ヤバい女の思い出

 僕がセツナ様に拾われた――セツナ様を拾った――頃、僕はまだ子供だったから、あまり腕力もなかった。けれど、彼女の小間使いを三年くらい続けた頃になると、背丈もだいぶ伸びて筋肉がついてきたから、力仕事とかを軽くこなせるようになった。


 そんな僕の成長に合わせるかのように、ヤバい女のセツナ様はこの頃あたりから僕を鉄火場に放り込むことが多くなっていった。体力が付いたことで、賊や魔物の囮をこなすことも可能になってきたからだと思う。


 初めてセツナ様がヤバい女の片鱗を見せたのは、セツナ様の思い付き日帰り旅行に付き合わされているさなか、たまたま人里を荒らした魔物の討伐依頼を受けたときのことだ。


 二匹のウェアウルフ――二足歩行の狼みたいな魔物――を斃してほしいという村の生き残りの願いを聞き届け、森に押し入って化け狼を探しはじめた僕とセツナ様。やがて森の深いところで一匹のウェアウルフを見つけたとき、セツナ様は無言で片手を突き出し、僕に剣を渡した。


「…………ハルト」


 じっ、と底なしの沼のような漆黒の瞳でこちらを見つめるセツナ様は極端に口数が少なく、その短いフレーズだけで彼女が何を考えているのか読み取るのは至難の業だった。だから、そのときの僕は彼女の意思をこう解釈した。


『私がもう一匹を探してくるから、こいつはハルトが足止めしてて』、と。


 僕たちが追っていたウェアウルフは二匹。


 目の前にいる一匹のほかにもう一匹がどこかにいるはずで、そいつを放っておいたら生き残った人たちが危ない。そういうことなんですねセツナ様、と僕はひとりで勝手に納得して、彼女から渡された剣を手に取り力強く頷く。


「行ってください、セツナ様!」


 そして僕は、セツナ様が残りのウェアウルフを見つけるまでの時間を稼ぐべく、彼女の小間使いとして果敢に化け狼に斬りかかった。


 鋭い爪と牙を持つウェアウルフはなぜかめちゃくちゃに興奮していて、文字通り僕は死を覚悟した。よくあんな激しい攻撃を避けられたな僕、と自分を誉めてあげたいくらいだった。ヤツの爪が僕の服に引っかかりその繊維を切り裂くたび、あれが僕の皮膚じゃなくてよかったと何度胸を撫で下ろしたことか。


 その頃の僕はまだセツナ様をヤバい女と認識していなかったから、あの人がすぐにでも残りのウェアウルフを殺して、僕の元に戻って来てくれると信じていた。僕の視界にはウェアウルフ一匹しか入っていなくて、それ以外に気配を払う余裕なんてなかったし。


「グウウオオオオォォォォォォ!」


「うわっ――」


 だから、ついに僕がウェアウルフの猛撃に体勢を崩し、その心の臓にその牙を突き立てられそうになった瞬間。


 僕の背後から一太刀でウェアウルフの首を刎ね飛ばしたセツナ様の横顔を見たとき、小間使いのピンチに颯爽と駆け付けそれを救った≪剣聖≫の真剣な表情を見たとき、僕は彼女を心の底から尊敬し、憧れを抱いた。



 いまなら言える。僕はバカだ。



 当時の僕はさっきまで目前に迫っていた死の気配に怯えてそこまで気を払えなかったけれど、成長して、冷静になった今ならわかる。ウェアウルフの興奮の理由も、セツナ様の足元にもう一匹のウェアウルフの首が転がっていたその理由も。


 あの女、そもそも僕に剣を渡した時点で残りのウェアウルフを探しに行ってなどいない。僕が斬りかかったあともずっと、ウェアウルフと斬り結んでいる僕の背後――僕の視界の外にいたのだ。


 たぶん僕に剣を差し出した時点で、剣を握る手とは逆に、あの女は


 そりゃウェアウルフも怒るよ。群れの仲間かつがいか知らないけれど、そんな相手の首をぶら下げられて間合いの外からずっと挑発されてたら誰だって怒る。セツナ様がなんでそんなことをしたのか皆目見当もつかないけど。


