第36話(完)

「お、今日は見極めかい。それじゃ~もうこれで教えるのが最後になっちゃうね」

「そうですね。お蔭様で順調に卒業出来そうですよ」

「そうかい。まぁ卒業してもここで教わったことを忘れないようにして、またここに戻って来ることがないようにしてくださいよ」

「ええ。でもいざ終わるってなると、なんだか名残惜しいですね」

「ハハ・・・・そう言ってもらえると私もなんだかうれしい気がするね」


 二時間は淡々と過ぎた。


 見極めであるベテランとの会話は、しみじみとそれでいて清々しいものであったが、描いていた感動を得るに至らなかったのは、卒業検定に備えて延々と場内を走っていたためだと思われる。しかも、修検の延長ともいえるそれが二時間も続くのだから、さすがにコースを覚える気持ちも薄れ、チャイムが待ち遠しく思えてしまうのだった。それでも判で埋め尽くされた手帳を手にすれば、何かを成し得たという達成感と安堵感が、私の神経を空気の抜けたゴム毬のように緩ませ、思考させる力も奪って行く。結果としてはそれで良かったと思った。卒検の手続きをあの貴子さん相手にしなければならなかったからである。


 その夜、彼女の希望で私たちはまた『ロッサ』の奥のテーブルを囲んだ。


「卒検のコースは覚えられました?」

 オーダーを取り終えた後、何も無いテーブルを彼女の声が飾るが、それは作られたような明るさがあった。

「まぁまぁってところかな。でも卒検も場内でやるなんて知らなかったよ」

「え!?じゃあ、どこでやると思ってたんですか?」

「どこでって・・・・確か普通車の時は路上だったから大型もそうなのかなって・・・・でもそれだと車庫入れとか縦列とか出来ないし、どうするんかなって、ずっと考えてたんだよ」

