第一章 二つの後宮①

 四方を高いがいへきに囲われ、ばんの目のように路地が入り組むよう帝国の京師みやこりようあん

 低所得者層や移民が多く暮らす南の区画は、今日も雑然とした空気に満ちている。

 その一角にあるせまごういんわきべやからは、少女のため息と独り言がもれていた。

「うーん、あと三日ぶんかぁ」

 かき集めた銅銭と薬包をこうに見て、ぎよくれい卓子つくえの前でうなだれる。へやにいるのはもちろん玉玲一人だ。必死に働いている団員たちと重い病の養父に、余計な心配をかけたくない。家計のやりくりをまかされている自分が何とかしなければ。

 卓子にしながら悩んでいると、とつぜん房のとびらが開き、だれかが中に入ってきた。

 顔を見なくても誰であるかはわかる。こんな無神経なまねをするのは、団員では一人だけ。兄弟子のうんらんだ。まったく、入る前に声をかけろと何度も言っているのに。いちおう今年十七になるしゆくじよの部屋だぞ。

 玉玲はのっそりと振り返り、雲嵐をするどくにらみつけた。

の薬か?」

 玉玲の視線など石にきゆう、全くこたえていない雲嵐は、卓子の上をのぞきこんで尋ねる。

 この兄弟子にだけは、もう何のえんりよもしてやるまい。

「うん。次のぶん買うお金が集まらなくて」

 玉玲ははっきりと実状を伝えた。

「俺たちの収入だけじゃ、たりないのか?」

「ちょっとね。京師の家賃って結構かかるし、薬代すごく高いから」

 京師に名医がいるという話を聞き、嶺安に移り住んで半年。生活費とりよう費で、各地を旅してかせいだお金も底を突きかけている。雲嵐や他の団員たちが京師で働き、お金を入れてくれているが、それでも追いつかない。

「あの医者、少し名が知れわたっているからって、ぼったくってんじゃないだろうな」

「そんなことはないでしょ。実際、京師のお医者さんにてもらってから、師父のしようじようは少しよくなったし。他のお医者さんじゃ、悪化する一方だったんだから。ここでの生活をやめるわけにはいかないよ」

 玉玲は養父の病状に思いを巡らせる。十二年前、一度病にたおれはしたが、養父はその後回復し、しばらくは何事もなく旅を続けられていた。再び病を得て倒れたのは、二年前の話だ。そこからどんどん悪化して、今では立ちあがることもできなくなっている。とても連れては回れないし、こんな状態の養父を京師へ一人置いていくわけにもいかない。

「せめて京師で公演できればいいんだけどな。俺たちだけでもさ」

「嶺安はしんせい時に必要な上納金が高いからね。うちのざつだんではまずはらえないし」

 嶺安で公演できるのは、京師にきよてんを置く大型雑伎団くらいだろう。自分たちのような総勢十名の弱小雑伎団では手のほどこしようがない。

 公演も移動もできない。かといって、団員たちの稼ぎでは薬代をねんしゆつすることもできず。つまりは八方ふさがりというわけだ。このままでは。

「ねえ、私も町で働けないかな?」

「そしたら、師父の看病やこの家のことは誰がやるんだよ?」

 ずっと考えていた意見を伝えると、雲嵐はすぐに難色を示した。

「でも、薬がなければ師父の病はよくならないんだよ? 私が稼ぎまくれば、けいたちがたくさん働かなくてもよくなるし、そしたら、みんなで師父の看病ができるでしょう?」

「稼ぎまくるって、お前が働いたところで、俺たち以上の稼ぎは得られねえだろ」

「それがね、私、聞いちゃったんだ。男以上に稼げる仕事があるって」

 玉玲は立てた人差し指を左右にらし、不敵な笑みを浮かべる。

 町でひそかに働き口を探していて、情報を得たのだ。女にしかできない破格の仕事があると。

 養父の薬代を捻出するためには、これしかない。

「よし、決めた。私、そこで働くことにする! 師父のことはお願いね!」

「って、おいっ。玉玲!」

 突然走り出した玉玲を、雲嵐が直ちに呼びとめる。

 だが、すでに扉を開けていた玉玲は、振り返ろうともしない。

 疾風はやてのごとく院子なかにわを横切り、門から四合院の外へと飛び出していく。

 嶺安の町にはゆうやみせまり、西の外壁の奥に太陽がかくれようとしていた。

 仕事を終えた労働者たちが、つかれた顔でみちを歩いている。

 うすよごれた狭い路を、玉玲はひたすら北へとけた。

 皇城のある北の方角へ進めば進むほど路は広くなり、はなやかさをまとっていく。建物もうらぶれた民家から立派な造りのていたくへ。しゆろう旅籠はたごといった商業せつもぽつぽつと並び始める。

