プロローグ

「……ここ、どこ?」

 夜の森だった。街灯もない、やみの中、はだかの木々の黒いかげ、うっすらと積もった雪が白々と光っている。頭上には月がかがやいていた。月明かりが降り注ぐように、ここだけがぽっかりと平らな地面をさらしていた。

 背後をり向くと、ふんすいがある。雪と同じように光を受けて発光しているような白い大理石で造られた噴水。

 中央にはつぼを持った女性のちようぞうが水を注いでいる。寒さでふるえの止まらないかたをさすりながら観察するが、どれも見覚えのない場所だった。

 私はさっきまで駅前にいたはずだ。

 ぎようの採用面接の帰りで、あまり上手うまくいかなかった。もう何十社も受けていて、どこも二次三次までは進むけど、最終面接にはたどり着けない。

 しかも今日はうわさあつぱく面接を体験する羽目になった。「真面目まじめって、つまりは頭が固いってことでしょ?」なんて笑われて、あいわらいを返すしかできなかった。心の中では「こっちだっておんしやみたいなネチネチした質問する会社お断りだよ!」って食いしばった歯の下から言ってやった。

 散々な気分で電車に飛び乗り、家のり駅に着いたころにはへとへとだった。

 電車の中も満員で座れなかったし、家に帰る前に少しだけ休みたい。目の前にあった駅前の噴水にこしけた。コンクリートでできた台座のふちはおしりが冷たくなったけど、それよりもつかれがどっと押し寄せてきて身体からだなまりのように重たくなった。

 いつしよねむもやってきて、まぶたが重力に逆らえなくなって、意識が遠ざかる前に自分の首がこっくりと大きくふねいだのは覚えている。

 耳を打つ水音にハッと目を開けた時にはもう水中だった。

 あわててもがいたけれど、どういうわけか引っ張られるようにドンドンしずんでいく。意識が遠のきかけた時、わらにもすがるようにばしていた手の先にかたいものがれた。噴水の縁だと思って必死につかんだ。すると底なしに思えた水の中で足がついて、なんとか身体からだを支える。力を振りしぼってしがみつき、噴水から転がり出るようにい降りた。

 もう一度辺りを見回した。住んでいた大学前の町は今の時季はまだ雪は降らないはずだし、噴水もコンクリート製のはずだ。でも目の前にあるのは大理石の噴水だ。

 何が起こったのか理解できないままぼうぜんとしていると、今度は急に地面が光りだした。

 光を中心につむじかぜが起こって、かみがバサバサともてあそばれる。顔の前に手をかざしてまぶしさに目をすがめながら見ると、円に文字や図形がき込まれた模様がかび上がっていた。──これ、もしかしてほうじんってやつ?

 光が消えた後、目の前には二人の人影が立っていた。どちらも背が高くて大きい。

 私はポカンと口を開けた。おとぎ話でも見ているのかと思った。

 月光の中降り立った二人のうち一人は、背中までの長い黒髪が風にさらわれてさやかにれている。月の光をはじくような白いはだが遠目でもわかった。

 黒いマントに黒のブーツ。全身黒ずくめでかざってはいないのに、かえってれいな顔の造作が、夜の闇の中で引き立つ。

「やれやれ、いつまでってもこの感覚は慣れないな」

 二人の男性のうち、もう一人が肩をすくめた。きんぱつへきがんえわたった目鼻立ちの美男子で、王子様みたいな容姿だ。金銀のしゆうの入ったマントにこいちやかわのブーツを身に着けている。

 どちらの格好も現代人っぽくない。ファンタジー映画か中世ヨーロッパの人みたいな格好だ。

 それに、話している言葉はわからないのに、どういうわけかしゃべっている意味は理解できる。不思議な現象にただただ相手の顔を見つめるしかできなかった。

「後から来ればよかったんだ。その方が僕も負担が減る」

 黒髪の人はげんそうに答える。夜の空気にけ込むような、低く歌うような声だった。

「それはまずいと思うよ。だってほら、君って口下手だし」

 しようした金髪の人は、地面にへたりこんだままだった私のほうに目を向けた。まるで私が来ることがわかっていたみたいに、にっこりと微笑ほほえんでりよううでを広げる。

「初めまして、私はアーベント王国ヴェーヌス領の領主、ルートヴィヒ・クラインベックだ」

「え、アーベ……? あの、こ、ここは、どこですか?」

 まだ震えの止まらない口で何とかたずねる。とつぜん現れた二人に忘れていたが、れたスーツがかわいたわけでもないし、周りに見える雪がなくなったわけでもない。自分をきしめるように両腕で身体をさする。

 二人の男は顔を見合わせた。

「やっぱり、ちがいないか?」

「ああ、『旅人ライゼンデ』だ」

 黒髪のほうがものげに息をいた。雪と草をむ音を立ててこちらに歩いてくる。まだ起き上がれない私の前で彼はひざまずき、おもむろにマントをいで、私の肩にかけてくれた。マントのあたたかさにホッとする。

「あ、ありがとう」

 お礼を言うと、彼は表情も変えずにうなずく。整った白い顔の中、宝石のように輝く青い目がこちらを見つめ、こわっていた肩を大きな手が包み込んだ。それから、何か低い声でつぶやいた。ふわりと全身を温かい風がける。触れてみると、さっきまで身体に濡れて張り付いていた服がすっかり乾いていた。冷え切っていた身体も体温を取りもどしている。おどろいて自分の服と彼の顔とをこうに見た。今のは一体何だろう?

「彼はエメリヒ。エメリヒ・ローゼンシュティール。魔術師で、新米だけど『学院』の教授なんだ」

 ルートヴィヒと名乗った金髪の男性が少しごういんに彼と肩を組む。

「あの、……私、駅前にいたはずなんです」

 ルートヴィヒさんは申し訳なさそうに首を振った。

「君は違う世界から来たんだ、がみの導きで。森に光の柱が立つのが見えて、私たちはここまで来た」

「いやいや、まっさかあ……」

 じようだんめかしてみたけど、道具も使わずに服を乾かしてもらったことや、魔法陣から急に現れた二人の姿を目にして、とてもうそとは思えなかった。

「だって、私、日本に住んでたんですよ? まだ大学生で、就職活動だってしてたし、……お、お父さんとお母さんは? もう、帰れないんですか? 会えないんですか?」

 声が震えた。今度は寒さからでなく、きようどうようからで、しゃべっている言葉は違うはずなのに通じることも、じわじわと現実味を感じさせておそろしかった。

「……残念だけど、あちらから来た人間が元の世界に戻ったっていう記録はないんだ。女神はどういうわけか、時たま違う世界から人間を招き入れる。君のような人は『旅人』と呼ばれている」

「そんな……」

 大学だってまだ卒業してないし、就職活動だってまだ内定をひとつももらってない。一人暮らしの部屋も、冷蔵庫の中に使いかけの食材が残っている。出掛けるときに慌てて準備して、片付ける時間がないまま飛び出してきたから部屋の中もぐちゃぐちゃのはずだ。

 それに、両親にももう会えないなんて。最後にやりとりしたのは電話で、採用面接が上手くいかなくて落ち込んでったときだ。心配ばかりさせて、採用通知とか、親孝行もろくにできていない。やり残したことばかりだ。さびしさに胸がきゅうっと掴まれたように苦しくなる。

 うなだれた私の頭を、そっとだれかがでた。ゆっくりと顔をあげると、エメリヒさんの青い目がこちらをじっとのぞきこんでいる。元々が無表情な人なのかもしれない、感情は読めないけど、私のことを心配してくれているのだろうか。

「僕と、ルートヴィヒが君の家族代わりになろう」

「領主としてかんげいするよ。領民に『旅人』が増えるとは、うちの領地もはくが付くなあ」

 ルートヴィヒさんは腕を組みながらうんうん頷いた。声はかくしきれないほどはずんでいた。冷たい目つきでエメリヒさんがギロリとにらむ。

「こちらの常識や習慣を教えて、生きていく方法を探す手伝いをする」

「え、と、それは、……助かります」

 具体的なことにげんきゆうされると、動揺でいっぱいいっぱいになっていた頭の中が冷静になった。領主っていうくらいのえらい人と教授が手助けしてくれるなら、当面の生活は安心だろう。

 まどいながらも答えると、エメリヒさんは少しだけ口角を持ち上げた。ちょっとの表情の変化でやさしそうに見えるから、美形って得だなあ。目の保養だと思ってまじまじとながめていると、彼はこちらに向かって手を差し出してくる。

「名前を教えてくれないか」

「あ、……シノブ、シノブです。しのぶ

 おずおずとその手を取った。人間ばなれしたぼうに反して、しっかりと体温があって、かたく乾いていた。力を込めてにぎると、それよりも強い力で引っ張り上げられる。へたり込んでいた地面から立ち上がって、向かい合う格好になった。首が痛くなるほど高い位置に顔がある。

「シノブ。君がこの世界で生きていけるように、手助けすると約束しよう」

 月明かりを背に、黒絹のかみが青みを帯びてかがやいている。白いほおに長いまつかげを作り出し、スッとまっすぐ伸びた鼻筋の下、うすくちびるはうっすらとえがいている。かすかな微笑みを浮かべたエメリヒ・ローゼンシュティールは、れするほど美しかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る