第3章 桐葉が溢れて止まらない

第1話 朧げな記憶

「桐ちゃん……。みんなのことを幸せにするすごい人になってね。桐ちゃんは抜けてる部分も多いけど、お父さんみたいに努力ができる子だから。絶対に大丈夫。立派な大人になって、いつかお母さんをびっくりさせて…………」



 夕焼けの中で、お母さんは私にそう言った。真っ赤に染まった空、信号待ちをする大勢の人混み。この光景を見るのは、何百回目なんだろう。ここの雰囲気は頭の中にとても強く焼き付けられて、私は何年も夢に見ている。……でも、最近は少しずつぼやけて、鮮明じゃなくなってきた。おそらくあと何年かしたら、あの時のお母さんの笑顔すらも思い出せなくなるんだろう。そう考えてるうちに瞼の裏の色彩は無くなって、真っ白に染まっていく。そして気が付くと、私の前には白衣を着た女の人の顔があった。



「目が開いたわね……。一条桐葉さん、聞こえますか? できるようなら返事をしてください」


「ここは……、どこですか? 私はなんでベッドに寝て………?」


「一条さんは、教室で倒れたんですよ。意識が戻らなかったから、とりあえず保健室で寝かせていたんです。意識を失ってからもずっとうなされていたし……。もし体調が戻らないなら、救急車を呼びましょうか?」


「大丈夫です。私、今日お弁当忘れちゃって、それでお腹が空いて少しフラッとしただけなので……。なので、もう帰りますね。迷惑かけてごめんなさい。それじゃあ、失礼します………」


 保健室の先生が心配そうに見守るのをよそに、私はベッドからふらつきながら立ち上がって、横に置かれたバッグを手に取る。その瞬間、私の身体は重力に強く引き寄せられて、自分の意志とは反対に頭から崩れ落ちようとしていた。


「一条さん! 一条さん、しっかりして! 早く……、救急車を……。救急車を呼ばないと…………」


 先生は慌てた様子で私の方に目を見開きながら、なんとか胸の中で抱き締める。白衣の下には、少し温かいシャツが隠れていて、それが私のほっぺたにくっついた。


 あったかい。それでいて、なんか落ち着く。そっか……、お母さんにもよくこうやって抱きしめられてたっけ。懐かしいなあ。この感覚のままいれるなら、意識がなくなるのもいいのかもしれない。


 私はふんわりとした幸福に包まれている気分になりながら、少しずつ意識を手放していく。でもあと少しで完全に自分が消える前に、なぜか幸せな気持ちは消え去って、冷たい事実を完全に認識してしまった。


 ……違う。これはただ、私が無理矢理曖昧な記憶を呼び起こそうとしてるだけだ。ずっと、ただ側で甘えていたいだけの子供染みた妄想。そう、私はあの日から何も成長しちゃいないんだ。


 こんなダメな私なんて、この世界には必要ない。本当の私は、誰も幸せになんてできないから。だから……、いらない………。


 再び精神の暗闇へと落ちていきながら、私はまたあの世界へ戻ろうと目を瞑る。またお母さんと会って話をするために、現実から長い夢に逃げよう。でもこんな惨めな子になって、お母さんは怒らないのかな。……まただ。また自分の都合の良いように、認識を捻じ曲げている。本当に……、私はどうしようもない子だ。




 お母さんは、もう死んだっていうのに。



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