 そんな感じで、僕が成長するにつれてセツナ様はヤバい女に変化していった。


 慣れとは怖いもので、近頃はかなり疲れるどまりで済むようになったけど。当時の僕は日々の家事炊事に追われる以外にも修羅場に投げ込まれるせいで、心身がボロボロになっていた。たぶん小間使いとしていちばんキツかった時代だろう。



 僕が女騎士フェイ・シンクレアと初めて出会ったのは、ちょうどその頃だ。



 セツナ様と王都を訪れた折。「≪剣聖≫様を歓待しないわけには参りません」なんてことを貴族連中に言われて、セツナ様が王城に連れていかれたとき。


「よっ、そこの少年。キミ、なかなかカッコいいね」


 小間使いの僕には登城が許されなかったので王都の通りをぶらついていたところ、なぜだか声をかけてきた女騎士がいた。聞けば、王都の巡回任務中だが暇すぎたので、王都の外から来たであろう純朴そうな田舎の男の子に声をかけてみたのだという。


「……王国騎士がそんな適当でいいんですか?」


「いいのいいの、あたしは不良騎士だからね」


 アッシュグレーの髪を風に揺らし、涼しげな視線で僕を見つめる女騎士フェイ。僕より少し年上の彼女は、その頃の僕にとってはセツナ様を除き、初めてまともに会話を交わした異性だった。


 それから、セツナ様について王都へ向かうたび、僕は王都を巡回中のフェイと言葉を交わした。自身を『不良騎士』と称するフェイとの交流は、セツナ様のお世話と無茶ぶりに疲れ果てていた当時の僕にとって、大変な癒しだった。


 軽薄だが少し儚い雰囲気もあって、まるで風のようにつかみどころのない、僕より少し大人のフェイ。僕は彼女に、セツナ様が教えてくれない――セツナ様では教えられない――様々なことを教わった。


 王国騎士の制式剣術。酒。煙草。ギャンブル。そして女性の扱い方。


 王都を何度か訪れるうち、僕はいつしかフェイ・シンクレアと恋仲になっていた。セツナ様が王城に呼ばれている隙を見て、任務中のフェイと逢瀬を重ねる。当時の僕は、セツナ様に黙ってフェイと契りを結ぶスリルと背徳感の虜だった。


「ハルは度胸もあるし、剣の腕もあるわよね」


「えっ、急だね。照れるなあ……」


「ハル、アンタ騎士にならない? 騎士になってあたしを守ってよ」


 行為を終えた古宿のベッドの中で、フェイにそんなことを言われて舞い上がっていたのも今となっては苦い思い出だ。正直悶絶しそうになる。この女もセツナ様に劣らず大概ヤバい女であると、若かりし頃の僕は気づいていなかったのだから。


「……あのさ、ハル。アンタの腕を見込んで、ちょっと手伝ってほしいことがあるの」


 ゆえに、僕の胸に顔を埋めながら、いつになく神妙なトーンで語ったフェイの口車に、僕は乗せられてしまった。



 フェイ曰く、不良騎士である自分にもちょっと大きな仕事が入ってきてしまったとのこと。王城で内務を掌る王国貴族が、国防に多大な影響を与える機密文書を不正に入手し館に持ち帰った。国外に流出する前に、秘密裏にそれを回収しなければならない。


 そんな重要な任務をどうしてフェイひとりに任せようというのか、という問いに、彼女はもっともらしく答えた。


「その貴族はあたしが所属してる王国騎士団を管掌する貴族とは対立関係にあるのよ。下手に騎士団を動かして要らない疑いをかけたら、最悪の政争が勃発して王国の政務が機能不全に陥る危険性すらあるわ」


「大ごとじゃないか」


「大ごとなのよ」



 バカな僕は恋人の言葉を信じた。そもそも治安維持を主任務とする騎士団を管掌する貴族こそ、内務を掌るそのお貴族様なのに。



 セツナ様が真夜中まで続く、王城での舞踏会に招待されたある日の月夜。


 件のお貴族様も登城しているということで、僕とフェイは宵闇に紛れてお屋敷に侵入し、機密文書を奪取する計画を立てた。屋敷の中には当然護衛がいるので、セツナ様の無茶ぶりで培った逃げ足を活かして僕がかく乱し、その間にフェイがターゲットを探すという段取りだ。


