第36話 泊まらないの!?

「……これが、とりあえず新イベント会議直後までの私が体験したことよ。それで、新イベント会議が終わった後にね………」


 遥はとても緻密な言葉づかいで自身が体験した出来事を説明し続けていた。しかし、なぜか急に話が途切れた後、遥はしばらく様子を伺ったように黙り込んでしまった。


「遥……? その……、続きは……?」


「……しーーっ! ちょっと静かにしてて。あと数秒だけでいいから。ね? お願い」


 俺は遥に言われた通り、黙りこんで時間が過ぎるのを待つ。一秒、二秒……。女子の部屋で一言も喋らないと物凄く気まずい……。そして、遥は目で何かを伝えようとしているのかただ俺だけを見つめている。きりっとした表情で一点を見続ける遥の瞳は少し悔しそうに見えた。




「二人とも〜〜、そんなに長く黙っちゃってどうしたの? 部屋で二人きりなのに全く喋らないなんて気まずくない? ここは、回しが得意な霞さんの出番ね!!」


 沈黙をぶち壊すように激しい音と声を上げて霞さんは再び侵入していた。遥はまた深く眉間にしわを刻み、霞さんの両肩を掴む。


「………だから、何度言ったら分かるの!? 大切な用事なんだからいちいち邪魔しないでよ!」


「遥、違うの。誤解よ! もう20時半過ぎてたから俊君に帰らなくていいか聞きに来ただけ。邪魔なんてしようとしてないわ!」


 俺と遥は目線を上げて時計を確認する。霞さんが言う通り時刻は20時半をとっくに過ぎて、21時になろうとしていた。ヤバい、遥の話に引き込まれてすっかり遅くなってしまった。急がないと、桐葉に叱られる。俺は急いで荷物をまとめ始めた。


「え〜〜〜? 俊君、もう帰っちゃうの? こんな遅い時間なんだから泊まっていけばいいじゃない。というか、泊まっていきなさい! 今日は有休取って早めに帰ってるから準備はOKよ!」


「いや……、早く帰らないと妹が心配するので………」


「大丈夫、俊君の家族には私が伝えてあげるから! そんなことより今夜は楽しくなるわよ〜〜。私が腕を振るった旅館並みの夕食におろしたてのフカフカな布団、しかも抱き枕がわりにかわいい遥ちゃんが付いてくるなんて最高としかいいようがないわ!! さぁ、俊君。この天国を前にして帰るなんてもったいないわよ! 分かったら、ゆっくり温かいお湯にでも浸かっていきなさいっ!!」


 いつになくテンションの上がった霞さんは遥を押しのけ、両手を広げて扉を塞ぐ。どうやら、帰す気は全くないらしい。しかし俺は一刻も早くここから出なければいけない。どうやって抜け出すか……。そう考えていると、俺と霞さんの間にゆらゆらと力なく揺れながら遥が立っていた。


「ママ……、ありがとう。私と俊のことを思ってわざわざ仕事を休んでまで準備してくれたのね。本当に……、ありがとう………」


 遥は震えるような声を絞り出し、両手を広げて前へ向かっていく。そして娘が心からの感謝を伝えたことに霞さんも感動して目を潤める。二人は近づき、強く抱き合って親子の絆を確かめているように見えた。



 ……これは、マズい。遥が霞さんと結託すれば完全に帰宅できなくなってしまう。だがちょっと待て……、俺が家に帰らなければ桐葉に疑われて結局遥は損をする。だとすれば……。俺は真っ直ぐ前を見る。すると遥はゆっくりと後ろを振り返り、肩の上から目で合図を送っていた。


「今よ! 私が押さえてる間に早く家に帰りなさい!!」


「え……。遥、これは一体……。ママに感謝を伝えたいんじゃないの!?」


 遥は声を上げた瞬間に腕に力を入れて、霞さんの体を扉の前から引き剥がす。俺は声に押されるように走り出し、なんとか部屋からの脱出に成功した。


「遥、離して! 俊君が、帰っちゃう……。あああああああっ! 次来たら絶対に……、絶対に泊めさせてあげるんだから……。覚えてなさいっっ!!」


 もはや悪役のように歓迎の言葉を吐き捨てる霞さん。しばらくは……、ここに来ないようにしよう………。俺は泣きそうになりながら暗い階段を駆け降りていった。

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