一章 陰険根暗げじげじ教授①
なーんて、
お母さん、あなたの
半年前は就職活動に明け暮れてましたね。何十社も
「何だ、このレポートは?」
乱暴に
たった今入ってきた
彼らの前には、私がこの異世界に来て初めて出会い、私が生きていく手助けをすると約束してくれた、エメリヒ・ローゼンシュティール教授がいる。黒絹の髪に、宝石をはめ込んだような深い輝きの青い
アーベント王立学院
恐る恐る男子学生の一人が訊ねる。
「ど、どこか不備がありましたか?」
「不備だらけだ。まず読みにくい。そもそも誤字が多い。助詞のミスも多い。語順もまずい。なぜ簡潔に書けない? ダラダラと分かりにくい接続で一文が長い。この文章で何が言いたいのか全く理解できない。こんなものを読まされるこちらの身になってみろ、読むだけ時間の
気が遠くなった私は、彼の背後にかけられたタペストリーへ見るともなく目をやった。星のモチーフにいくつもの円や
神経質そうに教授の指先がコツコツと
「とにかく、明日までに書き直してくるように。指摘した部分が直っていなければ次はない」
「そ、そんな!? 明日までなんて無理です!」
「王立学院の学生ならば
「っ……!」
にべもない教授に、学生さんたちは
「『悪魔』め」
「おれ達と
「しっ、聞こえるぞ」
彼らはもごもごと毒を
「何の用だ?」
「あ、は、はい。実技用のホールの貸出
「それは昨日
「す、すみません……」
「それほど
「いえ、まだ新人なので、
「話にならないな」
あの夜の印象が
「すみません。次はすぐに作れるように努力します」
「努力だけか? 結果に結びつかなければ意味がない」
こっちは反省しているのに、この追い打ち。ほんっとうに
「はい、すみません。あの、ではこれで失礼します」
「待て」
「はい?」
「読み書きに加えて、もうそろそろお前も魔術の
「はあ、魔術……」
ローゼンシュティール根暗教授が何を言わんとしているのかいまいちよくわからない。首を
「お前も『旅人』だ。学院で収まらずに領地の役に立つことをしろ」
「はあ……それが、魔術を学ぶ、ですか?」
「そうだ。本来ならば基礎魔術など家庭教師か
「はあ……つまり?」
段々
「この私が直々に教えてやろう」
「嫌です!」
とっさに本音が出た。
「何だと?」
「あー、えっとぉ。教授はただでさえお忙しいでしょうから……」
「問題ない。『旅人』は大きな魔力を持っている。魔術を身に付けることは急務だ」
「でも、教授が教える必要はないですよね?
「ルートヴィヒの
私の意思は無視か! ムッとしたけど、言い返すなんてできず、私はちらりと後方確認した。
「私は
「おい、待て!」
待てと言われて待つ
全速力でカーブした
「きゃっ」
「いったた……」
しりもちをついてしまい、痛みに
「ちょっと! どこ見て歩いてるのよ!」
頭上から
ぶつかったのは人だったのか!
