出陣前、奥の間にて

「聞いたか、澄。我が領内に、結城と多賀谷、小山他の大軍が迫っておるのじゃ」


 いよいよ、出陣を控えた日、氏治はいまだ目を覚まさぬ澄に語り掛けた。


 隣では同じく出陣を控えた光秀が、必死の看病を続けている。


 澄の脈や呼吸は落ちついてきたものの、目を覚ます気配はない。


 いつもと変わらずすうすうと、静かな寝息を立てているばかりだ。


「小田家にきて、澄わしにために小田家のためにとは不安の中一年間走り続けてきた。今は休んでほしいと、わしは思うておる」


 澄が小田家に来て一年が過ぎた。


 氏治の脳裏には、出会いの時の様子が今も鮮明に浮かび上がる


「思い起こせは去年の春先の戦に敗れて逃げておったら、急に変な衣を身にまとい、白鹿に乗せられてきたなぁ」


 あの時は澄の意識もなく、恐怖を覚えながらも助けねばと背中に背負い土浦城に駆けた。


「目を覚ましたと思ったらひどいことを言われたが、当然だ。滅亡の未来が待つ家に拾われたうえに、わしが当主としてあまりにも頼りなく見えたのだろうからな」


 思わず懐かしさに、笑みがこぼれる。


 拾われたのは、滅亡の未来がある主家。


 だが、そんな家でも人生で初めて誰かに認めらたことに恩義を感じ、澄は一年間わき目も振らず『恩返しがしたい』と走り続けてきた。


「澄は、神でも妖怪でもない。ただの、女子じゃ。それが、どうしてこんな目に合うのかわからぬよ……」


「大殿……」


 氏治の澄に向けた言葉は光秀の誤解を、解くものだった。


 どうしても500年先から来た優れた知識を持ったものとして見がちだが、光秀も澄に付き従っていたことを思い出すとそんなことはなかった。


 野の花、空がきれいだと喜び、民と一緒に食事することに笑い、自分に対しても拗ねたように意地悪を言うただの女子だった。


 計略智眼と時には言っているが、あれが澄が自分の中にある恐怖を振り払うための言葉だということは氏治も光秀も気づいていた。


 本当はこんな戦の危険などない家、で平和に過ごすのが似合っている。


 いくら才を認めた恩義があろうとも、少なくとも命を危険にさらすのに適している女子ではないのだった。


「小田家は、危機に瀕しておる。皆が、澄の力を必要としておる……」


 結城との戦の手順は進んではいるが、それは異様ともいえるものだった。


 跡継ぎ問題を抱え、さらに政貞と天羽がいない影響は大きく、小田家は二分したままそれぞれが戦の準備を進める有様。


『このままでは勝てぬ、相手が折れて協力してくれれば』


 そんな空気が、家中を埋め尽くしていた。


「私も手を尽くしたのですが、溝を埋めるには至りませんでした」


 光秀としてももてる才の限りを尽くし、それぞれの将と話し合い、何とか溝を埋めようと粉骨砕身した。


 しかし、溝は埋まらないまま戦を迎えることになった。


「澄、すまぬな。お主が必死に小田家の運命を変えようとしてくれたのにわしは結局――」


「ったく……美濃の麒麟と名族小田家の当主が、そう簡単に頭を下げるものじゃないでしょ」


 頭を下げた氏治と光秀の耳に聞こえてきたのは、弱弱しくもはっきりとした声だった。


 ――まさか!?


 はっと二人は顔を上げると、そこにはうっすらと目を開けた澄がいた。


「す、澄殿!目が、目が覚めましたか!?」


「す、澄!」


「かなり……寝ていたみたいですね。苦労を掛けました。ダメ家臣ですね、氏治さまをダメ当主だなんて……笑えません」


 安心で涙がこみ上げる氏治に、澄は力なく笑っていた。


「そんなことは、ございません……。よく、毒に打ち勝ってくれました……」


「す、澄ぃ……」


「氏治さま、姫は……葉月ちゃんは無事ですか?」


「も、もちろんじゃ!澄が体を張って守ってくれたから……傷一つ……うう……」


「よかった。とはいえ、泣いてる場合ではないでしょうに。その様子、戦なんですよね?」


 澄は震える身体でゆっくりと立ち上がり、涙を浮かべる氏治に”いつもの様に”言葉をかけた。


 だが、目はまだ虚ろ。


 毒の影響が、いまだに残っているのは明らかだった。


「光秀さま、氏治さま。お願いがあります」


「な、なんでございましょう?」


「出陣までにまだ間に合いますよね。評定の間にあたしを運んでください。その間に、現状の説明を」


「何を無理をなさいます! 私が皆に伝えることもできましょう!」


「そうじゃ!またいつ倒れても、おかしくなさそうではないか!」


 二人の言葉に、澄は小さく首を振った。


「また、いつ倒れるかわからない感じなんです。相手が結城と多賀谷となれば、大事なことを伝えないといけないんです」


 そしてそばにいる氏治に縋るように立ち上がると、はっきりとこう告げた。


「あたしの思っている言葉は、あたしが伝えなきゃ心に響かないんです」

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