第9話 変化の風

 巨大な鉄球が振り下ろされた。

 コンクリートの壁や天井が砕け散った。

 その年の五月、フリーホイール八の二番街の廃墟ビルが壊された。

 築四十年のトゥワイス・アパートも、肉屋も果物屋の建物も。

 オルソン・グループ建設会社の黒い重機によって。


 ちぎった豆腐のように瓦礫が散乱する。

 剥き出しになる鉄筋。水道管。配電盤。

 転がる便器。浴槽。流し台。

 汚れたタイルを踏み、黄ばんだガラスを割ってパワーショベルが動き回る。

 ダンプカーが怒ったように轟音と粉塵を上げ、行ったり来たりする。


 解体現場の囲いの外では老人が一日中見つめている。

 子供たちは機械の動きに見とれて黙っている。

 何かが破裂する音に通行人は驚き怯えている。

 広大な敷地に吹き荒ぶ変化の風が人々をあおってゆく……。



 街は変わってゆく。

 人の動きは流れを作り、変化をもたらす。

 その手は都合よく容赦なく、げ替える。

 廃屋も繁栄の影も新たなものに。

 思い出は風に吹かれ幻想の欠片となる。

 時代は変わってゆく……。



 ****



 七月、日曜日の午前九時。

 ビンセントはトムとアルフレッドを連れ、湖のほとりの公園に出かけた。

 木陰のベンチに腰を下ろし、湖の輝きを静かに見つめた。

 水筒に入れたコーヒーを口に含み頬杖をつき、ビンセントは黄昏たそがれた。

 彼の足元にいるアルフレッドも、ビンセントの横に座ったトムも、同じように黄昏れた。

 ふと、ビンセントは彼らと目が合う。

 その見つめるアルフレッドの潤んだ目とトムの透き通る瞳が美しく真っ直ぐで、健気だった。

 ビンセントは目尻に皺を寄せ微笑むと、また湖の輝きを見つめた。



 トムの耳がピンと立ち、アルフレッドの鼻がヒクヒク動いた。

 知っている誰かが来るのを教える。

「ん? どうした?」

 ビンセントは後ろを振り返った。

「ワン!」

 その呼び声に、歩いていた彼女ははっと手を振った。

「アルフレッド! ……ビンセントさん! おはようございます!」


 それはメアリー・チェリーズ。

 髪を束ね、ウォーキングウェアで笑顔が眩しかった。

 首に巻いたタオルで頬を拭い、彼女はビンセントの横へ近寄った。


「もちろんいるのね? はーい、トム」

「……ミャーオ」

「や、やあ、メアリーさん、いやー、健康的ですなぁ。さ、どうぞ座って」

 ビンセントは気恥ずかしそうに座り直した。

 メアリーはニコリとベンチに腰掛け、トムに顔を寄せた。

「おはようトム。さぁいらっしゃい」

「わあ、膝の上は暑いですよメアリーさん」

 と、ビンセントはトムの頭を撫でた。



「……あれからよく来るんですよあの黒猫ちゃん。親猫も一緒に。灰色がお母さんでしょうか。お父さんの黒猫が大きくて立派な体格で、なんかこう威厳があって格好いいんです」

「ほう……」

「その周りをあの子が元気に走り回るんです。……でも呼んでも近づいてはくれないんですけどね」

「んー、警戒しながらも……きっと礼が言いたいんですよ、あなたに。いやぁ、良かった」

「ふふふ……お礼ならトムとアルフレッドに。ね?」とメアリーは彼らに微笑んだ。



 あれから三ヶ月、メアリーはこの街に馴染み、ビンセントとも随分親しくなった。

 気になるのは、近頃ビンセントが店を休ませることが多くなったことだ。

 笑みを浮かべた彼の横顔をメアリーは窺う。


「お店……どうなるんですか?」

 しばらく彼は固まったが、また温かい目で答えた。

「ああ。もう潮時かな。閉めることになるかもしれん」

「え?」


 メアリーはビンセントの顔を覗き込んだ。

 木漏れ日に誤魔化されたその顔はかなりけていた。


「……商店街の皆とも何度も市に抗議したがな。もう諦めたよ。現市長とオルソン・エンタープライズの会長は旧知の仲らしい。ガッチリ手を組んでいる。相手がデカ過ぎるよ。市営アパートの住人も五番地に移される。花屋も金物屋も身を引く。結局最後は私だけになってしまった。……うん。もう諦めた。これ以上はどうにもならん」

「そんな……。じゃあ、ビンセントさんも別の場所に?」

「……うむ。それはまだな」


 メアリーは顔を塞ぎ、目頭を押さえた。そして、

「ビンセントさん。私が初めてお店に入った日のこと、覚えてます?」

「……? あ……ああ、覚えているさ。トムのことをたずねたろ?」

「ええ。……で、店を出た後、私はある男とバッタリ出くわした。その男と話をしていたの、見てました?」

「いや……確かパンを焼いていたのでな」

「ニック・オルソン。店に来たはずです」

 ビンセントは目を見開いた。

「彼は……私の元、夫です」

 真顔でメアリーを見返すビンセント。

「……何だと? それは本当か?」

 メアリーはコクリと頷き、続けた。


「……彼はわかっていたくせに、動物の臭いがどうしてもダメだ。お前は俺より畜生どもを愛しているんだ……と。それで大ゲンカ。半年で別れました。三年前の話です」

 トムとアルフレッドもメアリーを見つめていた。

 ――気持ちがわかるか? と、ビンセントは二匹を撫で、笑い飛ばすように言った。


「あーんな奴! 別れて正解だ! 高慢チキでパンが嫌いな奴なんて許せん!」

「……え?」

「パンは嫌いだって言ったんだ、あいつは。そんな奴は許せん、パンは幸せの象徴だ! あんな奴は人間じゃなーい!」とえた声で言うビンセントに、メアリーは思わず吹き出した。

 そんなメアリーにビンセントも笑った。

「ふふ。ビンセントさんはもっと怒ってるものだと」


 彼はまた遠くを見つめた。そして一つ、深く息を吐く。

「八の二番街があんなになって、そりゃあ怒り、嘆き悲しんでるさ。でも、仕方がないんだ。あいつが言うように、フリーホイールには華がない。若者のほとんどは都会へ出る。過疎化の一途を辿ってる。死んだような町になるより、ここらで新たな息吹を受け入れた方がいい」

「そんな、私はこの町と街並みが好きです。古くてもいいものはいい。慎ましくて、人も優しいし……」

「いや。街も人と一緒だ。走ってなきゃならん。生きてなきゃ、誰も見向きもせんのだ」

 ビンセントは潤んだ目で言った。

「メアリーさん。初めから何も無いと思えばいい。更地になったあの場所を見てそう思った。人の行いは常に無い。全ては作られたものだ。出会うものは別れ、別れるものは出会う。初めから何も無いんだ……」

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