「ご、ごめんなさい!」
「無礼者! アンタの手なんかいらないわ!」
赤毛の少女に
彼女はオリヴィエというらしい。自己
「やめなさい、オリヴィエ」
「でも、お嬢様!」
白銀の
オリヴィエちゃんが仕えているご令嬢というのは、なんとあのローゼンシュティール教授の
オリヴィエちゃんが付き従って助け起こそうとしているということはつまり、この少女が例の教授の婚約者なのだろう。
「申し訳ありませんでした。私の不注意です」
声に力をこめて頭を下げる。
「悪いと思っているなら、今度からこんなところを走らないでちょうだいね」
「そうよそうよ! 育ちが悪いったらない!」
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
なるほどたおやかで
私はもう一度頭を下げた。下を向いた視界に、ふわりとたわんだドレスの裾に細い手が動くのが映る。床に散らばった書類を拾い上げて、目の前に差し出された。
「お仕事ご苦労様。もう
「あ、ありがとうございます……」
慌てて顔をあげて受け取る。にっこりと柔らかく
「お嬢様は優しすぎます!」
「オリヴィエ、もうやめてちょうだい」
「でも、お嬢様! 教授はお嬢様の婚約者なのに、こんな
「何度も言いますが、私はただの事務員で、教授とはお仕事以上の関係はありませんから」
オリヴィエちゃんには何度も説明しているけど、わかってくれない。だいたいあんな根暗で口うるさい人なんか、いくら美形でもこっちから願い下げなんだけどなあ。
「身のほどを知りなさい。アンタとお嬢様じゃ勝ち目なんてないのよっ」
「オリヴィエ!」
お嬢様はひとつ大きなため息を
「教授が待っていらっしゃるわ、行きますよ」
「あっ、お、お嬢様!」
ドレスの裾を
***
私が今いる、アーベント王国が
城の中は聖堂や中庭、図書館や式典のためのホール、食堂に学生や教授の生活する
『塔』の階層が上になればなるほど小難しいことを教えている教授の研究室や住居があるし、下になると授業のための講堂や実技演習をやるためのホール、そしてその足元に城館がつながっていて、学生と教授をお手伝いする私達事務員の
階段の合流する
事務棟の騎士科担当と魔術科担当には境目はないけど、ひと目でわかる。なんとなく金ぴかの
気を取り直して中に入ると、吹き抜けで
学生さんのサポートをする学生課、教授の授業の要望を聞いて講堂や授業時間を配分して教授と学生の
「ただいま
「おかえりなさい、シノブさん」
「おかえり、シノブー」
「テオさん、聞いてくださいよ~」
テオさんは私の指導役の
もう一人
「ローゼンシュティール教授と
「あっちの問題です。いちいち細かいんですよ! 努力は結果に結びつかなければ意味がないって、
「まあ正しい
「テオさん?」
「毎年いるんですよねえ。自分は大物だと言うばかりでレポートひとつまともに提出しない学生さん」
「ああー、オレの同期にもいたっすね。
ユリアンが頭の後ろで両手を組みながら同意する。彼は商家の
「それは……努力すらしてないですよね」
「そうそう! その点シノブは
「『旅人』だから仕方ないとはいえ、半年でよくここまでやってますよ」
「あ、ありがとうございます……」
照れくさくなって
こちらにやってきた人間は『
こっちに迷い込んでくる人は今までにもいたらしい。そして、私もそのうちの一人。
今までやってきた『旅人』が残した技術はそこここにあって、それは書物に使われている紙一枚とってもそうだ。製紙や印刷の技術、上下水道、ふとしたところで元いた世界の気配を感じる。
『旅人』が暮らしに何らかの
運がよかったことに、私があの
『旅人』だからといってそこら辺で遊ばせることが保護ではない。何かしら学ぶか働くかしながら暮らすことを
「教授っていつもあんな感じなんですか? さっきだって学生さんに『こんなものを読まされるくらいなら古代
「ローゼンシュティール教授、やる気のない学生さん相手には
テオさんは話しながらも手を動かして書類を完成させた。書き終わった紙のインクに息を吹きかけるように何か唱えて、風の魔法で
「ローゼンシュティール教授、色々
「あ、私もそれ聞いた。本当のことなの?」
「さあ? 貴族の教授や学生からはよく思われてないっぽいっすよね。なんか、キレるとヤバい人だとか」
