鬼遊び

一、蛇を巻く童子のこと

「ごめんなさい、姉さん。長谷部様からお呼び出しがあったんで、これからすぐに奉行所まで行かなきゃいけないの」

「お奉行様からの呼び出しじゃ仕方がない。野菜はここへ置いておくから、早く行っておいで」

 慌ただしく駆けていく蘇芳を見送って、仕方がない、と肩をすくめ、百も帰路につく。

 近隣の村人から貰った野菜の裾分けついでに、どこかへ食事に行こうと妹を誘いに来たのだったが、奉行所からの呼び出しとなれば、奉行・長谷部平内の下で密偵を務める蘇芳は、それを無視するわけにはいかない。

 女ながら腰に脇差を差し、颯爽と歩むその姿を、道行く人が珍しげに振り返る。

 百の方では気にもとめない。女の剣客が珍しいのは今に始まったことではない。今気にかかるのは、自分の見た目よりも蘇芳のことだった。

 奉行所に務める与力、同心だけでなく、蘇芳のような密偵にまで招集がかかるとは、余程のことが起こったのだろうか。

 しかし、と首を傾げる。

 このところ市中は平穏。凶盗凶賊の類、妖異の類が出たなどという、物騒な話はとんと聞かない。

 舟を預けておいた馴染みの船宿、〔島屋〕へ入ると、顔見知りの船頭、玖善くぜんが船着きから降りてきた。

「やあ、百ちゃん。ちょいと気になることを聞いたんだが、聞いていかないかい?」

「うん、何かあった?」

 茶を飲みながら玖善の部屋で百が聞いたのは、このような話であった。


 昨夜のことである。

 北井佐町の老舗の呉服屋、〔粂井屋〕の主人長兵衛が、寄合に出た帰りのことである。

 集会所のある南井佐町から、北井佐町へかかる短い橋を渡っていたとき、前から足音が聞こえてきた。

 どうやら裸足で歩いているような、ぺたぺたという足音だったそうである。

 まもなく、長兵衛の持つ提灯が、足音の主を照らし出した。

 七つか八つくらいに見える、振り分け髪のわらわ。足元は裸足、袖のない衣を着て、寒い夜でもないのに首巻きを巻いている。

 平素の彼なら、なぜこんな夜半に子供が一人でいるのか、と不審に思うところである。特にこの夜は曇り空で、提灯がなければ夜道は心許ない。そんな夜に灯りもなく一人で歩いているなど、尋常の子供ではあるまい。

 だが、この夜は長兵衛、したたかに酔って気が大きくなっていたものらしい。

「嬢ちゃん、こんな夜中にどこへいくんだね」

 臆せず声をかけると、子供は首を煽って長兵衛を見た。

「しづきをさがしてるの。 おじさん、しづき、しらない?」

「しづき? なんだねそれは? 人の名前かい?」

「ううん。おに」

「さて……覚えがないなあ。それより、こんな夜中に子供がうろつくものじゃない。家はどこだね?」

 あっち、と指差した童子の首元で、何かが動いた。

 首巻きだと思っていたそれが、一匹の青黒い蛇であると気付いて、長兵衛は肝を潰した。

 童子の首から腕へ、するすると移動した蛇が鎌首をもたげ、ちろちろと舌を出す。

 酒の酔いも吹き飛び、提灯を放り出して、長兵衛は後も見ず、一目散に駆け出したのだった。


 話を聞いて、百が小さく唸る。

(蛇……?)

