為によるもの、志月を恨むのは筋違いであること。この国の法に照らすなら、重罪として人柱とされていてもおかしくはないこと。そして、万一志月に筋違いの恨みを向けることがあったならば、始末屋の百が黙っていないということ。よろしいですか」
「え、ええ、分かりました。必ず伝えます」
その気迫に気圧されたらしい月乃が何度も頷く。
「白菊、あんまり月乃を脅かさないでくれよ」
戻ってきた月乃がいくらか青ざめているのを見、志月が苦笑交じりに言うのへ、百は肩を竦めた。
月乃が帰ってから、志月は縁側に腰を掛けて百が淹れた茶を飲んでいた。
起きられるようになった志月が一番悩んでいたのは、自分のこれからの身の振り方だった。
「流石にもう、西屋に戻ろうとは思えないからね。自分について何か言われるのには慣れたし、も何とも思わないけれど、夜鳥や空鳥に何かあったら、父に申し訳が立たない」
「そうして飲み込むのも、あんまり良くないよ。志月、ほんとはずっと怒ってたんでしょう。表に出さないだけで」
志月は黙ったまま、口の端をきゅっと曲げる。
「夜鳥も空鳥も言ってたよ。津地村に行ってから、志月がほんとに笑うことはなくなった、って。……志月はいつも怒ってた、ってさ」
百は確かに聞いたのだ。さびし、と嘆く空鳥の声とともに、うらめし、と怨じる志月の弱い声を。
「……そう、か。小さいときからずっと父に言われていたんだ。『お前は鬼なのだから、どれほど腹が立っても、手を上げてはいけない』。だから昔から、怒らないように……というか、腹が立っても表に出さないようにしていたんだよ。もともと争いごとは嫌いだしね」
子供でも鬼の力は強い。志月のように家に籠りがちであっても、その腕力は人を軽く上回る。
ゆえにその言いつけの意味は、百にも理解できた。女である百も、鬼の血が入っている分、人間相手なら腕力はそこらの男よりも上なのだ。
「空鳥はそれを表に出させたかったのかもしれないね。椿屋と違って充分に祀ることができなかったから、荒れかけていたというのもあったのだろうけれど。……こんなことを言うのは、褒められることではないのだろうけど、正直、溜まってたものは軽くなったよ」
「それなら良かったんじゃない。腹にずっと溜めておくのは良くないもの」
そうだね、と志月は頷き、茶を飲んだ。ふ、と息を吐き、黙ってしばらく考え込む。
「白菊、ああ、いや、百。夜鳥と空鳥を、預かっていてもらえないか。僕はもう少し動けるようになったら、何とか落ち着き先を探すことにする。それまでの間でいいんだ」
「別にそっちの方が呼びやすいんなら白菊でいいよ。預かるのは構わないし、落ち着き先を探すのもいいけど、無理はしないこと」
厳しいね、と志月が笑った。当たり前だ、と百も笑った。
志月はその後、百の口添えもあって西澤淵に近い刈谷村で暮らすことになった。穏やかな性格の志月は村人達にも親しまれ、彼はすぐに村の暮らしに馴染んだ。
後に彼は刈谷村で寺子屋を開き、読み書き算盤を子供達に教えるようになったが、その教室には時折、振り分け髪の子供が二人、座っていることがあったという。
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