第一章 二つの後宮②
後宮は四夫人、九
李才人は、少女が話していた通りの人物だった。
しかし、玉玲は並外れた体力の持ち主で、一日中体を動かしていても苦にならない。
口の悪い
山から
嫌がらせが全くきいていない玉玲に、才人の
どうにかして玉玲に、ぎゃふんと言わせたかったのだろう。
玉玲が後宮入りして十日後。風の強い午後に
みなが
玉玲も同行を命じられ、他二人の宮女と一緒につき従うことになった。
葉をまとわぬ
「才人様、戻りましょう。ここ、気味が悪いです」
取り巻きの一人である宮女が、おびえながら才人に
「そうですよ。北後宮に一番近い場所ですし、いるだけで
もう一人の取り巻きが
二人の宮女は「きゃっ」と小さな悲鳴をあげ、体を
「どう、玉玲?
才人だけは平静を
「いえ、別に。空気は悪いなぁって思いますけど」
玉玲は、からりとして答える。
「北後宮って何なんですか? みんな怖がってますけど」
後宮はなぜか南後宮と北後宮にわかれ、間を高い塀で区切られている。南後宮は皇帝の居住区で、妃嬪と宮女が暮らしている場所だ。北後宮については、あまり知られていない。気味の悪い場所だと言って、宮女たちは怖がるばかりだ。
「あなた、知らないの? 『あやかし後宮』を」
「……あやかし後宮?」
「あちらの区域では、火の玉が飛んでいたり、独りでに
恐怖を
するとその時、南から突風が吹き
それぞれの
才人は披帛をちゃんと掴んでいたのに、わざと手放したような……。
「取ってきなさい、玉玲」
風がやむや、才人は当然のように言い
「あの披帛、絹でできたそれは高価なものなの。なくなったら困るわ。早く取ってきてちょうだい。これは命令よ」
玉玲は直感する。才人はこれがやりたくて、御花園に連れ出したのではないだろうか。
後宮において、主人の命令は絶対だ。どんなに
自分が命じられたわけでもないのに、取り巻きたちの顔は真っ青だ。
「どうしたの? できない? 命令に従えないのであれば──」
「あっちの後宮って、入ってもいいんですか?」
さっさとお使いを終わらせたい玉玲は、念のために
「立ち入り禁止だという話は聞いたことがないわ。まあ、怖がって
「じゃあ、ちょっくら行ってきますね。怖かったら戻っていていいですよ」
「行ってくるって……、ええっ!?」
さっそく動き出した玉玲を見て、才人が
玉玲は
みごとに着地し、周囲を観察する。緑が
さて、
「──あった!」
少し遠くの低木に細長い布を発見し、玉玲は
急いでその場所まで
しかしその
いや、風ではない。黒い体毛に覆われた小動物だ。
披帛を口にくわえ、突風のような速さで
「待って! それは才人様の大事なものなの!」
玉玲は直ちに小動物を追った。
草が
自分のものならあげてもいいが、
「待て待て、
必死に
恐る恐る
「お前、おいらが
どうやら、気づかれていないと思いつつ走っていたようだ。
「視えるよ。やっぱり君、あやかしだったんだね」
玉玲は
縦長の
「久しぶりだぁ」
うれしくなって体をもふもふ
「気安くさわるなぁ! おいらはこわーいあやかしだぞ? 呪ってやるんだぞ~?」
「あやかしはそんなことしないよ。後で遊んであげるから、まずはその披帛を返してもらえる? 私の主人、すごく
猫怪の
「お前、おいらが怖くないのか?」
「うん、全然。かわいいよね」
「だから、もふもふするなー!」
体を撫で回してきた玉玲をシャーッと
「あっ、待ってー!」
もちろん玉玲もすぐに後を追う。ぬかるみや
「くっ、何てすばしっこいやつなんだー! お前、ほんとに人間か?」
人間離れした速さと動きを見せる玉玲に、猫怪は
「いちおうね。駆けっこなら誰にも負けないよ。そろそろ返してもらえるかな?」
玉玲は息を切らせることもなく言って、猫怪に迫った。
「このひらひらは、おいらのもんだー!」
猫怪は気合いの
さすがに本気の猫怪にはかなわず、距離が開いた。
茂みにまぎれこまれでもしたら、完全に見失ってしまう。
これはちょっとまずいなと、危機感を募らせた時だった。
前方を駆けていた猫怪が突然動きを止める。
何か恐ろしいものにでも
いったいどうしてしまったのだろう。
その
長身で引きしまった体にまとっているのは、銀糸で
氷細工のように冷冷たる
会ったこともない男性のはずなのに、なぜか胸がざわついて目を離せない。
身動きもできずに見入っていると、青年が猫怪へと近づきながら
「お前がくわえているものは何だ? 上質な披帛のようだが、
猫怪を
完全に
「
青年の手が、
その瞬間、玉玲の
「待って!」
玉玲は直ちに声をあげ、猫怪の前へと飛び出していく。
もう二度とあの時のような思いはしたくない。