 何か引っかかるものがあった。蛇を首に巻いた。振り分け髪の童子。

「知ってる話だったかい?」

「いや……覚えがないな。むじなか何かかね」

むじなだったら『こんな顔だったかい?』って言うだろう」

 冗談交じりの軽口に、百が小さく吹き出した。

「いや、ありがとう。また何か聞いたら教えてくれ」

 ただの悪戯好きの子供ではないかと一瞬思ったが、それにしては引っかかる点が多い。

 預けておいた舟で、川面へ漕ぎ出す。

 そろそろ柚羅川でも鮎の漁が解禁される頃だ。百も鮎の塩焼きは好物である。鮎漁が解禁されたら塩焼きを食べに行こうと思いながら舟を進める。

 柚羅川から引いた水路へ入り、家の裏手の桟橋に舟をもやった百は、こちらに来る影があることに気が付いた。

「家に御用でございましたか?」

 声をかけると、相手は足を止め、百を見て大きく目を見開いた。二十七、八くらいの、線の細い鬼の男である。

「白菊?」

 呟きを聞き咎め、百が片眉を上げる。

 世間では“始末屋の百”で通っている彼女の、そちらの名を知る者は、今となってはごく少ない。

 長い白髪の、細面の男を見返す百の眼に、警戒の色が揺れる。

 男は困惑した様子で、言葉を探しているようだった。

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」

「白菊、須久奈の村の椿屋の、志月しづきを覚えてはいないかい?」

「……椿屋?」

 記憶が蘇る。

 大きな椿の樹があった家。村の中でも裕福な家。広い庭には大きな池があり、色鮮やかな錦鯉が泳いでいた。池の畔には赤と黒、二つの祠が建っていた。

 鋭く頭が痛み、一瞬、視界が歪む。

「白菊!?」

 ふらついた百を、志月が慌てて支える。

「大丈夫かい?」

「え? ええ、大丈夫。久しぶり、志月。ええと、何か用?」

「いや、その、水を一杯貰えないかな。実は朝から歩きどおしで、喉が渇いてしまった」

 見れば志月はひどく疲れた様子である。遠慮する彼を家に招じ入れ、濃いめに淹れた茶を出す。

 ぐいと一息に茶を飲み干して、志月が少し生色を取り戻す。

 椿屋――志月の生家は須久奈の村でも裕福な家で、彼はそこの長男だった。鬼には姓を名乗る習慣がないため、庭の椿の樹を理由に、村人達は彼の家を椿屋と呼び習わしていた。

 幼い頃、病がちで寝ていることが多かった百と、外で遊ぶよりも家の中で草子などを読むことを好んでいた志月は、そうしょっちゅう顔を合わせていたわけではないように思える。

 しかし百は、退屈しのぎに草子を借りに行くことが何度もあり、同じ年頃の子供らの中では、おそらく最も志月とは仲が良かっただろう。

「生き返るなあ、ありがとう。それにしても、ここで君と会うとは思わなかった。白菊、これまではどうしていたんだい?」

「その名はちょっとくすぐったい。今では“始末屋の百”で通っているのだし」

「始末屋? 君が?」

 照れくさそうな百に、志月は、はっと一瞬顔を強張らせた。

「信じられない? まあ、昔はしょっちゅう寝込んでいたものね」

「うん。紅菊ならまだ分かるのだけどね。ああ、そうだ、その紅菊なのだけど、生きているのは知っているかい?」

「うん、今年の頭に会ったから。志月はどうしてそれを?」

「実は六、七年前だったかな、あの水害のあとから、津地村の親戚の家に住んでいたんだけど、そこで人手が足りなくなって、奉公人を探していたんだ。そこへ口入れ屋に紹介されたって、紅菊が訪ねてきたんだ。向こうも驚いたらしいけど、僕も驚いたよ」

