第68話 ある少女について

「今から約二十年前の春。一人の少年がある悩みを抱えていた。そしてその悩みは、孤独が少しずつ積み重なってできたごくありふれたものだった。しかし彼は自分を特別な存在であると見誤り、そのありふれた悩みさえも解決不可能な難題のように感じるようになったんだ」


 昴弥さんは、遠い他人のことを語るように自身の過去を明かし始める。もはやそうでもしないと、後悔と自責の念で押しつぶされてしまうのだろう。自分には何の経験もないのに、俺はなぜか昴弥さんの気持ちが手に取るように分かる気がした。


「その時自力で悩みを解決していれば、ごく普通の真っ当な人生を歩めたんだろう。だがそこで彼は手を抜き、いや……、自分から問題に踏み出す勇気を出せずに他人の力にすがった。利己的な願いは多くの人に迷惑と混乱を与えるということも分からず、自分のことばかり考え続けた結果、少年はある少女と出会うことになった………」


 ここで、昴弥さんはまた一息ついて、右手で両目を覆った。そこから、しばらく俺は震える綺麗な手に釘付けになっていた。感情を半ば共有したような状態だからか、ここから先に進むことへの恐怖も十分に理解できる。しかしそれでも昴弥さんは次の言葉を捻り出そうと、なんとか目から手を引き離した。


「少女は、光と共に少年の前に姿を現した。彼の心に秘めた願いに寄り添って、それを叶えると約束しつつ、その代わりに一つの条件を提示した。そしてそれこそが、ラブコメの主人公として高校生活を過ごすというものだった…………」


 昴弥さんは再びの区切りに軽くため息をついて、また右手を動かそうとしたがそれを静止するように両手を膝の上で組んだ。それと同時に、車に打ち付ける雨の音は鈍く重いものになっていく。


 こんな重苦しい空間に居続ければ、数分のうちに心を病んでしまうかもしれない。まだ話の核には少ししか触れていないにも関わらず、俺はこの場から抜け出したくなっていた。そしてそんな気持ちを察したのか、車は急激に速度を落として、ぬかるんだ山道の傍に停止する。唐突な停車に少し動揺していると、運転席から銀色の髪が揺れ、鋭い眼光が現れた。


「お話のところ申し訳ございませんが、目的地に到着いたしました。昴弥様、天候は非常に悪いですが、本当にお二人のみで大丈夫ですか?」


「ああ、大丈夫だ。付き添いはいらないよ。俺達が帰ってくるまで、ここで待機していてくれ」


「分かりました……。どうか、ご無事で……」


 運転手の心配そうな表情に、昴弥さんは余裕を取り戻したかのような笑顔で応える。しかし俺に視線を向ける頃には、その笑顔はすでに曇ってしまった。途端に胸の内は騒がしくなり、不安な気持ちは増幅していく。そしてそれを抑える時間もなく扉は開け放たれ、目の前の景色は暗い雨に包まれた。


「さあ、俊君。前置きはこれくらいにしておいて、ここからは君にも実際に体験してもらうことにしよう。今から行くのは、少年が不思議な少女と出会った社。いわゆる始まりの場所というやつだ…………」


 元気なく呟く目の前の男には、もはや一切の光はない。この世界の核心に触れることの重大さと深刻さは、これまでに経験した苦痛よりも既に恐ろしく感じた。しかしその時、恐怖を超える強い感情がなぜか体の奥から湧き上がってきた。



 だが、それでも行かなければいけない。この世界の真相を突き止めて、俺と同じように苦しむ人を助けなければいけないのだ。



 今まで感じたことのない強い使命感が、全身を巡って一歩先へと進ませる。恐怖に抗える理由が自分でも分からないまま、俺は始まりの場所に足を踏み入れた。

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