四、西澤淵の鬼祓いのこと

 春臣はるおみの行動は早かった。翌日の昼過ぎにはどういう伝手を辿ったのか、菖蒲と蓬を西澤淵まで届けてきた。

 弓はどうしたかと聞くと、後で重助が届けに来ると言う。

「弓のほかに鏡を一つ頼んだから、ちょっと遅くなるだろうよ」

「鏡を?」

「落としたところで、封じれなきゃ意味がないだろう。しかし西屋の方でも馬鹿な真似をしたもんだ。いくら気に入らないからって、そんなものに触ったらろくでもないことになるってことくらい、ちゃんと知ってただろうに」

 菖蒲と蓬を煮ながら、全くだと百も同意する。

 夕方には蘇芳が夜鳥と胡堂、それから胡堂と同じく同心を務める鬼の戸岳とがくを連れて、西澤淵に姿を見せた。家の中には百と春臣のほか、少し前に着いた重助もいたので、さほど広くはない家の中は一杯になった。

 百は台所に立って夕飯の支度にかかった。小さく切った鶏肉を甘辛く炒りつけたのを混ぜた握り飯と、味噌を塗って軽く炙った握り飯。それに熱い味噌汁という質素な夕餉である。

 それでも中々に評判で、戸岳などは役宅の料理人にこれを伝授してほしい、などと言っていた。

 夕餉を終え、段取りを確かめて一息吐いたとき、夜鳥が縁の方へ顔を向け、胡堂が眉をひそめて刀に手をかけた。

「からとり、きてる」

「近付いてるな」

「確かに、鬼にしちゃ妙な気だな。変なものが混ざってる」

「では、手はず通りに」

 西澤淵の近くに、かろうじて四ツ辻と呼べるような道がある。胡堂と戸岳、重助はそこで弓を鳴らし、西澤淵まで志月を追いこむ役、春臣は彼らに何かあった場合の護衛、百と蘇芳は菖蒲と蓬を煮た湯を志月に飲ませ、鏡に空鳥を封じる役である。

 万一これで空鳥が落ちなければ、そのときには自分が志月を斬る、と、百は一同に伝えていた。

父娘おやこ揃って同じ相手の始末とは、何の因果かね、なあ、春?」

 春臣は答えず、ただ闇を凝視している。重助もそれ以上は言葉を重ねず、きりりと弓を引き絞った。

 鳴き声が、闇に響く。

 金属が軋るような、あるいはひょうひょうとも聞こえるような。

 その鳴き声が消えるか消えないかのうちに、白い影――志月が彼らの眼前に降りた。

 髪は乱れ、着物は土に汚れ、あちこちが大きく裂けて、着物をまとっていると言うよりも、ようやく身につけている、といったふうであった。

 三方から、弓弦が鳴る。

 途端、それまでよりも一層高い声を上げた志月が、一散に西澤淵まで駆けていった。

「行ったぞ!」

 春臣の声を聞くまでもなく、駆けてくる志月が百にも見えていた。その速度は、以前よりも明らかに落ちていた。右足を引きずっているせいだろう。

 左足で踏み切り、高々と飛び上がった志月の眼が、百に向く。太刀で辛うじて受け止めたものの、大きく後ろに押される。

 志月の顔を正面から見て、さすがの百も背筋が冷たくなるのを覚えた。

 そのかおつきは、尋常のものではなかった。志月の意識が残っているかどうかさえ、そのかんばせからうかがい知ることはできなかった。

「志月!」

 百の大喝も志月に届いた様子はない。ひょう、と短く鳴いた志月の、赤くなった眼が百を射る。

「紅!」

 蘇芳が柄杓で桶の湯を汲み、志月に駆け寄る。それが何か察したものか、志月が低く唸りながら後ろへ飛んだ。

 それを見た戸岳が懐から出した捕縄をさばきながら駆け寄り、志月へぱっと投げかける。

 戸岳は同心のうちでも捕縄の名手として知られている。蘇芳に注意を向けていたところに、背後から早縄をかけられたのであるから、志月には到底避ける暇がなかった。

 首に縄をかけられ、流石にひるんだ志月を戸岳が地に引き倒す。そのまま慣れた様子で両腕を固めた戸岳だったが、たちまち顔色を変えた。

「おい、止せ!」

 腕を固められた志月は、そのまま更に腕を曲げようとしていたのである。戸岳の手の下で、腕の骨が軋んでいた。そんなことをすれば腕が折れる。そもそも、両腕を固められている時点で相当な痛みを感じているはずだが、志月は全く意に介していない。

 たじろいだ戸岳が振り払われ、志月が縄を絡めたまま立ち上がる。その眼前へ飛び込んできた百が、志月の耳へ、容赦なく刀の腹を叩きつけた。

 この一撃は効いたらしい。よろめいた志月の腕を戸岳と胡堂が捻るように掴んだ。

 ようやく動きが止まった志月の口へ、蘇芳が湯を注ぎ込む。志月が咳き込んだために大部分は零れたが、それでも確かに、湯は喉を通った。

 ひいいい、と、甲高い鳴き声が志月の喉から迸る。尋常でない力で同心二人を振りほどいた志月は更に二度、三度高く鳴いて、そのまま土の上に突っ伏した。

 志月の口から黒い靄のようなものが溢れ出す。靄は緩々ゆるゆると集まって、童子のような形を作った。ちょうど夜鳥を黒塗りにしたような姿である。

 瞳のない白い眼が百に向く。蛇に睨まれた蛙のように、息さえ止めた百へ、つと影が近寄った。

 ざわざわと空気が震える。風の音にも似たざわめきに混じる言葉を、百ははっきりと聞き取った。

「馬鹿野郎!」

 耳元で怒鳴られ、勢いよく引き倒されて、百は自分を取り戻した。

 百を庇うように、春臣が立っている。百が自失していたのは、どうやらわずかの間であったらしい。

「からとり、かえろ?」

 蘇芳の傍で見守っていた夜鳥が、影に手を伸ばす。

 影の――空鳥の頭がゆらゆらと横に揺れた。白い眼が、どこか恨めしげに夜鳥を見る。

 横で見ていた蘇芳は、姉が哀しげな面持ちで、そうだね、と呟くのを聞いていた。

 春臣が止めるのへ、大丈夫、と返し、百は空鳥の前へ出てかがみ込んだ。

「空鳥」

――はく。

「今日はお帰り。悪さしないなら、またおいで」

 ゆらゆらと、小さく空鳥が揺れる。やがて、影は小さく頷いたように見えた。

 夜鳥に導かれ、鏡に近付いた空鳥が、すう、と消える。それまで周りを映していた鏡の表面が黒ずんで陰った。

 鏡を大切そうに、そっと抱えた夜鳥が、ありがとう、と頭を下げた。



 水から浮かび上がるように、志月は目を覚ました。身体は酷く重く、熱でもあるのか、頭は熱い。

「おきた?」

「おきたね」

 耳鳴りで、よく聞き取れなかったが、子供の声に聞こえた。

「ああ、起きた? 五日も寝てたから、ちょっと心配しちゃった」

 別の声が混じる。見える景色も明瞭でなく、傍らに誰がいるのかも判然としない。

 この声は、白菊だったか、紅菊だったか。耳鳴りが酷く、判断がつかない。

 幾度か瞬いて、やっと景色がはっきりしてきた。

 白菊――百が枕元で座っている。覚えのある景色から、ここは西澤淵で、自分は百の家で寝かされているのだと察しをつけた。

「気分はどう?」

「うん、大丈夫」

「じゃないでしょう。痩せ我慢してるの、見たら分かるよ」

 志月は口の端をきゅっと曲げてみせた。これは彼が答えに窮したときの表情であることを、百は知っていた。

「少しは意地を張らせてくれてもいいんじゃないのかな」

「意地の張りどころが違うでしょうに。いいから今は休んで」

 志月は何か抗弁しようとしたが、結局は何も言えずに目を閉じた。

 志月が眠り込んだのを見届けて、百はそっと台所に立った。

 半刻(約一時間)ほどして、目を覚ました志月へ、百は作った重湯を持っていった。

 ゆっくりと身体を起こし、椀を受け取る。

「空鳥は、どうなった?」

「あそこ」

 百が示した部屋の片隅には、小さな棚が設えられ、古びた鏡と新しい鏡が、二つ並んで置かれていた。その前には水と米と塩、神酒が供えてある。

「月乃さんに頼んでね、鏡を譲ってもらったんだ。あそこに置いておいて、また壊されでもしたら大変だし。二人とも心配して、よく出てきてたよ」

「ああ、道理で」

 さっきの声もそうだったのかと、志月は密かに胸の内で納得した。

 重湯を食べ、志月は再び横になった。


 それから数日後には、志月は起き上がって話もできるようになった。流石に鬼の回復は早いと、百が内心密かに感心したほどである。

 同心による吟味も受けたが、ものに憑かれての乱心であること、怪我人も尽く浅手で、大きな被害は出ていないこと、憑かれることになったのも、彼に直接の責任があるわけではないことから、志月についての罰は、神体とも言える鏡の管理が悪いと、きつく叱りおくだけで済んだ。