「いつもキレてますけど……?」
「あれ以上にヤバいんすかね?」
ユリアンと二人して首を
「まあ、
「そんなこと言っちゃって、テオさんだってこないだローゼンシュティール教授の無理難題に
「あれはね、受講者全員に羽ペンを
先輩から
「えーっ、マジっすか! 羽ペンは
その基本を知らなかったやつの担当助手が私だ。タラリと背中を
テオさんは変わらず眼鏡を拭きながら、ごく静かに話す。
「ローゼンシュティール教授はね、
「そ、そうなんですね?」
「その分知らないことも多くて、貴族だから羽ペンのときみたいに予算を度外視しているところもありますし……少しでも
「た、大変ですね」
私の言葉にテオさんはスッと顔をあげる。かけ直した眼鏡が反射してギラリと光った。
「
「は、はい」
思わずピシリと姿勢を正す。テオさんは落ち着いていて冷静なのに、漂ってくる圧力はただごとではなかった。
「新人同士ということで
「ふぁ……は、はい……がんばります」
普段
本能的な
***
まあそんなこんなで、苦労の絶えない毎日だけど、学生さんとは何とか上手くやっていると思う。
お昼は学院にあるテラスや食堂で教授、学生に交じって職員も食べていて、
「こんにちは」
「こんにちはー」
ぺこりと
「シノブさん。よかったらここ、どうですか?」
テラス席のひとつから学生さんが手招きしてくれる。そばには大きな木が
「僕たちはもう終わって出るところなんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございまーす」
同席するのは
「いただきまーす!」
スプーンを手にお肉をひとかけすくって口に運ぶ。よく煮込まれてホロホロ
もうひと口、とスプーンで今度は野菜をすくおうとしたところで、頭上から何かがポトリとテーブルの上に落ちてきた。木の葉かなと気にせず食べ続けるつもりだったのに、視界の
「あ、シノブだー。ここ相席してもいいっすか?」
午前中の仕事を終えたユリアンがトレイを持ってやってくる。同意する前にもう座っているのが彼らしい。
「あ、毛虫」
テーブルの上を
「……助かったよ、ユリアン」
「? どういたしましてー」
お礼の意味が分かってなさそうだ。スプーンを持つ手を止めて、辺りを
「ねえ、この辺は魔術科の席って決まりでもあるの?」
そうじゃなければ毛虫が落ちてくる心配なしに食事ができる校舎側に座ってみたい。
「
「暗黙の了解?」
「そっす。騎士科の連中は学院で一番高い授業料を払って通ってるし、一番の
「なるほど」
「んで、オレのいた商科はお祭り好きが多くて学生生活
「パリピでリア
「ぱり? りあ?」
「何でもない。じゃあ魔術科は?」
「魔術科は……担当学科にこういうのも悪いっすけど、暗いっす」
「……確かに。大人しいっていうか」
ユリアンの
「そもそも魔術って、オレらも日ごろ風の魔術で書類のインク
「わかる。しかも服装はいつも真っ黒なローブだし」
「あれ、もっと派手なやつじゃダメなんすかね? 服もっすけど、
身を乗り出して話に熱中しそうになりかけてハッとする。いやいや、昼
「つまり、魔術科は
「きゃ?」
「なんでもない」
***
盛り上がるつもりはなかったのに、ユリアンの話が
そんな
午後からは資料を運ぶお仕事を言いつけられて、指定された
「持ち出し禁止、ですか?」
「はい、ご指定のリストのここからここまでは王国指定の重要図書ですので」
「授業に使うものなんですけど……」
「申し訳ありません、規則ですから。他は貸出可能なのですが……」
「ですよね……」
申し訳なさそうな司書さんに同意しながら
「お困りですか?」
背後からの声に振り向くと、
「ギレスさん」
「こんなところで会うなんて
ギレスさんは私に向かってにっこり微笑んだ。
ハーラルト・ギレスさんは魔術科の学生で、イケメンの多い騎士科と人気を二分している、魔術科唯一のイケメンだ。騎士の
「教授のおつかいで来たんですけど、持ち出し禁止の図書があって……」
「ああ、なるほど」
「それじゃあ、魔術で複写を作ってもらうといいですよ」
「複写?」
つまり、コピーということだろうか。コピー機はないけどコピーする魔術はあるんだ。便利だな。
「今日はまだ複写できる魔術師が残っているはずです。運が良かったですね。レポート期限前なら全員魔力切れで出来ないこともありますから」
「複写をご希望でしたら、こちらの書類に記入をお願いします。ページ数を指定してください」
「ページ数……」
「教授もそう考えてたんでしょうね、裏面に書いてありますよ」
カウンターのリストをひっくり返したギレスさんがほらね、と笑う。
無事目当ての書籍とコピーの束を手に入れられた私はギレスさんに心からお礼を言った。
「ありがとうございました、ギレスさん。おかげで教授に
「どういたしまして。ついでに運ぶのを手伝いますよ。その量は重いでしょうから」
彼は断ろうとする
「ありがとうございます」
「どういたしまして。シノブさんも毎日大変ですね」
「ですねえ。でも楽しいです」
「楽しい?」
きょとんと首を
「楽しいんですよね、これが。毎日わかんないことだらけだし、怒られてばっかりですけど。わかんないってことは、まだまだできるようになるってことだから、かなあ」
「なるほど」
ギレスさんは
教授の研究室は講義室と続きになっていて、
「失礼します」
ギレスさんと
「メモのページにしおりを。それから年代順に並べておくように」
「メモ……」
指示されたメモを手に取ると、裏面まで細く小さな字でびっしりと書籍名とページ数が書かれている。そしてしおり代わりに使えというのか、細長く切った紙切れが山ほど置かれていた。
「わ、っかりましたぁ」
「手分けしてやりましょう」
「えっ」
しおりをひと
「かなりの量ですし、こういうのは慣れている人間が手伝ったほうが早く終わりますよ」
そう話す間にしおりをひとつもう
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして」
サラリと親切にしてくれるところもイケメンだなあ。心の中で後光が差してるギレスさんを拝みながら、作業を始める。
手伝ってくれたおかげでしおりは指定されたページに大体挟むことができた。
「あちらにも学院と似た場所があるんですね」
「そうですね。あっちでは、大学って言うんですけど。私も通ってました。ほとんど遊んでたみたいなものですけど……」
「遊ぶ? 学ぶ場所なのに?」
「えーと、授業は
サークル活動のことを説明するのってなかなか難しいな。指定されたしおりの場所もあと少しだ。手を止めないように気を付けながら、さらに続ける。
「
「それですよ、シノブさん!」
「へっ?」
ちょうど最後のページにしおりを挟み終えたところで、ギレスさんにパッと両手を掴まれた。顔をあげると思ったより近いところに鼻先があってびっくりする。
「学園祭ですよ!」
「あの、ギレスさん、ち、近いです……」
「あ、す、すみませんっ」
ギレスさんは
「学園祭が、どうかしましたか?」
「あ、ああ。シノブさん、さっき言ったじゃないですか。学園祭は、普段閉じた空間の中で学生が何をやってるのか理解してもらうイベントだと」
「はい」
「
「そうなんですね……」
お昼のテラスでの光景やユリアンとの話が頭に
「学生主導で、魔術の
「できると思っているのか?」
「どういうことですか?」
「仮にその学園祭とやらを開催するとして、具体的にどう計画する?」
「それは、僕たちで考えて……」
「学生主導であっても、魔術科の名前を使うなら教授全員の許可が必要になる。
「それも、やります」
「そうか。だが何より、
「それは……」
ローゼンシュティール教授は表情ひとつ変えずに冷静に告げた。
「空想するだけなら誰でもできる。実行するには
「ご指摘はもっともですけど、そんな風に切り捨てなくてもいいじゃないですか! 学生さんの自主性をもっと大事にしてくださいよ!」
「自主性? 計画や下調べもなしに行動させることが自主性だと?」
鼻で笑う
「きっかけはそうかもしれませんけど、失敗を
「失敗しなければ学ばないのか? それほど
「そりゃ教授は生まれた時から天上天下
言い
「なるほど。
ぐっと言葉に
「じゃあ、私が責任を取ればいいんですね」
「シノブさん!?」
ギレスさんが止めるように
「手続きは私が全部調べて学生さんと一緒にやります。教授の許可も私が取ります。日程の調整? 施設の手配? 予算? 私が全部やりますから!」
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