「その――」

 言いかけて、百は口をつぐんだ。その後、紅菊はどうしたのか、という問いは、喉元につかの間留まって消える。

「その時期なら、富田村に住んでいたからね」

「富田村に?」

 同じ皇領ではあるが、領外に近い津地村と将領寄りの富田村は距離が離れている。会うことがなかったのも不思議ではない。

「ここに住みだしたのはもう少し後……四年くらい前だったかな」

「それで……それから……始末屋を?」

 なぜだか志月の歯切れが悪い。

「そう。助けてくれた人が始末屋だったから、それでね」

「そう、だったのか」

 志月は俯いて視線をそらし、邪魔をしたね、と立ち上がる。

「急ぐから、僕はこれで。白菊、元気で」

 ざわりと胸が騒ぐ。嫌な予感がした。

 とっさに手を伸ばし、志月の腕を掴む。

「白菊?」

「志月、もし何か、困っていることがあるなら、いつでもここに来て」

「……覚えておくよ」

 顔をひきつらせ、ようやく笑顔を作り、志月は急ぎ足で去っていった。その姿が、みるみる遠くなっていく。

 知らず、百の眉間には深々と皺が寄っていた。

 志月は何か、悩んでいるのだろうか。思い返せば始末屋に反応していたようにも思われる。

 何か、始末屋の手が必要なことが起こっているのだろうか。無理にでも引き止めて聞くべきだっただろうか、などと考えているうちに、志月の姿は見えなくなっていた。


 夜、蘇芳と同心・田中裕二郎は、裕二郎の受け持ちの上六町から中六町、下六町にかけてを見回っていた。

 二日前の夜、皇領の津地村で事件が起こった。とある大店で寄宿していた青年が乱心、家人と奉公人に怪我を負わせ逃走したという。

 それだけなら事件は皇領の話だ。将領に関わりはない。

 しかしその男は、どうやら将領に逃げたらしい。そうなると話は別で、ことに乱心者であり、何をするか分からぬゆえ、疾く探し出せと、奉行・長谷部平内は与力、同心の他、密偵達にも招集をかけ、命を下したのである。

 今ひとつ、急がなければならない理由は、その男が鬼であるからだ。人よりも膂力りょりょく、胆力に優れる鬼が乱心したとなれば、その被害は推して知るべしである。

(志月が……)

 平内から話を聞いても、その男――志月が乱心したとは、蘇芳にはにわかに信じられないことであった。

 志月は温厚篤実を地で行くような男で、蘇芳は幼い頃も、奉公していたときも、志月が声を荒げるところは、一度も見たことがなかった。

「ん?」

 裕二郎が前方の闇に目を据える。


 おにさんおにさんどこへいく

 おにさんこちら こえきくほうへ


 童謡だろうか、歌う声が聞こえた。


 おのこならば めのこをかくせ

 めのこならば おのこをかくせ


(この声……)

