第54話 特別な夕方

 目覚めるとそこには空が広がり、なぜか波の音が聞こえた。……ここは一体どこなんだ? 今までの逆行とは違う感覚に違和感を覚える。目を擦りながらゆっくりと起き上がると、夕焼けに染まった海の前で、遥が倒れているのが見えた。


「私は……、ずっと一緒に……、それだけ……、なの………」


 涙を流しながら、前にも聞いたことがあるような寝言を呟く少女。しかし、今回はその言葉の意味を理解できる。


「……俺が知らないところで、お前はまた一人で苦しんでたのか?」


 砂浜を歩いて、足音を立てないようにゆっくりと近づくと俺は遥の左目を拭う。遥は仰向けになって静かに眠っているように見えるが、微かに動く眉間からまだ彼女は悪夢の中にいることを再確認した。


「起こすのは、まだいいか………」


 俺は遥の顔に夕陽が差さないように、そっと海の方角を向いて腰を下ろす。さて……、これからどうするか。オレンジ色に染まった静かな水平線を見つめながら俺は頭を整理する。



 今までとは比べ物にならないほど長い時間をあの光の中で過ごし、揺れ動く遥の気持ちに直接触れた。それは遥にとってどれほど勇気がいることだったのか。知ったつもりでいたはずの彼女の気持ちは想像もできないほど複雑で、難しい。


 ……俺はどうすればいいんだ。彼女から向けられた強い感情は、心臓を深く突き刺してくる。新城早希という好意の対象を持つ俺にとって遥の想いに応える自信は無かった。



 苦しみの時間はゆっくりと流れるだけで、いつもはすぐに沈むはずの夕日もオレンジのまま輝き続けている。


 どうせならいつまでも時が流れなければいいのに。


 逆行の前の威勢と裏腹に、頭を掻きむしりながら俺はすっかり弱気になっていた。しかしそんな馬鹿な願いを粉々にするように、視界を日の温もりと微かな震えが伴った肌色が包み込んでいた。


「……だーれだ。俊の後ろにいる人はいったい誰でしょうか?」


「………遥。俺はどうしたらいいんだ? 分からない。俺はお前になにをしてあげられるんだろうって……、ずっと考えてたんだ」


 遥の元気な声にも合わせられず、俺は彼女の手の中で本音を漏らす。それと同時に流れ出た涙はすぐに目の前の手の中に染み入った。


「やっぱり、俊も見えてたんだね。私の心の中を一緒に覗いてたなんて。なんか……、恥ずかしい………」


「………………」


「俊、私ね……。こうなることは分かってたの。貴方は優しいからきっと自分を責めて傷つくって思ってた。だから私は、ずっと自分の中の世界に本当の気持ちを隠してたのよ」


 耳元で囁く遥の声はさざ波のように静かに押し寄せてくる。目を覆う両手には更に力が込められて、ぼんやりと見えていた外の光も完全に消える。俺はただ彼女の言葉だけに意識を傾けるしかなかった。


「でもね……、気にしなくてもいいの。俊が早希さんのことを想う気持ちは私にもよく分かるから……。だから、だからね………」


 そこで視界は開かれて、再び差し込んだ夕日に俺は目を眩まされる。光の余韻が消えた後、目の前には遥がとびきりの笑顔を見せていた。


「今日だけは、本当の私と付き合って。特別なことはしなくても、ただ一緒に楽しんでくれるだけでいいからお願い。……ね?」


 光の中で葛藤し続けた遥は、密かな苦労を感じさせない笑顔のままで優しく手を差し出す。後悔は全部ここに置いていく。彼女のために、俺はこの瞬間を楽しもう。差し出された手を握り返すと、誰もいない海岸を二人で進み始める。特別な夕方はもう始まっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る