澄、氏治の弱き理由を知る
夜の土浦城。
足軽たちのざわめきは遠く、聞こえるのはわずかな草木の音。
明かりも、月の淡い光だけ。
あたしが過ごしていた500年後では、ほぼ得られないような静けさだった。
政貞さまとあたしは、普段は閉ざされている本館の縁側に座っていた。
ここなら誰も来ないだろうっていう、貞政さまの気遣いからだった。
「氏治さまは、ああ見えて優れた将であられたのです」
ポツリと政貞さまが、寂しそうな口調で切り出した。
「確かに初陣となる川越で、あれだけの大敗しました。私も付き従っていたからわかりますが、それはひどいものでした」
「政貞さまも、川越にいらしたんですね」
「ええ、私は氏治さまよりも年上ですからね。もうあの頃にはいくつもの戦いをこなしておりましたよ」
そこで、ふと思い出した。
確か上杉方と北条方のやり取りをしていた将に、菅谷の名前があったはず。
政貞さまを始めとする菅谷一族も、あの川越の戦に参加してたんだ。
「よく、生き延びられましたね」
「兵たちが命を懸けて、守ってくれましたからね。今は訳あって藤沢城にいる父にも、助けられました」
「政貞さまのお父上にも、挨拶に行かねばなりませんね。すごく、お世話になってますから」
政貞さまのお父さん、
政貞さまにはお世話になっているし、この戦が落ち着いたら挨拶に行った方がいいかもしれない。
「ですな。父は私より知勇に優れておりますから、澄殿を気に入ってくれるでしょう。ああ、話がそれましたな、氏治さまのことです」
少し柔らかな雑談になりそうだったところで、貞政さまが舵を元に戻した。
「あの後にあった戦で、澄殿は信じられないでしょうが氏治さまは見事な指揮をとっておられるのです」
「え?」
「敵の弱点を見出し、そこに本隊を切り込ませての見事な勝ち戦でした。しかも、自ら敵陣に切り込み16の首級をあげているのです」
「え、え!?」
いや、そんなバカな。
氏治さまがそんなに武に優れていないはずなのは、あたしだって知ってる。
剣術は、ど素人のあたしに負けるくらいだし。
いや、この時代の一番の武器や槍や弓だから、刀の扱いだけがド下手なのかもしれないけど、それにしたって信じられない。
それに16の首級って、一番槍とかではない訳だから雑兵や足軽じゃなくて、そこそこの相手を倒していないといけない。
それに、当主ではなく政貞さまのような一人の将ならまだ分かる。
将なら敵陣に切り込んで首をとって云々、ってことは十分可能。
でも、氏治さまは当主で総大将。
本陣に構えて指示を出しているのが役割で、本隊を率いて相手陣地に切り込むなんて本来ありえないはずなんだけど。
「驚かれましたか。その氏治さまに、雫殿はここまで刀で負け知らずなのですよ。自信を持ってください」
「い、あ、え、えと、信じられないです……二重の意味で」
「しかもご本人は、大将がこのような動きをするなど恥しい事と言って、一緒に突撃した部下に手柄を渡してるんです。文書にも、そう記させておりますな」
そんなことまで。
じゃあ、氏治さまは本来武勇に優れた、最弱なんて言われるはずもない将だってこと?