 西屋の方はどうなったかと言えば、密かに志月の見舞いにきた月乃が、立板に水とまくしたてるのを聞く限り、どうやら西屋には金貨十枚の過料(罰金)が科され、松江には三十日の謹慎という処分が下ったらしい。

「命が助かっただけ良かったでしょう。御神体を故意に打ち壊すなど、場合によっては、神を鎮めるための人柱とされても文句は言えませんよ」

 淡々とした百の言葉に、月乃の顔が青ざめる。本来ならそうなってもおかしくなかったのだが、命が助かったのは、志月が奉行所にあくまでも事故だったと主張したからである。

「白菊、声が大きいよ。伯母さんには養ってもらった恩がある。そう重い罰を科されたんじゃ、寝覚めが悪いもの」

「志月はひとが良すぎる。いくら恩があっても、これで帳消しじゃないの。それはそれとして、月乃さん、ちょっと」

 外の井戸端、志月に話が聞こえない場所まで月乃を誘い、百はそれまでとは違う、厳しい顔で月乃に向き直った。

「志月の知り合いとしてだけでなく、始末屋として申し上げることですが、松江さんによくお伝え願います。奉行所の裁きは、もとは己の浅はかな行為によるもの、志月を恨むのは筋違いであること。この国の法に照らすなら、重罪として人柱とされていてもおかしくはないこと。そして、万一志月に筋違いの恨みを向けることがあったならば、始末屋の百が黙っていないということ。よろしいですか」

「え、ええ、分かりました。必ず伝えます」

 その気迫に気圧されたらしい月乃が何度も頷く。

「白菊、あんまり月乃を脅かさないでくれよ」

 戻ってきた月乃がいくらか青ざめているのを見、志月が苦笑交じりに言うのへ、百は肩を竦めた。

 月乃が帰ってから、志月は縁側に腰を掛けて百が淹れた茶を飲んでいた。

 起きられるようになった志月が一番悩んでいたのは、自分のこれからの身の振り方だった。

「流石にもう、西屋に戻ろうとは思えないからね。自分について何か言われるのには慣れたし、も何とも思わないけれど、夜鳥や空鳥に何かあったら、父に申し訳が立たない」

「そうして飲み込むのも、あんまり良くないよ。志月、ほんとはずっと怒ってたんでしょう。表に出さないだけで」

 志月は黙ったまま、口の端をきゅっと曲げる。

「夜鳥も空鳥も言ってたよ。津地村に行ってから、志月がほんとに笑うことはなくなった、って。……志月はいつも怒ってた、ってさ」

 百は確かに聞いたのだ。さびし、と嘆く空鳥の声とともに、うらめし、と怨じる志月の弱い声を。

「……そう、か。小さいときからずっと父に言われていたんだ。『お前は鬼なのだから、どれほど腹が立っても、手を上げてはいけない』。だから昔から、怒らないように……というか、腹が立っても表に出さないようにしていたんだよ。もともと争いごとは嫌いだしね」

 子供でも鬼の力は強い。志月のように家に籠りがちであっても、その腕力は人を軽く上回る。

 ゆえにその言いつけの意味は、百にも理解できた。女である百も、鬼の血が入っている分、人間相手なら腕力はそこらの男よりも上なのだ。

「空鳥はそれを表に出させたかったのかもしれないね。椿屋と違って充分に祀ることができなかったから、荒れかけていたというのもあったのだろうけれど。……こんなことを言うのは、褒められることではないのだろうけど、正直、溜まってたものは軽くなったよ」

「それなら良かったんじゃない。腹にずっと溜めておくのは良くないもの」

 そうだね、と志月は頷き、茶を飲んだ。ふ、と息を吐き、黙ってしばらく考え込む。

「白菊、ああ、いや、百。夜鳥と空鳥を、預かっていてもらえないか。僕はもう少し動けるようになったら、何とか落ち着き先を探すことにする。それまでの間でいいんだ」

「別にそっちの方が呼びやすいんなら白菊でいいよ。預かるのは構わないし、落ち着き先を探すのもいいけど、無理はしないこと」

 厳しいね、と志月が笑った。当たり前だ、と百も笑った。


 志月はその後、百の口添えもあって西澤淵に近い刈谷村で暮らすことになった。穏やかな性格の志月は村人達にも親しまれ、彼はすぐに村の暮らしに馴染んだ。

 後に彼は刈谷村で寺子屋を開き、読み書き算盤を子供達に教えるようになったが、その教室には時折、振り分け髪の子供が二人、座っていることがあったという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る