第一章 二つの後宮①
四方を高い
低所得者層や移民が多く暮らす南の区画は、今日も雑然とした空気に満ちている。
その一角にある
「うーん、あと三日ぶんかぁ」
かき集めた銅銭と薬包を
卓子に
顔を見なくても誰であるかはわかる。こんな無神経なまねをするのは、団員では一人だけ。兄弟子の
玉玲はのっそりと振り返り、雲嵐を
「
玉玲の視線など石に
この兄弟子にだけは、もう何の
「うん。次のぶん買うお金が集まらなくて」
玉玲ははっきりと実状を伝えた。
「俺たちの収入だけじゃ、たりないのか?」
「ちょっとね。京師の家賃って結構かかるし、薬代すごく高いから」
京師に名医がいるという話を聞き、嶺安に移り住んで半年。生活費と
「あの医者、少し名が知れ
「そんなことはないでしょ。実際、京師のお医者さんに
玉玲は養父の病状に思いを巡らせる。十二年前、一度病に
「せめて京師で公演できればいいんだけどな。俺たちだけでもさ」
「嶺安は
嶺安で公演できるのは、京師に
公演も移動もできない。かといって、団員たちの稼ぎでは薬代を
「ねえ、私も町で働けないかな?」
「そしたら、師父の看病やこの家のことは誰がやるんだよ?」
ずっと考えていた意見を伝えると、雲嵐はすぐに難色を示した。
「でも、薬がなければ師父の病はよくならないんだよ? 私が稼ぎまくれば、
「稼ぎまくるって、お前が働いたところで、俺たち以上の稼ぎは得られねえだろ」
「それがね、私、聞いちゃったんだ。男以上に稼げる仕事があるって」
玉玲は立てた人差し指を左右に
町でひそかに働き口を探していて、情報を得たのだ。女にしかできない破格の仕事があると。
養父の薬代を捻出するためには、これしかない。
「よし、決めた。私、そこで働くことにする! 師父のことはお願いね!」
「って、おいっ。玉玲!」
突然走り出した玉玲を、雲嵐が直ちに呼びとめる。
だが、すでに扉を開けていた玉玲は、振り返ろうともしない。
嶺安の町には
仕事を終えた労働者たちが、
皇城のある北の方角へ進めば進むほど路は広くなり、
赤い
まだ冬だというのに、
玉玲は全速力で通りを駆け、ひときわ
ここが京師で一番羽振りがいいと言われている店、
「ごめんください!」
しばらく待つと、
「何だい? これから営業が始まろうって時に」
「私、曲芸師をしている玉玲っていいます。私を
玉玲は勢いよく頭を下げ、単刀直入に申し出た。そう、妓女になるために。
養父の薬代を捻出するためには、
「
「私、子どもじゃありません! これでも十七です!」
「えっ、十七っ!?」
女性は
そこまで
玉玲は
考えなしに飛び出してきたことを反省していると、女性が玉玲を見回しながら言った。
「十七なら問題ないけど、その顔と体じゃねえ。胸なし、
「ええっ、そんなぁ!」
「お願いします! 私、体力と体の
「だめだめ。体力があって丈夫な男ならたくさんいるんだ。芸っていっても曲芸じゃねぇ。あんたじゃ売り物にならないよ。帰った帰った」
女性は
「まあ、待ちなさい」
玉玲の後方から取りなすように男性の声が
常連客の
男性は玉玲へと近づき、顔や体を観察して、こう
「君、何でもすると言っていたね? いい仕事があるよ。新米妓女くらいの給金にはなる」
玉玲は目を見開くやいなや、その話に
「教えてください! 何ですか?」
男性はニヤリと笑って答えた。
「後宮の宮女だ」
「……宮女?」
「
思いがけない
うまい話には裏があると言うけれど、お金をもらえるのであれば、どんな仕事でもしたい。
「給金って、具体的にいくらもらえるんですか?」
「月に五百
予想以上の金額に、玉玲は目の色を変える。五百阮といったら、
「ぜひお願いします!」
「待ちな!」
「官人様、
「私、十七ッ!」
玉玲は
「お嬢ちゃん、悪いことは言わないよ。宮女だけはやめておくんだね。あそこの仕事はきつくて、朝から晩まで働き通し。年季が明けるまで最低三年は外に出られない。皇帝陛下や最近
「……怖い噂?」
「ここのところ毎年必ず、原因不明の病が流行するんだ。何名も
「やめてくれ、
女性が何かを語ろうとしたところで、男性が
何やらいわくつきの仕事らしいが、お金さえもらえるのであれば構わない。
「宮女の給金って、先払いは可能ですか?」
玉玲は女性の話をあっさり受け流し、男性に大事なことを
「ああ。応じてくれるなら、私が上にかけ合ってやろう」
「じゃあ、よろしくお願いします!」
「ちょっとあんた! あたしの話、聞いていたのかい? 危ないよ。生きて
「大丈夫ですよ。私、今までに一度だって病気になったことはありませんから。それに今、どうしてもお金が必要なんです。大切な人を助けるために」
