三、暗夜の礫は防ぎがたきこと

 翌日、早朝に家を出た百が訪れたのは、富田村の大槻道場であった。

「久しく無音ぶいんのままにて、失礼いたしました」

 柄樽の酒と風呂敷包みを手にやってきた百に、道場は少しざわめいたが、左内は笑んで百を招き入れた。

「久しぶりに打ちあってみるか」

 高弟の相馬巽そうまたつみに声をかけられ、百は左内に目をむけた。

 左内がうなずくのを見、百は手早くたすきをかけ、

「一手、お願いいたします」

 一礼し、木刀を手にとった。

 互いに木刀を正眼にかまえ、睨みあうのを門人たちが固唾を呑んで見守っている。

 相馬巽は磯崎要と並んで大槻道場の〔竜虎〕、あるいは〔双璧〕といわれる剣の使い手である。百もまた、先には二人に加えて〔三羽烏〕と呼ばれたほどの腕であった。

 ともに打ちこむ隙を見いだせず、しばらく対峙したのち、二人はほとんど同時に気合声を放って打ちこんだ。

 百の木刀が巽の小手を叩き、巽の木刀が百の胴を打つ。

 それまで、と左内の声が飛んだ。

「ありがとうございました」

 木刀を引いて頭を下げる。

 午前の稽古が終わった後、百のもとに一人の門人が近寄ってきた。

「百殿……」

「和馬様、どうなさいました?」

「実は、少々お尋ねしたき儀があるのですが……」

「どのようなことでございます?」

 周囲に目を走らせ、和馬は百を招いて外に出た。

 富田村には柚羅川の支流である小谷川が流れており、その川沿いには船宿が何軒か建っている。そのうちの一軒〔菱や〕の二階へ、和馬は百を誘った。

 女中が酒肴をととのえたのち、和馬は女中を去らせ、百の顔をすがるように見た。

「百殿、近ごろ、兄と会われませんでしたか」

「要様と?」

「はい」

「……要様に、何ぞ変事でもございましたのか?」

「いや、それは……」

「和馬様」

 ずい、と、百が真剣な顔でひと膝ゆすりだす。

「要様に何ぞあったということなら、どうぞ、お話しいただけませんか。決して口外はいたしません。御存知の通り、要様には幼いころから御身内同然に親しくしていただきましたゆえ、何かあったのなら、お力になりとうございます」

「……では、百殿を信用して申し上げます。実は、兄が行き方知れずになったようで……」

「どういうことでございます?」

「はい、このひと月、どうも兄の様子がおかしく、稽古にも身が入らぬようだったのですが、あれは三日ほど前でございました。兄が稽古を午前中で切り上げて、帰ってしまったのです。その日の夜に、母が、珍しい魚が手に入ったゆえ、夕餉には兄も呼ぶようにと下男を遣いに出したのですが、そのときには、兄は家にいなかったようで、一昨日、昨日と家を訪ねてみたのですが、帰ってきた様子もなく、近所の者に聞いても三日ほど戻っていないということですから、私も母も、もしや何かあったのではないかと案じているのです。心当たりを探すとはいっても、御存知の通り剣術一筋の兄がまさか、岡場所で女遊びなどはしないでしょうし、もしや百殿は、何か知ってはおられないかと思いまして」

 百は黙ったまま、鋭く和馬の顔色をうかがっていた。

「確かに三日前、要様はうちへお越しになりましたが、すぐにお帰りになりました。あのご様子では、果し合いでも受けられたのではございますまいか」

 和馬の顔色が、藍をなすったようになった。

「もしそうなら……兄が戻らぬのは……」

 和馬が絶句する。その様子に嘘や演技はない、と百は見た。

「和馬様。いささか不躾な問いで恐縮ですが、お家のうちでは今、ご当主様が要様と和馬様、どちらに家督を譲られるかと、噂になっているようでございますな。和馬様は、どうお考えなのでございますか?」

「は? いえ、私は……兄は、家督は継がぬと日ごろから申しておりましたゆえ、私が継ぐことになるのであろうと思っておりましたが……」

「では、今ひとつ。こちらの箱に、見覚えはございませんか」

 さっと風呂敷を解き、和馬の前に突き出したのは、あのからくり仕掛けの手箱である。

 しかし和馬はきょとんとしたまま、箱と白とを見比べていた。

「見事な細工の箱ではありますが……これがどうかしたのですか?」

「いえ、見覚えがないならば結構です。……それと和馬様、お許しくださいませ。先ほどは嘘を申し上げました。要様は三日前に私を訪ねてこられまして、今は、私の知りあいのところにおいでです。要様はご無事です。ご案じなさいますな」