 赤いかわら屋根のはいろうをくぐると、町のふんががらりと変わった。建物の柱やきようにはいろあざやかなさいしよくが施され、どののきさきにもあやしげな光を放つ提灯ちようちんがつりさげられている。かんらく街だ。

 まだ冬だというのに、しゆつの高いじゆくんをまとった女性が、路行く客にしゆうを送っている。

 玉玲は全速力で通りを駆け、ひときわごうしやな建物の前で足を止めた。

 ここが京師で一番羽振りがいいと言われている店、こうしゆんいん

 ちんきんが施されたりの扉をたたき、まずは元気よくあいさつをする。

「ごめんください!」

 しばらく待つと、むなもとの開いた赤いうわぎに、ももいろスカートを合わせた女性が現れた。年は四十手前くらい。しようくて美しいようぼうをしているが、ねんれい的にここの経営者だろうか。それならばちょうどいい。

「何だい? これから営業が始まろうって時に」

「私、曲芸師をしている玉玲っていいます。私をじよとしてここで働かせてください!」

 玉玲は勢いよく頭を下げ、単刀直入に申し出た。そう、妓女になるために。

 養父の薬代を捻出するためには、ろうで働くしかない。

じようだんはよしておくれよ、おじようちゃん。京師ではね、子どもは妓女になれないんだ」

「私、子どもじゃありません! これでも十七です!」

「えっ、十七っ!?」

 女性はきようがくに目をき、声を裏返した。

 そこまでおどろかなくてもいいのに。年齢を言うと、だいたい似たような反応をされるけど。

 玉玲はじやつかん落ちこみつつ、自らの容姿をかえりみる。目はぱっちりとして大きく、鼻と口は小さい。いわゆる童顔だ。一つに編みこんでいるだけのかみがたも、顔立ちの幼さにはくしやをかけているかもしれない。体つきはきやしや。子ども並の身長である。あさいろひとえに白いズボンという色気のない格好もまずかったか。せめてしようだけでも女性らしい襦裙にしていれば。

 考えなしに飛び出してきたことを反省していると、女性が玉玲を見回しながら言った。

「十七なら問題ないけど、その顔と体じゃねえ。胸なし、くびれなし、色気なし。はい、失格」

「ええっ、そんなぁ!」

 そつこうで不合格を申し渡され、玉玲は不満の声をあげる。確かに、胸も括れも色気もかいなのだが、はい、その通りです、と言って引き返すわけにはいかない。

「お願いします! 私、体力と体のじようさだけは自信があるんです。妓楼って芸を売る女性もいるんですよね? つなわたりでも皿回しでも何でもやりますから、ここで働かせてください!」

「だめだめ。体力があって丈夫な男ならたくさんいるんだ。芸っていっても曲芸じゃねぇ。あんたじゃ売り物にならないよ。帰った帰った」

 女性はようしやなく玉玲のかたを押し、入り口から突き出そうとした。すると、

「まあ、待ちなさい」

 玉玲の後方から取りなすように男性の声がひびく。

 り返ると、深緑のちようほうをまとった中年男性が立っていた。

 常連客のかんなのか、女性が「これは官人様」と言って胸の前で手を重ね、きようしゆする。

 男性は玉玲へと近づき、顔や体を観察して、こういた。

「君、何でもすると言っていたね? いい仕事があるよ。新米妓女くらいの給金にはなる」

 玉玲は目を見開くやいなや、その話にらいつく。

「教えてください! 何ですか?」

 男性はニヤリと笑って答えた。

「後宮の宮女だ」

「……宮女?」

こうてい陛下のしように仕えたり、後宮の雑事を処理する下働きのことだよ。最近、後宮で流行はやりやまいまんえんしてね。人手不足なんだ。体が丈夫で体力のある若い女性を探している。どうだい?」