心配してくれた女性に、ゆずれない思いを伝える。
捨て子だった自分を拾い、愛情を注いで育ててくれた養父。彼を助けるためなら、どんなことだってする。たとえ、この先にどんな危険が待ち受けていようとも。
「じゃあ、
男性が少しホッとした様子で玉玲に指示を出す。
「わかりました!」
玉玲は大きく
***
「
一大決心をした翌日、
養父は閉じていた目を丸くし、雲嵐は「は? 後宮?」と言って、耳の穴をほじる。
「何
「失礼ね! もう
玉玲は目を三角にして主張し、得意げに胸を張った。
午前中さっそく城に
「お前が? その話、絶対裏があるって。相当やばい仕事だろ」
雲嵐の
「そんなことないよ。
いわくつきの仕事であることは言わない方がいいだろう。兄弟子にこれ以上
「玉玲、後宮で働くなんておやめ。お前は気立てがよくてかわいいから、高貴な人に
不安を押し
彼は芸事に関しては厳しいが、基本は
「師父、その心配だけは必要ねえから。天地がひっくり返ってもありえねえ」
雲嵐が玉玲を見て鼻で笑い、養父の肩をポンポンと叩いた。
「何か、めっちゃ腹立つけど、師兄の言う通りだよ。心配しないで、師父。私みたいな下っ
玉玲は兄弟子への
働きに出ている団員たちの代わりに、家事は
「でも、三年も戻ってこられないんだろう? 私なんかのために、これ以上お前に不自由な思いをさせるわけにはいかないよ」
「ううん、師父。これは師父のためというより自分自身のためなの。私、またみんなで各地を
玉玲の一番の願い。それは養父に早く元気になってもらうことだ。しばらく
決意の強さを伝えるように見つめていると、養父はいつになく
「ならば玉玲、一つ約束しておくれ」
どんな難題を言い
「仕事を楽しむこと。お前が幸せに暮らしてくれなければ、私の病なんて
思わぬ言葉を耳にして、体から力が
仕事を楽しむこと。今の言葉がその答えだ。
「わかった。約束する」
玉玲は感謝の気持ちを胸に告げた。養父の言葉がなければ、つらい心境のまま仕事に
一気に心が軽くなり、がんばろうという気持ちが増した。
養父のために、自分自身のためにも仕事を楽しむのだ。
決意を新たにして養父を見つめ、兄弟子に視線を移す。
「お前は、一度決めたことは絶対ゆずらねえからな」
雲嵐は深いため息をつくと、玉玲から顔をそむけ、素っ気なく言った。
「さっさと
ぶっきらぼうな態度の中に隠された思いを感じ取り、玉玲の胸は熱くなる。
彼は、待っていると言ってくれているのだ。いつも小言ばかりで無神経だけれど、仲間として誰よりも自分のことを認めてくれている。
「うん。戻ったら絶対にまたみんなで旅をしようね!」
玉玲は全開の
十二体の
五百年という長きにわたって、暘
建物の数は七百を
いくつもの門を抜けると、その奥にもう一つの異質な町が広がっていた。
高い
──ここが暘帝国の後宮。
玉玲は漢白玉の路を歩きながら、
「何をしているの? さっさとしなさい」
思わず立ちどまり見入っていると、前方にいた案内役の宮女が
「はい、すみません!」
玉玲はあわてて謝り、宮女の後を追う。
宮女は玉玲を宿舎に連れていき、簡単な
かなりいい加減な対応だ。まあ、みな
玉玲は気を取り直して、指定された部屋に足を運んだ。
石の
ぼんやり観察していると、宮女のお仕着せを身にまとった少女が近づいてきた。
楽しく仕事をするために、職場の仲間と仲よくなることは重要だ。
「こんにちは。私、今日から働くことになった玉玲っていうの。どうぞよろしくね!」
玉玲は少女に元気よく
しかし、返事はない。足早に後ろを通りすぎようとする。
「ねえ」
「あなたは売られてきたの? それとも、身内が借金でもした?」
「今、宮女になるのは、そういった子ばかりよ。こんな死と
少女は生気のない目をして告げ、玉玲に背中を向けた。
すさんでいる。人も空気も。玉玲は明確に感じ取る。後宮を奥へと進むにつれて悪くなる空気が、実は気になっていた。黒く
構わず、玉玲は再び少女に話しかける。
「
少女はため息をついて
「あなた、ほんとついてないわね。よりによって、李才人だなんて」
「何か問題がある人なの?」
「新人いびりで有名なのよ。できないことをやれと命じたり、
情報は
「ありがとう。いろいろと教えてくれて」
「べ、別に」
少女はぶっきらぼうに答えると、かすかに
根はいい人なのかもしれない。おそらく後宮の空気に
「よし、がんばろう!」
玉玲は両頬を軽く
こうして、
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