「まことで?」

「無論です。ところで和馬様、お屋敷に惣七という下男はおりませんか」

「はあ、おりますが……何か用があるのですか?」

「ええ、今、会えましょうか。少し聞きたいことがありますので、どうでしょう、連れてきてはいただけませんか」

「ふむ……しばしお待ちください」

 一旦船宿を出ていった和馬は、しばらくして、五十代の小柄な男を伴って戻ってきた。

「この者ですか?」

 はい、と和馬がうなずく。

「和馬様、申し訳ございませんが、少し外していただけませぬか」

「いや、私にも聞かせてもらいたい」

「何を聞いても、黙っていてくださいますか?」

 和馬がうなずくのを見、ひとつ息を吐いて、百は惣七に向き直った。

「始末屋の百といいます。ひと月前、これを要様に届けたのは、そなたではありませぬか?」

 穏やかな声音で問いながら、さっと例の手箱を惣七の鼻先にさしつける。

 覚えのある箱に、惣七がぎくりとなる。

「これを預かってから、異変が続いたと要様から伺いましてな、中をあらためたのですが、到底、後生大事にするべきとは思えぬものが入っておりました」

 すい、と、百の目が細くなる。口元は笑みの形につくっているが、墨色の目は冷え冷えとした光を宿して惣七を射すくめる。

「間違えば命に関わるようなものを届けさせたのは、誰でございます?」

 惣七は頑固に黙っていた。その様子を見、百の目の光が少しやわらぐ。

「なるほど、そなたにとっては忠義立てするご主人なのでしょう。それは察します。それでは口で言わず、うなずくだけでよろしい。厭魅えんみのためにこの箱を要様に贈りましたのは、磯崎のご隠居様でしょうな?」

 はっと和馬の顔がこわばる。青くなった惣七は、再び氷のようになった百の目に射られて、がたがた震えていたが、間もなくひとつうなずいた。

「それが分かればもうよろしい。忙しいところを邪魔して、失礼いたしました。もう引きとってくだすって結構です」

 惣七は、出がけにじろりと百を睨み、

「夜道にはご注意なせえよ」

 低く呟くように言い捨てて、倉皇として出ていった。

「百殿、今言われたことは……いや、まこと、なのでしょうな」

「ですから外してくださいと申しましたのに。それはそれとして、何ぞ、心当たりでも?」

「ご存知かとは思いますが、祖母は昔から兄を疎んじておりまして……あのような者がいてはいずれ家名にも傷がつく、などと申していたこともありました」

「それ以上は申されますな。和馬様、このさいですからお頼み申したいのですが、どうにかご隠居様にお会いできませんか」

「む……しばし、時をいただけますか」

「承知いたしました。私は将領の西澤淵に住んでおりますゆえ、お手数ですが、そこまでお知らせくださいませ」

 勘定を払って、百は船宿を出た。

 その後、細々とした用をすませたり、奉行の長谷部平内からの呼び出しをうけて、奉行所に出頭したりしていたので、百が家に帰ったときには、もう日が暮れていた。

 ぽつぽつと、大粒の雨が落ちてくる。

(桜が散ってしまうな)