 思いがけないかんゆうに、玉玲はしばしもつこうする。

 うまい話には裏があると言うけれど、お金をもらえるのであれば、どんな仕事でもしたい。

「給金って、具体的にいくらもらえるんですか?」

「月に五百げんだ」

 予想以上の金額に、玉玲は目の色を変える。五百阮といったら、あにの月給の倍だ。団員が誰か仕事をめても、かなりのたしになる。

「ぜひお願いします!」

「待ちな!」

 がおで応じる玉玲だったが、話を聞いていた妓楼の女性が引きとめた。

「官人様、かんべんしてやってください。こんな子どもをちようしゆうしようだなんてかわいそうですよ」

「私、十七ッ!」

 玉玲はそくに主張する。もう忘れたんかい。

「お嬢ちゃん、悪いことは言わないよ。宮女だけはやめておくんだね。あそこの仕事はきつくて、朝から晩まで働き通し。年季が明けるまで最低三年は外に出られない。皇帝陛下や最近ぎになられた太子殿でんれいこくな方だって聞くし。何よりね、後宮にはこわうわさがあるんだよ」

「……怖い噂?」

「ここのところ毎年必ず、原因不明の病が流行するんだ。何名もせいになるらしい。命がしいのならやめときな。それに、もう一つ。後宮の北側には──」

「やめてくれ、仮母おかみ! そんな噂が流れているからだれも宮女にはなりたがらないんだ。早く人を集めろって、上官にどやされる私の気持ちにもなってくれ」

 女性が何かを語ろうとしたところで、男性がしようそうをあらわに口をはさんだ。

 何やらいわくつきの仕事らしいが、お金さえもらえるのであれば構わない。

「宮女の給金って、先払いは可能ですか?」

 玉玲は女性の話をあっさり受け流し、男性に大事なことをかくにんした。

「ああ。応じてくれるなら、私が上にかけ合ってやろう」

「じゃあ、よろしくお願いします!」

「ちょっとあんた! あたしの話、聞いていたのかい? 危ないよ。生きてもどれるかどうか」

「大丈夫ですよ。私、今までに一度だって病気になったことはありませんから。それに今、どうしてもお金が必要なんです。大切な人を助けるために」

 心配してくれた女性に、ゆずれない思いを伝える。

 捨て子だった自分を拾い、愛情を注いで育ててくれた養父。彼を助けるためなら、どんなことだってする。たとえ、この先にどんな危険が待ち受けていようとも。

「じゃあ、明日あしたさっそく城まで来てもらえるかい? 検問所でしようしよしゆちんに会いにきたと言えばいいから」

 男性が少しホッとした様子で玉玲に指示を出す。

「わかりました!」

 玉玲は大きくうなずいて答え、未知なる後宮生活に思いをせたのだった。


    ***


けい。私、しばらく後宮で働くことになったから。三年は戻ってこられないと思うけど、毎月お金は送るから、後のことはよろしくね」

 一大決心をした翌日、正房おもやおとずれた玉玲は、しんだいに横たわっている養父とそのそばにいる雲嵐に、あっさり別れの挨拶をした。

 養父は閉じていた目を丸くし、雲嵐は「は? 後宮?」と言って、耳の穴をほじる。

「何ぼけたこと言ってんだ。お前みたいなちんちくりんのじゃじゃ馬が、後宮なんかでやとってもらえるわけねえだろ」

「失礼ね! もうしんは通ってるよ。すぐにでも来てくれってこんがんされたくらいなんだから」

 玉玲は目を三角にして主張し、得意げに胸を張った。

 午前中さっそく城におもむき、簡単な面接を経て宮女になることが決定したのだ。人手不足は相当深刻なようで、誰でも合格できるような審査ではあったけれど。

「お前が? その話、絶対裏があるって。相当やばい仕事だろ」

 雲嵐のてきに、玉玲はギクリと肩をふるわせつつ答える。

「そんなことないよ。そうせんたくおもだと言ってたし。大丈夫だって」

 いわくつきの仕事であることは言わない方がいいだろう。兄弟子にこれ以上あなどられたくないし、養父に余計な心配をかけたくない。

「玉玲、後宮で働くなんておやめ。お前は気立てがよくてかわいいから、高貴な人にめられて、きさきにされてしまうかもしれないよ?」

 不安を押しかくしていると、養父が親バカ全開の疑念を向けてきた。

