第35話

 いつもより一週間が長く感じたのは、あの日の翌朝の彼女と貴子さんとの会話が、気になって仕方がなかったからに違いない。

 連絡を取れるわけでもなし、彼女から電話が来ることもない。当たり前のこととは言え、教習所に向かう車の中でも、既にその後に聞く話に心を廻らせている。


(大丈夫だったのかな~?)


 そんな思いを微塵と見せることもなく、黒ずんだ木の床に足を踏み入れれば、


「こんにちは~」

 と、カウンターの二人の声が迎えてくれる。先週、本を傾けながら聞いた声だ。


 時のスピードを緩めさせた出来事がどこかに引っ掛かっていたらしく、無意識に貴子さんの方へ目を走らせてしまうと、気まずいほどに貴子さんと視線が合い、慌てて私は目を逸らす。もちろんただの偶然と片付けようともした。だが、その怪しく輝かせた目は思い過ごしさえもかき消そうとするのである。

 感情を一切現さぬよう努め、次に目を移した彼女流の挨拶に心を和ませるも、何げなく視線を変えた私はハッとした。貴子さんが横目でそんな彼女の仕草を伺っているのだ。


 これにはさすがに動揺を隠せないとばかり、サッと背中を向けそのままカードを取り出したりするだけで、鼻を擦る余裕もなかった。平然を繕うことで精一杯だった。

 これでは椅子に腰を降ろしても、迂闊に彼女を見ることは出来ない。ずっと俯いたまま私は貴子さんの勘について考えていた。


(もしかして・・・・あの時既に私の顔を見られていたのだろうか・・・・それとも、駐車場に止めてあった車を・・・・まさか・・・・圭ちゃんの車みたいなやつならまだしも・・・・やはり、気のせいだろうか・・・・でも、あの目は・・・・)


 らちの明かない答えに待ち時間はこの上なく短く感じられ、結局、扉を開けるまで一度も彼女を見ることは出来ず、私は路上へと向かった。

 残り数時間になった教習ともなると、さながらドライブに等しく、横に座る教官との雑談に終始すると言っても過言ではない。注意らしい注意も無く、人によっては時間の枠いっぱいに話続ける者もいる。ただ私は横で相槌を打ちながら決められたコースを走り、時には臨機応変にコース以外の道を行くこともあった。学校に来ていることも忘れさせる、そんな一時の時間は楽しさに溢れていただろうか。


 コースも終盤を迎える頃、あと二回に迫った教習について考え出すと、貴子さんの一件が然程深刻なものとして映らないことに気付いた。

 恐らく、もうどうでも良いことだったのかもしれない。

 こんな窓から見る景色も見納めなのかと、至るところに目を向けるうち、私は無性に寂しくなり、残された二週が果てしなく遠く感じて仕方がなった。


「予約をお願いします」

「はい。どうぞ」

「え~と、来週の水曜日」

「何時がよろしいですか?」


 ここに来て何度こんな会話をしただろうか。

 表情一つ変えない彼女を見ながら、とにかく時間が経つのは早いものだと思いつつ、交差点を渡り終える自分に改めて気付いたりもした。 


「え~・・・・九時、十時で」


「・・・・く、九時、十時ですね・・・・お待ちください」


 一瞬の口調の変化は、この二時間を埋めることの意味を、ほかならぬ彼女が理解しているからに違いないと思った。予め押そうとしていた位置から手をずらすと、彼女はキーを黙々と叩いている。至って平然を装い続けるその瞳には寂しさが如実に現れていた。