 勝手口へ歩く百の足が、不意にぴたりと止まる。

 そのとき、だっと彼女の眼前に飛び出してきた人影が二つ、それぞれ用意していたと思しき龕灯がんどうの灯を、百の顔にむかってさしつけた。

「何者か!」

 飛び退る間もあらばこそ、入口の戸を蹴倒しざまに、研ぎ澄まされた槍の穂先が、百をめがけて突きだされた。

 にわかに雨勢強まり、雷鳴がとどろく。

 稲光に、曲者の姿が浮かび上がる。

 覆面をつけた、大柄な男であった。

 とっさに身をひねったが、槍の穂先は百の左肩を貫いた。

 突かれて倒れると同時、曲者が雷光に目がくらんだ隙に、腰の脇差を抜いた百は、再度、左胸を狙ってくりだされた穂先を払い、太刀の負い紐を解いて半身を起こした。

 後ろ手に太刀をつかみ、半身を起こした勢いで前にのめって、曲者の足を斬りつける。

 曲者が怯んだその一瞬で、縁の下に転げこんだ百は、脇差をそこへ置き、太刀を抜いて、槍を持った曲者の眼前へ飛びだした。

 虚を突かれた曲者へ向けて百の太刀がひらめき、袈裟懸けに斬り捨てられた曲者が地へ伏せる。

 残りはいかにも無頼とみえる浪人が六人、いずれも白刃を手に、ひしひしと百を押しつつむ。

 大勢を向こうに回してひとりで戦う場合、広い場所ではなく、一度に斬りかかられぬよう、狭い場所に入って一人ひとりを相手にするのが定石である。

 しかしあたりにちょうどいい場所はない。屋内に逃げこむことも一瞬考えたが、逆に退路を絶たれてしまう恐れがある。

 息を弾ませながらも、百はきりりと唇を上げた。無理にも笑い、余裕があると己に思わせれば、それだけでも精神にゆとりが出てくる。

 大胆に前に飛び出して左端の一人に肉薄し、その胴を斬りはらい、即座に身を転じて横からの突きをかわす。

 そのまま相手と向かい合い、下から刀をはねあげる。

 振り上げられた太刀の切っ先が、曲者の横面をざっくり斬った。

 そのとき、左側面にまわりこんだ浪人の、意外に鋭い太刀筋が、百の横腹を裂いた。

 肩からの出血もあり、その衝撃でよろめいたところに重ねて、足元のぬかるみに草履が大きく滑った。

(あ……)

 泥濘に膝をつく。

 すでに百の首を取ったものと合点して、浪人が刀を振り上げる。

 このとき遅くかのとき早く、空を飛んできた脇差が、その浪人の背に深々と突き立った。

 絶叫をあげた浪人が、泥の中へ倒れ伏した。

 その場の全員がぎょっとなったところへ、笠を被った人影が走りこんできた。

「うぬ、何者!」

「構うな、切り捨てろ!」

 四方から飛ぶ声に耳を貸さず、襲いかかってきた別の一人を手もなく斬り捨てたその人影が、また走った稲光の中に浮かび上がる。

 かすみかかった目に、要の姿が映る。

「女一人に大の男が大勢とはな。貴様ら、今度は俺が相手だ。死にたいやつからかかってこい!」

 呆然としている百をかばい、精悍な顔に怒気をのぼせつつ、要が笠をかなぐり捨てた。

 同時に浪人たちの後ろから、数人の男が飛びだしてきた。同心・胡堂と、彼の率いる奉行所の捕り手たちである。

 泡を食って逃げだそうとする浪人は捕らえられ、百や要に斬りかかった浪人は斬り伏せられ、たちまち乱闘となった。

 残る曲者が捕らえられてしまうと、要は百を家へ担ぎこみ、傷の手当をしてくれた。

 肩と横腹のほか、百は乱闘のさなかに、一、二ヶ所の手傷を負っていたのである。

 一人に医者を呼びにやらせ、残りの小者たちに指図して浪人を奉行所へ送り、死骸も奉行所へ運ぶべく、指示を出した胡堂が後に残る。

 その間に、覆面の曲者の面体をあらためる。三十余りの、どこかの中間らしい風体の男であった。

 どこかで見た風体だと、百が眉をひそめる横で、要がはっと息を呑む。

「もしや、ご存知の者でございますか?」

 相手が武家の者だと聞いては、胡堂も自然丁寧な物腰になる。

「別邸にいた中間ちゅうげんのひとりによく似ている。なにゆえここに来たかは分からぬが」

 ふむ、と胡堂が腕を組む。

「いや、それは他人の空似というものでしょう。こやつは無頼の浪人者、お屋敷と関係はございますまい」

 目配せした胡堂の意を察し、そうだな、と要が頷く。

「助かりました。ありがとうございます」

「なに、こちらもこれで先の恩が返せたというものだ」

 呼ばれた医者の治療を受け、横になった百が礼を述べると、胡堂は、にっと笑って答える。

「しかし、なぜ……」

「なぜこうして駆けつけてきたか、と言うのか? 昨日、お前が寺から帰るときに、妙な奴がお前の後をつけていくのを見たものでな。どうも嫌な予感がしたので駆けつけてみると、あの斬りあいが起きていた、というわけだ」

「俺の方は蘇芳から、妙な奴らがこの家を見張っているらしいと聞いたのと、あやつらには、別口で前から目をつけていたので、また何かやらかすらしいと張っていたのだ。いやしかし、先回りをしていた奴らが二人もいたとは気付かなかった。すまない」

「いえ、私も不覚をとりまして……」

「何か、心当たりはあるかい?」

「さて……始末屋でもあり、剣客でもありますゆえ、多くの恨みを買っておりましょう」

「そうか。また何か聞き合わせに来ることもあるだろうが、まあ養生しろよ」

 死骸を小者が持ってきた戸板に乗せて胡堂が去り、百はほっと息を吐いた。その姿が消えてから、要がぼそりと呟く。

「……俺の責だな。あの覆面の者、山本俊介だ」

 名を聞いて、百もようやく思い出した。大恵村の別邸に詰めている中間で、槍の使い手であったと覚えている。彼ならば、誰かの意を受けて襲撃に来てもおかしくはない。

「要様。それは違いましょう。かような逆恨み、するほうが筋違いというものでございます。ときにご依頼の件ですが――」

「いや、今は休め。それ以上しゃべるな」

 要の有無を言わせぬ厳しい口調に、百は素直に目を閉じた。

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