 彼は芸事に関しては厳しいが、基本はやさしい性格で、玉玲を実のむすめのようにできあいしている。

「師父、その心配だけは必要ねえから。天地がひっくり返ってもありえねえ」

 雲嵐が玉玲を見て鼻で笑い、養父の肩をポンポンと叩いた。

「何か、めっちゃ腹立つけど、師兄の言う通りだよ。心配しないで、師父。私みたいな下っは皇帝陛下の目にふれる機会もないみたいだし。ただの雑用だって。掃除も洗濯も料理だって得意だから大丈夫」

 玉玲は兄弟子へのいらちをどうにかおさえ、養父にこんこんと言い聞かせた。

 働きに出ている団員たちの代わりに、家事はすべて自分が担当していたのだ。特に料理は京師みやこに来てからめっきりうでをあげ、団員たちから賞賛されることも多い。

「でも、三年も戻ってこられないんだろう? 私なんかのために、これ以上お前に不自由な思いをさせるわけにはいかないよ」

 ゆううつそうに顔をくもらせる養父に、玉玲はかぶりを振って主張する。

「ううん、師父。これは師父のためというより自分自身のためなの。私、またみんなで各地をじゆんぎようしたい。そのためには絶対に師父が必要なの。だから、師父は私のためにりように専念して。三年たったら必ず戻ってくるから」

 玉玲の一番の願い。それは養父に早く元気になってもらうことだ。しばらくはなれて暮らすのはつらいけれど、願いをかなえるためならどんな苦労もいとわない。

 決意の強さを伝えるように見つめていると、養父はいつになくしんみような顔をしてこう言った。

「ならば玉玲、一つ約束しておくれ」

 どんな難題を言いわたされるのだろうと、身構える玉玲だったが。

「仕事を楽しむこと。お前が幸せに暮らしてくれなければ、私の病なんてえないよ。だから、いつでも笑っていておくれ。周りの者まで笑顔になるように」

 思わぬ言葉を耳にして、体から力がける。養父もがんなところがあるから、絶対にしぶられると思っていた。反対されたらひそかに家を出ようとしていたのだけど、顔を見ただけでその考えも全部読み取ってしまったらしい。養父は玉玲のことを知りくしている。止められないのであれば、どうすることが玉玲にとって一番いいか考えるはず。

 仕事を楽しむこと。今の言葉がその答えだ。

「わかった。約束する」

 玉玲は感謝の気持ちを胸に告げた。養父の言葉がなければ、つらい心境のまま仕事にのぞんでいただろう。信念を持って働けば、これからの三年はきっと有意義なものになる。

 一気に心が軽くなり、がんばろうという気持ちが増した。

 養父のために、自分自身のためにも仕事を楽しむのだ。

 決意を新たにして養父を見つめ、兄弟子に視線を移す。

「お前は、一度決めたことは絶対ゆずらねえからな」

 雲嵐は深いため息をつくと、玉玲から顔をそむけ、素っ気なく言った。

「さっさとかせいで戻ってこいよ。お前みたいなのでも、いちおううちの花形なんだからな。お前がいねえと、ここから動けねえ」

 ぶっきらぼうな態度の中に隠された思いを感じ取り、玉玲の胸は熱くなる。

 彼は、待っていると言ってくれているのだ。いつも小言ばかりで無神経だけれど、仲間として誰よりも自分のことを認めてくれている。

「うん。戻ったら絶対にまたみんなで旅をしようね!」

 玉玲は全開のがおこたえた。二人に少しでも安心してもらえるように。胸に残る不安を全てき飛ばすように。この日の約束と笑顔を忘れずに生きようと固くちかったのだった。



 十二体のを頂くがわらが、昼下がりの日差しを受けてさんぜんときらめいている。

 五百年という長きにわたって、暘ていこくの中央部にちんしている皇宮・えんじよう

 建物の数は七百をえ、部屋数は八千室におよぶという。京師の北部にじんるこのきよだいな宮城が、今日から過ごすことになる玉玲の新しい職場だ。

 いくつもの門を抜けると、その奥にもう一つの異質な町が広がっていた。

 高いへいに挟まれたこうしようみちいろあざやかなさいしよくほどこされた圧巻の建築群。全ての建物のりようには、ちんきんによるりゆうほうおうの文様があしらわれている。延々と続く路にかれているのは、かんはくぎよくと呼ばれる白大理石だ。そうだいな規模と神秘的なそうしよくに、ただあつとうされる。