 僕とフェイの計画は上手くいった。上手くいきすぎるくらいに上手くいって……いやむしろ上手くいきすぎたせいで、僕は館中の護衛に追われるハメになった。


 でもこちらが苦しければ苦しいだけフェイが仕事をしやすくなるわけだから、と自分を叱咤して、ずっと護衛たちの目を引き続けていた僕。しかし、一向にフェイから撤収の合図はなくて、いよいよ不安が押し寄せてきた頃、僕は館の使用人たちが叫ぶ声を聞いた。


「か、金目のものがほとんど盗まれてるぞ!」


「女がひとり外に逃げて行ったぞ! 追え! 追え!」


 物陰に隠れながら、悲鳴や怒号を耳にしていた僕は、まったく事態が呑み込めないでいた。金目のものがすべて盗まれている? 女が逃げた? 女ってまさかフェイ? いやでも彼女は機密文書を奪取するのが目的なはずで……。


 何が何だかわからない。ただ、いくら待っていてもフェイからの撤収の合図はないことだけは確実だった。



 僕は混乱に紛れて館から逃げ出し、事前に示し合わせていたフェイとの合流地点――事前に抑えていた古宿の一室へ急いだ。



「フェイ……?」


 フェイとの合流地点に選んだのは、僕たちが初めて身体を重ねた思い出の部屋だ。


 その古ぼけた部屋の中、無事に仕事を終えたフェイがベッドで足を組みながら涼やかに微笑んで、僕のはたらきを労ってくれるのではと期待していた。


 けれど、そこに僕の恋人の姿はなかった。


 部屋の中には、フェイはおろかフェイの荷物もなくて、古ぼけたベッドのそばに置かれたサイドテーブルの上に、革袋を重しにして一枚の書置きが残されているのみ。


 革袋を開けると、その中には見たこともないくらいたくさんの金貨が詰まっていた。これだけのお金があったら当分は遊んで暮らせる量だ。だけど、僕が欲しいのはそんなものじゃない。


 続いて、僕はその下にある書置きを手に取り、その内容に目を通した。


『まずは無事のお仕事完了お疲れ様、ハル。いろいろ気になってると思うから、端的に述べるわ。アンタにはあたしのお仕事を手伝ってもらったの。私腹を肥やしたお貴族様から金目の物をごっそりちょうだいするお仕事よ。スリルあったでしょ?』


『ちゃんとあたしを守ってくれて感謝してるわ。今回の件はだいぶ大きい仕事だったから、しばらくほとぼりを冷ますためにあたしは姿を消すつもり。アンタもなるべく王都には来ないほうがいいかもね』


『ハルに声をかけたのは使える仕事仲間が欲しかったからだけど、アンタを選んだのは間違いじゃなかったわ。だって、良い男なんだもの。これで恋人関係が解消されてしまうのも残念なくらい』


『アンタと過ごした一年間は楽しかったわよ。そこに置いてあるお金はアンタの取り分だから、好きに使って』


『また逢う日まで。愛してるわ、ハル』


『愛しの不良騎士より』


 フェイからの手紙をすべて読み終えて、僕はとてつもない脱力感に襲われた。


 不良騎士フェイ・シンクレア。あの女の本業は盗賊で、その片棒を知らず知らずのうちに担がされたのだと、僕はここに至ってようやく気が付いた。



 ――まったく、してやられた。



 フェイに対する怒りはなかった。むしろ苦笑いが出てくる。結局、フェイの本質に気付かなかった僕の負けだ。


 もともと、フェイという女はつかみどころがないひとだった。遅かれ早かれ、僕は彼女に利用される運命にあったのだろうと思う。


「僕も君と過ごせて楽しかったよ。ありがとう、フェイ」


 するりと僕の手の中から抜け出していったヤバい女。彼女の涼やかな目元を思い出しながら、僕は月に向かって愛しの不良騎士に別れを告げた。

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