「大丈夫です・・・・・・入れますか?」

「はい・・・・」

 画面に向かったままの彼女と目が重なり合うことはなかった。


───「でも、いきなりだったから驚いちゃった」

 その夜、彼女はそう言って私に笑顔を見せる。しかし、明るく振る舞おうとする態度はぎこちなさが見え隠れしていた。


「あ、予約のこと。・・・・そうだ。次の日の朝どうだった?」

 体裁の良い理由が思いつかず、思い出したように浮かぶ先週の出来事を尋ねた。

「え!?貴子さんのこと?」

「そう。いろいろ訊かれなかった?」

「ええ。でも、島さんが思ってるほどのことでもなかったですよ」

「そうか。それならいいんだけど・・・・今日は?何か言われた?」

「いえ・・・・。特には・・・・」

「そう。じゃ、やっぱり俺の気のせいなのかな~」


 立て続けに取った予約については、そのまま触れることもなく、次第に夜は更けて行くのであった。 

 夜、彼女を送り届けるべく、県外のとある街道を南に走っている時だった。

 暗闇に浮かぶ灯りに目を奪われた私は、

「ちょっと喉渇いちゃったな」

 と、自販機がズラリと立ち並ぶ敷地へと車を乗り入れた。オートドライブインと記された場所が珍しく見えたのか、彼女も車から降りて私の後に着いて来た。


「凄い!」

 足を踏み入れると彼女はそう言って勢揃いした機械に目を丸くした。

「誰も居ないの?」

「たぶん・・・・」

 ポツリと呟いてから私も目を走らせる。たまたまの時間帯なのか駐車場には他に車は無く、建物内にも人影は無かった。

「全部自動販売機?」

「そうさ。何が良い?」

 私の問いかけに彼女は点検でもするかのようにゆっくりと歩を進めて行く。すると、

「こんなのもあるの?」

 と、驚いたように振り返った。

「あ~、ラーメン」

 そう言って私は小腹が空いたからとその機械に硬貨を入れる。彼女はじっと音のする機械を眺めていた。やがて小さめな器がスッと現れる。

「あ、ラーメン」

 と、彼女は嬉しそうに笑った。


「食べる?」

「え!?じゃ~少しだけ」

 自販機から取り出した箸を渡すと使い古したようなテーブルに着いた。簡易的な椅子は立てつけも悪いのか、ガクガクと揺れた。髪を手で押さえるようにして彼女は麺を啜る。恐らく初めての経験なのだろう。表情だけでそれが伺えた。

 私は黙ってじっと見つめていた。



「きっと、中に誰か居るのよ」

 目にした事のない機械を不思議に思ったのか、彼女は走り出して間もなく、そう一言呟いた。

「中に?」

 思わず私は笑いを零す。呆れたような笑いにもどこか納得がいかない様子だ。

「それでじっとお客が来るのを待ってるのか?予約を待つみたいに?」

「え!?そうね・・・・」

「ひざ掛けとか使ってたりして?」

「もう、いや~ね」

 と、彼女は燥ぐように笑い出した。私も笑った。車内は楽しい笑い声で溢れた。

 それでも今週という時間は瞬く間に流れて行く。



────「島さん、いよいよ見極めですね」

「あ~、なんだかんだ時間掛かっちゃって、圭ちゃんには何かと面倒掛けたけどな」

「何言ってるんです。そうだ。明日の朝はそのまま回っちゃうんでしょ?」

「あ~、わりぃけど頼むよ」

 手帳に歴然と並ぶ青を見ながら、昨日の夕方のやり取りを思い出している。

 インクが不思議と鮮やかに映ったのは、最近では珍しい朝だったからだろう。ストーブも黙ったままの穏やかで風のない日だった。



────「はい。わかりました。でも、またなんで明日に限って二時間乗るんです?」

「あ、それか~。ほら、何て言うか。次の日卒検だろ、だからちょっと続けて乗っといた方がいいかなって思ってさ」

「あ~そういうことですか。あ、島さんどうです?終わったら飯でもパァーッと?」

「ハハ・・・・そうだな・・・・でも、どうせなら卒検の日にしないか?見極めじゃパァーッとしないだろ」

「ハハ・・・・それもそうですね」

 吐き出したタバコの煙の中に現れる瞳に私も瞳を重ねる。

 ふと、頭に入所時の光景を過らせたりもするが、今は後ろめたさも疑問も何一つ無かった。



────「でも、須藤に島さんの免許見せたかったですね」

「そうだな~。それがちょっと心残りって感じだな」

「まったく、急に辞めちゃうんですからね。驚きますよ」

「ま、それがまた若さたるいいところなんだろうけどな。あいつのことだから、そのうちトラックにでも乗って遊びに来るだろ」


 彼女の瞳に見送られ車庫の前に立った私は、目の前に広がるコースを眺めていた。

 何かを思い出すように、何かを刻み付けるように、ただコースを見つめた。

 小さな信号がほとんど行き交う車のない交差点で、今日も変わることなくその光を灯し続けている。いつかまたこんな風景が、記憶の中で霞んで行くのかと思った時、晴れやかな空に彼女の声が舞い、見ている景色と重ね合わせるようにその声を眺めると、私の目頭はなぜか熱くなって仕方がなかった。

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