「あたしが知っていた氏治さまは、無茶無謀を繰り返す将でした。でも、今の話を聞くと決してそうではない……?」
でも、まだ信じられなかった。
あたしが知る氏治さまは、とにかく戦下手という印象しかない。
本とか読んでも、見事な采配をした大将なんて言葉は見たことがなかった。
どちらかというとどの本も、氏治さまは無茶無謀を繰り返したとか、損害を少なくしようとして敗戦を繰り返して弱体化したとかばっかり。
頑張ったのは氏治さまじゃなくて、貞政さまをはじめとする優秀な家臣団だったというもの。
「なぜでしょうか。今の氏治さまは、あたしの居た時代から見た氏治さまと変わっているかもしれませんけど」
あたしが来たことで、もう小田家が何かが変わってしまったかもしれない。
氏治さまが、最弱武将になってしまった原因は何かあるはずだった。
それが、今回の総大将の辞退にもつながってるかもしれない。
「貞政さまの考えを、教えてください。どうして、あたしの知る氏治さまは無謀な戦いを続けたか、そしてなんで今回の総大将を辞退したかを」
「己を、強く見せたいのでしょう」
あたしの問いがが分かっていたかのように、貞政さまは迷いなく返した。
「小田家の領地は、決して裕福とは言えません。もしかしたら、利根川や小貝川周りの水運を仕切ることのできる、私の家より劣るかもしれません」
政貞さまの言うことは、間違ってない。
この時代の水運は、流通の要とも言えるもの。
それも利根川水系の一部を管理しているともなれば、かなりの利権を得ていることになる。
考えたくはないけど、菅谷一族が裏切ったら小田家なんて露と消える事だったありうるわけだ。
「それでも小田家は名門です。私たちの家も、氏治さまや父君以前からの付き合いというものもありますが、菅谷家の領地を小田家が守る事が分かっているので忠義を尽くしているのです」
「政貞さま……」
この時代、裏切り同盟破棄や主家からの離反はもう数えきれないくらいある。
歴史に残っているのでもかなりあるのに、小さな豪族や家となればもうきっと数えきれないくらい。
同盟だと長く続いた織田徳川の清州同盟なんて、ほんとレアケース。
でも、それがこの時代の生き残り戦略。
菅谷家だって、何かの利益がなければ小田家に忠義を果たす必要はないんだ。
「氏治さまは、小田家単体、そしてご自分の才を十分に分かっています。他家も同様です、天羽さま、飯塚さま、平塚さまだけではない。小田家に付き従っている各家々の将たちの才を一番見ているのは氏治さまなのです」
「まさか、あたしの知っている氏治さまは、自分を強く見せたくって……無謀な戦いを?」
「そうとしか、思えません。自分が強い将でなければ、皆は安心できない。そう思っていたのでしょう」
政貞さまの言葉は、あたしの中にすっと入ってきた。
『民を守りたい、先祖からの土地を、小田家をなんとしてでも守りたい』
こんなことを氏治さまは、あたしの前で言っていた。
だから、自分に才が全くない事が周囲に分かってしまうのが不安だった。
分かってしまえば支えていた、民や家臣が離れていってしまう。
そうすれば、先祖から守ってきた小田領も、脈々と続いていた小田家の名も血も自分の代で失ってしまう。
それを、氏治さまは誰よりも恐れていたんだ
「氏治さま……」
「今回の小田城を取り戻す戦いは、絶対負けられない戦いです。もし、今回失敗となったら?」
「そ、それは……」
貞政さまの問いは、あたしの心を凍り付かせた。
あたしが氏治さまだったとしたら、どうだろう。
絶対できると思って期待している周囲を、もし裏切ってしまったとしたら。
みんなが居なくなって、ひとりぼっちになってしまったとしたら怖くて仕方ない。
もしかしたら、逃げ出してしまうかもしれない。
いや、逃げ出してしまうに決まってる。
氏治さまが、政貞さまに総大将を任せた理由が、あたしには分かっちゃった。
――もし、負けてしまったら小田家は滅びるかもしれない。
そう、考えてしまったんだろう。
「あの、あたしは、どうしたらいいんでしょうか。恩返しという思いだけで動いて、戦をしていいのでしょうか」
ポツリと漏れたのは、不安だった。
今回の小田城奪回の策を立てたのは、誰でもないあたし。
それは小田家でここから天下を取りたいとか、周辺の家々に小田家の力を示したいって訳じゃない。
だた、氏治さまが笑顔で楽しみにしていた領民たちとの田植えをしてくれたらいい。
氏治さまが帰りたいって言った小田領に、戻ってくれたら。
そういう意味で、小田家に恩返しをしたい。
それだけだったから、どうしていいか分からなくなっていた。
「澄殿。実はこれからの出陣式で今回の戦の指揮は、澄殿がとる事を皆に伝えるつもりでした」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます