第12話 天に向かって
それから一週間後。
その日ビンセントは気分がよく、タクシーに乗り、メアリーに会いに行こうと決めた。
このところ毎日のようにメアリーは会いに来てくれる。
――でも今日はこちらから行こう……待ってますと、電話で言ってくれた。そんな優しいメアリーにこれを持って、今日はこちらから会いに行こうと。
****
チェリーズ動物病院の裏庭で。
休診日、昼下がりの小さなテラスで二人は並んで椅子に座り、ゆっくり話をした。
「……いつも、ありがとうなメアリーさん。助けてもらってばかりで……」
涸れた声で礼を言うビンセント。
メアリーは精いっぱいの笑顔だった。
「……そんな、私急に思いつきで行ったりするんで、迷惑だったりしません?」
「ははは……そんなことはないさ。……絶対にない」
ビンセントの横顔をしばらく見つめ、メアリーは小さく息を吐いた。
何でも話してくれるビンセントから全てを聞き、祈る日々が続いた。
――せめて、それまで、私が支えになれたら……心の支えに。
「……私、またビンセントさんのパンが食べたいです」
ビンセントはメアリーに微笑み、頷いた。
空を見上げ、彼は言った。
「……神様はそこにいて見ていてくださる。全ては小さな事だ。気にしなくていいんだよ……」
「ビンセントさん……」
「自分にそう言い聞かせてきた」
メアリーはビンセントの目を見た後、同じように空を見上げた。
「メアリーさん私はね。天を目指す。天に向かって羽ばたく。そして辿り着いた先でまたパンを焼いて、それをあんたに届けよう……」
メアリーは肩を震わせ、溢れる涙を覆った。
ビンセントは膝の上の包みを痩せ細った手で握りしめる。
「メアリーさん、前に一度聞いたが……トムとアルフレッドのこと、本当に?」
「……え、ええ。もちろん。私の方で」
「そうか、いやぁ〜よかった。あの子たちもあんたを好いとる。私の可愛い息子たち、トムとアルフレッドのことをよろしく、お願いします……」
頭を下げ、ビンセントは包みをメアリーの手に。
「え? これは?」
「息子たちはよく食べる。あと、あの黒猫の手術代も。あんたはいらないと言ったが……また他の猫や犬たちにも同じようなことがあるだろう。助けてやってくれ」
「……これって」
重く、分厚い包み。
「少しばかりの蓄えと、土地を売った金だ。あんたにしか渡せない……」
****
九月二十二日の夜、ビンセントは夢を見た。
孤独な移民、十歳のビンセントはパン屋の主人に拾われた。
「俺も一人。お前も一人だ。仲良くやろうや」
気さくで優しい主人に恵まれた。
「ビニー。お前は真面目で腕も立つ。安心して任せられる」
やがて主人が亡くなり、店を継いだ。
気立てのいい女と結婚し、仕事も楽しかった。
子供には恵まれなかったが幸せだった。
その妻を交通事故で失くし、つらくて本当に死のうと思った。
アルフレッドのことも考えず、死に場所を探した。
だが、そこでトムと出会った。
生きたいと震えて叫ぶトムの小さな命に救われた……。
店の床にポツリとトムが座っている。
《どうしたトム。元気がないぞ》
《ぼく、寂しいんだ。お別れなんて》
《仕方ないだろ? 皆、いつかこの時が来るんだ》
アルフレッドもそばにいる。
《……アルフレッド。そういやお前もすっかり爺さんになったな。俺と同じだ》
《わたしはずっとあなたと居た。だからわたしもあなたと一緒に行きたい》
《はは、バカ言うな。お前にはトムがいる。そばにいてやってくれ》
《でもどうやって生きていけばいいのかわからない》
《心配するな。メアリーさんに頼んである。また新たな出会いもあるだろう……》
トムが言う。
《ビンセントさん、また会える?》
《ああ。お前たちとの縁。それは巡り巡ってる。必ず逢えるんだ》
アルフレッドが切なく見つめる。
《……忘れません。ずっと……》
《本当に感謝してる。俺も絶対忘れない。お前たちが大好きだから》
二匹の残像は光の粒となり、声も何もかも感じなくなった。
ビンセントは夢を見終わった。
六十五年の生涯を静かに閉じる。
天に向かって羽ばたく、夢は続く……。
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