「そうだったんですか。訊いてくれればよかったのに・・・・」

「そうか。働いている人がいたんだったね・・・・」


 彼女とは様々なことを話したつもりだったのに、こんな他愛もないことを訊き損じていたのかと、改めてその過ぎた時間を頭に過らせたりした。

 会話の糸は限りなく細かったのだと思った。「おまたせしました」と言う店員の声と共にプツリと途切れてしまったからである。目の前に広がる色彩をただじっと眺めていた。

 時折目を移す彼女の姿は心なしか小さく見え、皿が下げられたテーブルも広く、無造作に置いた手が何となくもどかしく感じた。

 会話が途切れてどのくらい経った頃だろうか。

 ショルダーバッグから小さい紙袋を取り出すと、彼女はそれを両手でテーブルの上を滑らせるように差し出し、


「これ」

 と、一言。

「何!?」

 一度その光沢ある水色に目をやって彼女に目を移すと、

「・・・・気持ちですから」

 と、顔を緩ませる。

「俺に!?」

「ええ。要らないって言っても今日はだめですよ。もうお店に返せないですから」

 そんな彼女の言葉に私も表情を緩め、

「開けていい?」

 と、手にして尋ねる。


 彼女は笑みを浮かべ頷き、明かりに包まれた空間の中にコーヒーとレモンティーの湯気と紙袋の音が揺れる。袋は適度な重みがあった。

 穏やかな表情に見守られながら、同じような色合いの紙包みを取り出し、私はそれを丁寧に解いて行く。中からはワインレッドの化粧箱が現れた。

「あ・・」

 と、開けた途端思わず声を上げ彼女を見れば、「どう?」と言わんばかりの顔でこちらをじっと見つめている。手に取りしばしそれを眺め、

「も~、無理して・・・・これ、高かったろ?」

 と、優しく叱るような口調で言えば、

「でも、島さんに今まで御馳走になったのに比べたら・・・・」

 と、スプーンでレモンをもてあそびながら答える彼女。


「早速使って良いかな?」

「ええ」

 タバコを銜えて蓋を開けた途端、澄んだ響きに上品そうな炎が灯った。

「どう?」

「あ・・いつもと違うのを吸ってる気がするよ」

 そう言って笑いながら自ら持ちあわせた使い捨ての物をポケットにしまい込み、

「ありがとう・・・・大事に使わせてもらうよ」

 と、彼女からの贈り物をそっとタバコの箱の脇に添わせる。そんな光景を見る彼女の目はとても幸せそうに見えた。


 やがて私たちは高台の駐車場へ足を伸ばした。以前来たあの夜景が見える場所である。

「・・・・明日ね」

「そう・・だね」

「自信の程は?」

「ま、なんとか」

「そう・・・・」

 車内を揺らす声は微かだった。曖昧な輝きではあるものの星がいくつか瞬いていた。

「今日はどうかしら?」

「え!?」

「街の明かり」

「あ、そうだな。この間よりは早い時間だから良いかもしれないよ。行って見る?」

「ええ」

 外は車内で得た温もりを奪った。わずかに灯る照明が二人の影を作った。

「やっぱり寒いな」

 そう言って態とらしく咳払いをし、左の肘を差し出して見せると、彼女は笑ってそれにしがみつく。適度な重みが伝わった。


「今日は誰が見てもカップルね」

「ハハ・・そうだな・・・・寒くない?」

「ええ。今日はくっついてるから」

 静寂の中に囀るヒールの音が闇で隠れた表情をも伺わせた。

「あ!きれい!」

 目に広がる景色と重なり合うように彼女の声が響き、瞬間的に私の左腕は重みを増す。

 確かに前回の時よりも光りは多く鮮やかだった。しかしながら、それはこの短い交差点に見た様々な色のようにも見え、素直に喜ぶことが出来ずにいた。だからこそ遠くに見える無数の輝きより、身近である重みの方に気を奪われ、


「卒検は何時からだっけ?」

 と、調子外れのことを口走ってしまったのかもしれない。

「え!?・・あ・・八時半からです」

 思いもよらぬ質問に、彼女もカウンター腰に聞く口調で答えてしまうものの、すぐに何かを思い出したように小さく一つ笑うと、

「今度は遅れないで来てくださいね」

 と、笑顔から繰り出されたと思われる声を零した。

「そうだな・・・・え!?じゃ、あの時の電話って?」

「もう所長に繋いだりしないで切っちゃいますからね」


 これには参ったとばかり私も笑う。二人で交わす最後の笑いだった。そしていつまでもこんな笑いが続けば良いと、ちりばめられた明かりの中に吸い込まれて行く声を惜しんだ。


「・・・・もう、交差点ってないんですかね?」


 沈黙が顔を見せ始めた頃、突然彼女は俯くと寂しげな声を揺らす。かなり遠回りした言い方に彼女らしさを感じたものの、この数ヶ月間、彼女に訊かれた中で一番難しい質問であった。それを物語っていたのが僅かに開いた空白だった。


「実はね、ずっと考えていたことがあるんだけど──」

「・・・・何?」

「いや・・今回この教習所に来たのは、ただの偶然じゃないような気がして・・・・だとしたら俺を導いたのは何なんだろうって・・・・今の仕事なのかそれとも植木さんだったのか・・・・」

「・・・・・・」

「それで・・・・もしそれが岩崎さんだとしたら・・・・まぁ人の運命なんてわからないけどね」

「・・・・私じゃなかったら?」

「・・・・そうだな・・・・じゃ~いっそのこと免許取り消しにでもなって、また教習所に行くはめになるとか・・・・」


 他に体裁の良い台詞が浮かばず、苦し紛れに出たのは自ら笑えない冗談だった。


 会話が途切れ沈黙が二人を包んだ。


 時間だけが静かに刻まれて行く中、私は口元に火を灯し、時折赤く光るタバコの先をぼんやりと眺めている。そこにはなぜか楽しそうに笑う彼女の顔が浮かんでは消えた。

 やがて無数のきらめきの中に一筋の白い光が現れ、ゆっくりと進むそれを見つめながら、

「・・・・電車ね」

 と、ポツリ彼女は呟く。

 私はじっと黙ったまま、駅らしき場所に佇む煌々とした帯を眺めた。乗り降りする人も少なく、電車はまた視界の中を走り始めた。

「みんな・・・・待つ人のところへ帰って行くんですね・・・・」

 重さもない口調がより切なく聞こえてならなかった。

「・・・・・・でも・・・・楽しかったよ」

「・・・・・・」


 それ以上言葉は出なかった。私の腕に伝わる小刻みな震えを感じたからだ。

 追い続けていた光が視界から消える頃、



「取り消しになっちゃえ・・・・」



 脇から聞こえた彼女の揺れた声が、夜の闇と私の耳にいつまでも響き続けた。




                                                                 完

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交差点で見た色 ちびゴリ @tibigori

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