 聞き覚えのある声だった。

「お、おい、止まれ。何者だ」

 裕二郎の持つ提灯に照らし出されたのは、振り分け髪の童子であった。赤い羽根の耳飾り、白い帯を締めた、袖のない黒い貫頭衣。青黒い首巻。

 白目の黒い、紫の眼を少し細め、童子は首を煽ってまず裕二郎を見、それから蘇芳を見る。

 ぱっと童子の顔が輝いた。

「べに!」

 面食らった蘇芳が頓狂な声を上げ、裕二郎の詰問の矛先が蘇芳へ向かう。

「お前、知り合いか?」

「ええと……」

 この子供は確かに知っている。だがどう説明すれば、裕二郎に分かってもらえるのだろうか。

 これが尾上右京や胡堂といった同心なら、蘇芳も特別悩むことはないのだが、どうにも密偵に対して当たりの強い裕二郎が相手では、説明にも手こずるのである。

「べに、はくはいないの?」

 はく、とは蘇芳の姉、百の幼い頃の渾名だった。

「おい、子供! お前はどこの誰だ、名を言え!」

 居丈高に詰め寄った裕二郎が、短く悲鳴を上げて一歩後へ飛び退った。

 童子が巻いていた首巻が、ぬっと頭を持ち上げたのである。

 首巻ではない。青黒い蛇である。提灯の火で、鱗がてらりと光る。

「な、何だお前は!? と、とにかく番屋へ来い!」

 声を上ずらせ、細い腕を掴んだ裕二郎へ、童子はようやく顔を向けた。

「や」

 顔をしかめ、裕二郎の腕を振り払う。唖然として童子を見、怒鳴ろうとした裕二郎を制し、蘇芳は童子と眼を合わせるようにかがみこんだ。

「夜鳥、こんな夜中に、どこに行くの?」

「しづき、さがしてる」

 それを聞いた裕二郎がいきり立ち、その場で童子に詰め寄ろうとするのをどうにか止めて、蘇芳は近くの番屋へ童子を連れて行くことを承知させた。

 番屋に入るなり、興奮で顔を赤くした裕二郎は、噛みつかんばかりに童子を問い詰めにかかった。

「お前は何という名だ」

「やとり」

「どこから来た」

「つち、むら」

「志月とはどういう関係だ」

「かんけい?」

「志月はお前の何だ、と聞いている!」

 童子がしかめ面を作り、唇を引き結ぶ。無理もない。裕二郎の問いは傍から見ても詰問である。

「田中様、そのようにきつく仰っては、何も言えなくなりましょう。夜鳥、どうして志月を探してるの?」

「からとりが、しづきをこわそうとしてる。だからはやく、さがさなきゃいけないの」

「空鳥が?」

「うん。からとりは、よくないものになっちゃってるの。だからはやく、しづきをさがさなくちゃ」

「ふざけるな!」

 裕二郎が怒鳴る。むっとした顔で、童子は裕二郎を見返した。

「そんな言葉を信用すると思うのか! 俺は奉行所の同心だ、御上を愚弄するというなら、子供でも容赦はせんぞ!」

「田中様、そのような……」

「どうした、田中。表まで怒鳴り声が聞こえていたぞ。夜中にそんな大声を出すものじゃない」

 着流しに脇差を落し差しにした、浪人と見える格好の胡堂が顔を出した。その奥に、尾上右京の姿もちらりと見えた。

「何です、ここはあなたの受け持ちじゃないでしょう!」

「今日は非番だったのでな。ほら、この近くの〔大和屋〕が評判だろう。そこに右京と飯を食いに行っていたんだよ」

 〔大和屋〕は最近このあたりで評判になっている料理屋である。主人が皇領の一流の料亭で修行を積んだとかで、何かと珍しいものを出すらしい。

 胡堂が童子に目を留め、眉をひそめる。

「何かあったのか?」

 蘇芳から話を聞き、ふむ、と胡堂が腕を組む。

「そういうことなら蘇芳、お前の姉に相談するのが早いのではないか?」

「相手は乱心者だ、始末屋風情が口を出すことではなかろう!」

「いや、しかし……」

 胡堂が何か言いかけ、はっと顔を強張らせ、外に飛び出す。

 外に出た瞬間、胡堂の眼前を銀色の物がさっと過ぎた。

「どうし――」

 白い影が横切る。その影が矢のように、対峙する尾上右京へと向かっていく。

 右京の持つ刀は、中ほどからへし折れていた。

 胡堂はとっさに差添えの小柄を抜くと、それを影に向かって投げつけた。

 影に刺さる寸前、小柄が跳ねあげられる。影が胡堂の方を向いた。

 大きく歪んだ顔。うねる白髪の間から、角が伸びている。裂けんばかりに見開かれた目は赤く血走り、くわっと開いた口から牙が覗く。

「志月……」

「あいつが!? とにかく離れろ、下手すりゃ死ぬぞ!」

 脇差を抜いた胡堂へ、志月がすっと間合いを詰める。

(速い……!)

 爪の一閃を、かろうじて脇差で受け止める。ほんの僅か、動作が遅れれば首が飛んでもおかしくはない。

 ぐう、と胡堂の腕の筋肉が膨らむ。渾身の力で爪を跳ね上げたところで、ぴたりと志月の動きが止まった。

 童子が外に出ていた。紫の眼が、異様なほどの鋭さで、志月を威圧する。

「しづきをかえして、からとり」

 志月がぎろりと童子を睨みすえる。

 一歩、童子が足を踏み出す。志月が喉の奥で、低い唸り声を立てた。

 さらに一歩、童子が志月に近付く。

 と、志月は慄くように後退ったかと思うと、彼は番屋の屋根へと怪鳥けちょうの如く飛び上がり、ほとんど足音も立てずに駆け去っていった。

 すかさず童子も屋根に飛び上がって後を追い、その姿は夜の闇に紛れて見えなくなった。

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