 ──ここが暘帝国の後宮。

 玉玲は漢白玉の路を歩きながら、せんかいのごとき光景に目をうばわれていた。奥へ進むにつれて緑が広がり、はすいけに面して築かれたろうだいや、せきを積み上げたざんまで見える。

「何をしているの? さっさとしなさい」

 思わず立ちどまり見入っていると、前方にいた案内役の宮女がかしてきた。

「はい、すみません!」

 玉玲はあわてて謝り、宮女の後を追う。

 宮女は玉玲を宿舎に連れていき、簡単なれんらくこうを伝えると、すぐに去っていった。別れぎわほかにわからないことがあったら同室の宮女にけと、つけ加えて。

 かなりいい加減な対応だ。まあ、みないそがしいのだろう。宮女の仕事はきついと聞くし。

 玉玲は気を取り直して、指定された部屋に足を運んだ。

 石のゆか衾褥ふとんが四組だけ置かれている。四つ敷けばいっぱいになりそうなほどせまくて簡素な部屋だ。ここへ来るまでに見た、きらびやかな光景からはほど遠い。

 ぼんやり観察していると、宮女のお仕着せを身にまとった少女が近づいてきた。

 楽しく仕事をするために、職場の仲間と仲よくなることは重要だ。

「こんにちは。私、今日から働くことになった玉玲っていうの。どうぞよろしくね!」

 玉玲は少女に元気よくあいさつをする。

 しかし、返事はない。足早に後ろを通りすぎようとする。

「ねえ」

 かたつかんで呼びかけると、少女はめいわくそうな表情で口を開いた。

「あなたは売られてきたの? それとも、身内が借金でもした?」

 とうとつな質問に、玉玲はただ目をしばたたく。

「今、宮女になるのは、そういった子ばかりよ。こんな死ととなり合わせの場所で働くのは、よほどの事情があるか、無知な田舎者くらいね。みんな三年無事に生きのびることで必死なの。これからは必要事項以外話しかけないで」

 少女は生気のない目をして告げ、玉玲に背中を向けた。

 すさんでいる。人も空気も。玉玲は明確に感じ取る。後宮を奥へと進むにつれて悪くなる空気が、実は気になっていた。黒くにごったもやがうっすらとただよってえたのだ。その空気のえいきようで、少女は心まですりきれてしまったのだろうか。

 構わず、玉玲は再び少女に話しかける。

さいじんっていう人がどこにいるか知らない? その人に仕えるように言われたんだけど」

 少女はため息をついてり返り、気の毒そうに玉玲を見た。

「あなた、ほんとついてないわね。よりによって、李才人だなんて」

「何か問題がある人なの?」

「新人いびりで有名なのよ。できないことをやれと命じたり、いん湿しついやがらせをしたり。下級ひんなんて主上のお渡りはまずないから、宮女をいじめてさばらししてるんでしょうね。私の主人も意地悪だけど、李才人よりはましだわ。せいぜい気をつけることね」

 情報はおんなものだったが、玉玲は温かい気持ちになって礼を言う。

「ありがとう。いろいろと教えてくれて」

「べ、別に」

 少女はぶっきらぼうに答えると、かすかにほおを赤く染めて去っていった。

 根はいい人なのかもしれない。おそらく後宮の空気にせんされて、ちょっぴり心がすさんでいるだけなのだ。空気さえよくなれば、本来の性格を取りもどせるのではないだろうか。きっと彼女や周りにも笑顔が増えて、自分も楽しく仕事ができるはず。

「よし、がんばろう!」

 玉玲は両頬を軽くたたいて、気合いを入れ直す。養父の薬代を稼ぐために、そして少しでも後宮の空気をよくするために、できる限りのことをしよう。

 こうして、じやつかんの不安と大いなる決意を胸に、玉玲の後宮生活が始まった。

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