「それは私がその子にあげたんです! そんな簡単にあやかしを殺さないで!」
十二年前のことを思い出しながら
「お前、あやかしが視えるのか?」
どこかで会ったことがあるような気がした。
そうだ、似ている。
十二年前、玉玲の前であやかしを斬った青年に。
「……あの時の人ですか?」
玉玲はにらむように青年を見すえて問い返す。
「またあやかしを殺すんですか?」
玉玲の中では、目の前にいる青年と十二年前の青年が完全に重なって見えていた。
「物を盗んだだけなら殺しはしない。だが、二度と盗むことがないように手を斬り落とす。それが天律だ」
「盗んだだけで!? そんなのひどい!」
「あやかしは
「あやかしはそんな悪い存在じゃありません! 私が会ったあやかしは、陽気で人なつっこくて
十二年前の出来事をまざまざと思い出し、玉玲は目に
「それはお前があやかしの
青年が初めて語調を強め、
もしかしたら、彼はあやかしのせいでひどい目にあったのかもしれない。
それでも、伝えたいことがあった。彼はかたくなになりすぎて、見えていないものがある。
「本当にそうでしょうか? 確かに、人に害を
夜色の冷たい瞳と視線を交えながら断言する。
今度こそ自分の手であやかしを守り通すのだ。
決意をたぎらせながら見すえていると、青年は感情の読めない
「ならばお前は、あやかしが悪さをしないように導くことができるのか?」
「できます!」
玉玲は
青年は玉玲を
「名前を聞いておいてやる。どこの者だ?」
「李才人に仕えている玉玲です。十日前に宮女になりました。あなたは誰ですか?」
会ってからずっと気になっていた。子どもの
「十二年前、
「……阿青?」
「私、以前杜北村に住んでいたんです。その時、助けてくれた少年の名前。優しくて
何年たっても忘れられない。自分を救ってくれた少年のことが。目の前にいる青年があの少年の兄であるなら、阿青と
「もしかして、あなたは杜北村に来て、あやかしたちを斬った人ですか? 弟の名前は阿青っていうんじゃないですか?」
阿青の情報を求め、期待を込めて訊く玉玲だったが、青年は冷ややかに答えた。
「知らん。
玉玲はがっかりして
もしかしたら、阿青や天天に会えるかもしれないと思っていたのに。
ただ、青年が
疑いの目を向けていると、青年が玉玲に背中を向けて歩き出した。
いちおう
彼はいったい何者で、どうしてこんな場所にいたのだろうか。
「先ほどの発言を忘れるなよ。
後宮は原則、男子禁制だ。
一人
「もう
震えていた猫怪だったが、優しく背中を
青年は猫怪のことを
「さて、帰るか」
玉玲は猫怪を思う存分もふもふしてから立ちあがった。
「おいっ。いいのか? このひらひらは?」
我に返った猫怪が、披帛を示して問いかける。
「さっき、『あげた』って言っちゃったからねぇ。もらったことにしておきなよ」
「でも、お前、
「まあね。でも、私なら軽く
青年から猫怪を守りたくて、とっさに嘘をついてしまった。その責任は負わねばならない。
「その披帛はあげたことにするけど、もう物を盗んだりしたらだめだからね」
玉玲はいちおう猫怪に注意し、
「お、おいっ」
猫怪に呼びとめられた気がしたが、すでに走り始めていた玉玲の足は止まらない。
あまり待たせると、
軽い
北後宮には
結局、南後宮と北後宮をつなぐ
玉玲は
「玉玲、披帛を持っていないじゃないの。これだけ時間をかけておいて、まさか見つからなかったなんて言うのではないでしょうね?」
案の定、才人の機嫌は寒気を覚えるほど悪かった。手ぶらの玉玲を見て、つりあげた口角をぷるぷると
「はい。見つかりませんでした」
玉玲は開き直って答えた。
「お前、よくもいけしゃあしゃあと!」
「
面倒くさくなって自ら進言する。杖刑とは、杖と呼ばれる木の棒で
後宮というのは本当に
「さあ、どうぞ」
部屋の
才人はずっとこれがしたかったのだ。玉玲を
「生意気なっ」
玉玲の態度に
素直すぎてもだめだったか。失敗したなと、
「李才人!」
部屋の入り口から
見慣れない宮女が室内へと駆けこみ、あわてた様子で才人のそばに寄る。
彼女から何かを耳打ちされた才人は、徐々に
「えっ、嘘っ!?」
才人の耳に、
「どうかしたんですか?」
玉玲は
「申し訳ございませんでした、玉玲様ぁ!」
才人がいきなり
「はいぃっ?」
これには
しばらく玉玲の臀部に向かって
「何をしているの? 早く湯あみの準備を。玉玲様のお
宮女たちは
「玉玲様、あちらへ向かわれるまで
才人は玉玲の臀部をあがめるように再度ひれ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます