一 ノーシュタルトの花嫁①

 母は、やさしい微笑ほほえみをかべて、何度もエレナの銀色の髪を撫でては言った。

 だいじようよ──

 その言葉は、幼いエレナにとってはもりうたのようでもあり、優しいじゆもんのようでもあった。

 大丈夫、大丈夫よ。

 繰り返されるその言葉だけが、エレナをこうていしてくれるただ一つの呪文。

 泣き続けるエレナをきしめて、何度もそう言ってくれた優しい母。

 ──大丈夫、あなたは「無能」などではないわ。

 力こそすべてのノーシュタルト一族の中で、「無能」とさげすまれるエレナを守ってくれた大好きな母は、もういない……。


   * * *


 早朝。

 エレナはまだむらさきいろをしている空を見上げて、はあと息を吐く。

 秋も深まってきて、そろそろ山が色づきはじめるだろう。もうじき吐く息が白くこおる。エレナには厳しい冬がやってくる。

(……冬になる前に嫁ぎ先へ向かうことになったのは、喜ぶべきことなのかしら……?)

 昨日、父であるノーシュタルト一族の長ダニエルから嫁ぎ先が決まったと教えられたこともあり、エレナは急いで旅たくを整えることになった。

 出発は三日後らしい。ずいぶん急だが、ダニエルの命令は絶対だ。

(持っていくものはすべて準備してあるって言っていたけど……)

 エレナはノーシュタルト一族の長の娘でありながら、ノーシュタルトの地で暮らすみんなから「無能」と蔑まれていて、一族のものとして扱われていない。そのためエレナが住んでいるのは、ダニエルのやしきの庭にある、もともと物置として使っていた木造のまつな小屋だ。冬になれば冷たい風がすきからびゅーびゅーと入り込んでくる。だんもないためエレナはわらにくるまって暖をとるしかできず、毎年春になるまで生きていられるだろうかと不安に思いながら冬をすごす。

 だから、その厳しい冬をむかえる前に旅立てることは、エレナにはありがたい。

 エレナはで水をくむと、小屋にもどって湯をかした。昨日、庭をけ回るにわとりから卵を二つばかりちようだいすることができたので、それで朝食を作ることにする。

 無能だと蔑まれるエレナへ食事が与えられることはないので、自分で食べるものを確保しなければならないのだ。

 ノーシュタルト一族にとって「無能」とはすなわち、生きている価値のないもののことをいうのである。

 ノーシュタルト一族はこの西の果てにある半島で、数百年も前から、彼らの持つ特異な力──異能の力を守り続けてきた。

 異能とは世界でノーシュタルト一族だけが持つとくしゆな力で、一族はその強大な力のおかげで、どこの国にも属すことなく生活している。

 異能の力こそ絶対とするノーシュタルト一族は、異能を持たない「無能」者にひどくれいたんだ。

 実際エレナも、母がかばわなければ生まれてすぐに殺されていただろう。

 エレナは生まれてすぐに無能と判ぜられて、一族の長の娘として生まれながら、長の娘として扱われなかった。

 それでも母が生きていたころは幸せだったと思う。住む場所も長の邸の母の部屋だったし、母はエレナをいつくしみ、異母兄妹きようだいや義母たちからいつもかばってくれていた。

 けれども六歳の時にエレナの母がくなると、彼女への風当たりは一気に強くなった。邸を追い出されて、物置小屋で生活するように強要され、扱いも使用人以下。それでエレナが死のうともかまわない、そんな扱いだった。

 使用人には与えられる食事もエレナには与えられず、自分で食べるものを見つけなければえて死ぬことになる。幼いながらに少しずつ生きていく方法を探しては覚えていったエレナは、なんとか十七歳まで生き延びたのだ。

「いただきます」

 藁をめただけのベッドにこしかけてゆで卵を食べながら、エレナは考える。

 いつも朝から晩までこき使われるエレナだったが、とつぎ先が決まってからは父に仕事をしなくていいと言われた。かわりに、少しでも見目く整えろと言われたけれど、どうしたらいいのかわからない。

 水仕事でれた手はがさがさで、母ゆずりのまっすぐなぎんぱつもぱさぱさしている。はだかんそうしてごわごわしているし、ろくに食べていないために体つきもガリガリだ。これをどうして、三日で「見目好く」整えられるだろう。土台無理な話だった。

 着ている服も使用人が着古して捨てるものが回ってくるので、つぎはぎだらけでくたびれているし、穴の開いたぐついているため、くつれを起こしてかかとや足先などは傷だらけ。持って行くものはこちらで準備するとダニエルは言っていたが、服はどうするのだろうか。服を仕立てるには何日もかかるのだ。用意されているとは思えない。

(……この格好で行くのかしら? さすがに失礼なんじゃ……)

 よめではなく奴隷を送り込まれたと思われてもおかしくない。いや、そもそも花嫁とはていさい上の言葉で、れいとして行くのだろうか?

 もそもそしたゆで卵を食べ終えると、エレナは沸いた湯の中に、裏庭に生えていたドクダミをんで干したものを入れてたせる。ドクダミの独特なかおりがただよいはじめたとき、小屋のとびらが乱暴に開け放たれた。

 エレナががくぜんと顔をあげたのと、とつぜんやってきたまいバネッサがきつく顔をしかめるのはほぼ同時。

「くっさ! 何よこのにおい!」

 バネッサはかみと同じはちみつ色のひとみで、キッとエレナをにらみつけてくる。

 一つ年下の異母妹がエレナが暮らしている小屋へやってきたのははじめてだった。

「バネッサ、どうしたの……?」

「お父様にこれを持って行けって言われたのよ。そうじゃなかったら、どうしてこんなきたなぶたにわたしが来なくちゃいけないのよ!」

 バネッサはそう言って、エレナに向かって乱暴に何かをほうり投げた。あやうく顔にぶつかりそうだったそれをギリギリで受け止めたエレナは、受け取ったびんを見て首をひねる。

「これは……?」

椿つばき油よ! あんたみたいに汚らしい女にはすぎたものなんだから、感謝しなさい! まあ、それを使ったところで、その顔がましになるとは思えないけどね!」

「えっと、……どうして?」

 エレナのことを蔑んでいるバネッサが、どうしてわざわざ椿油を持ってきたのだろうか。石を投げつけられることはあっても、何かをもらったことなど一度もない。父に言われたところで従うとは思えなかった。

 バネッサは意地悪そうに顔をゆがめた。

よ慈悲。ロデニウムののろわれた第二王子に嫁ぐあんたに、せめてもの慈悲。ほんと、あんたみたいなものでも役に立つことがあるのね。お父様から呪われた王子に嫁げって言われた時は耳を疑ったけど、あんたがいたおかげで助かったわ」

(ロデニウム……?)

 バネッサの口ぶりからすると、エレナのえんだんはもともとはバネッサのものだったようだ。だが、バネッサがいやがったか、エレナに押しつけたかしたのだろう。突然嫁ぐように言われたのはそのためだったらしい。

(呪われた第二王子……?)

 ロデニウムとは確か、北にある大国ではなかろうか。ダニエルの祖母だった人がロデニウムの元王女だったはずだ。

(わたしの嫁ぎ先はロデニウム国で、相手は呪われた第二王子……)

 知らされていなかった嫁ぎ先を聞いて、エレナはたんにおろおろしはじめた。相手が大国の王子様だったなんて、どうしたらいいのだろう。エレナのようにガリガリでみすぼらしい女がやってきたら、王子様は気分を害するにちがいない。だいじようだろうか。

 だが、エレナのあわてようを、バネッサはおびえとかんちがいしたらしい。げんよく笑う。

「ふふん。あんたにはお似合いよね。呪われた王子に嫁いで、あんた自身も呪われるといいわ。やつかいばらいができてお父様もお喜びよ」

 せいぜい呪われた王子に気に入られるように全身に椿油をぬり込めばいいと言って、バネッサはやって来たときと同じように乱暴に扉を閉めると去って行く。

 エレナはしばらく放心したようにぼんやりしていたが、やがて藁のベッドに手をっ込むと、中から小さな箱を取り出した。

「……お母様」

 つぶやいて、小箱のふたをあけようとするが、蓋はびくともしない。

「まだ、あかないの……?」

 あなたが本当に困ったときにあけなさい──、死にぎわに母がくれた、小さな箱。

 ただ一つだけ残った母の形見を手に、エレナは細く息をきだした。

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