第17話
(ようやく外に出られる・・・・これでもう退屈な場内を走らなくてもいい・・・・)
一つ一つとコースを消化して行くにつれ、薄らいでいた検定と言う文字がくっきりと体に染み渡って行く。
────「練習じゃなくて、これが本番だと思って───」
何も堅くなることはないが、気を抜いてやれと言ってるんじゃない。温かく優しい口調の中にはこんな意味があったのではないか、長椅子に腰掛けベテランの言葉を考え込む。
心地良い余韻でもあった。
(それにしたって、五十年って・・・・)
改めて自分の人生よりも長い年期に脱帽し、
(待てよ・・・・じゃあ、二輪で来た時も居たことになるんだな・・・・)
不意に過った疑問に遠い記憶を遡らせたりもする。しかし、浮かんでいるのはつい先ほど見たばかりのシーンでしかなかった。
位置を見据えゆっくりと判を押した後、しばらくじっとそれを見つめているベテランを、刻み込むように眺めていると、ひょっとして、今まで自分の押して来た判の数でも考えているのではないか。そう固まった姿勢に想像したりもするが、だんだん真剣な横顔を見ているうち、誇らしい気持ちになる自分に気付くのだった。
嬉しくもあった。
教官らしい教官に接することが出来たのも然る事ながら、その送り出す一人に加えられたということが何とも名誉に感じて仕方がなかったのだ。かつての植木さんもそうであったように。
────「もしよろしかったら見せていただきませんか?」
だからこそ、ベテランの拘りがより感じられる物に、是非とも触れたくなったのだと思った。
「ん・・・・あ~、これか。どうぞどうぞ」
こんなもので良かったらと、気軽に差し出してくれるベテランも、私の言葉を聞いた直後はさすがに調子の狂った顔をしていて、その感じからも恐らく見せてくれと頼み込まれたことなど、未だ曾て無かったのだと思った。
割れ物でも受け取るように、手渡されたバインダーを両掌に載せ、表も裏も隅から隅まで目を走らせると、使い込まれた歳月の証しなのか、既に長方形の形も留めていないそれは薄汚れていて、さらには頻繁に持ったと思われる角は削り落ち、無造作に使い捨てられるバインダーの方が遥にまともに見える。
「そこの角んところは、使ってるうちに丸まっちゃったんだよ~。こんなボロ持ってるのは私くらいなもんだな」
横で照れ臭そうに話し出す頃には、乗車していた時の凛々しさも、先ほど見せた驚きも無く、穏やかに満ちた顔をしていた。
「凄いですね~」
思わずバインダーとベテランの両方に出た言葉だと思った。
「貴重なものを見せていただいてありがとうございました」
私は丁寧に礼を言い馴染んだ手の元へ返す。
「いや、なに・・・・じゃあ、次は見極めみたいだからしっかりな」
緩んだ顔を戻しながらベテランは言った。
(見極めかぁ~・・・・見極め・・・・いったい誰が来るんだろう・・・・)
開いた教習手帳に並ぶ青は七つ。思い起こすように辿った。そしてまだインクの香りがしそうな真新しい印に小暮という名前。
(小暮さんて言うのか・・・・でもやっぱりベテランの方がしっくり来て良いな。そうだ。どうせなら見極めはベテランがいいね。でも同じ人に続けて乗るなんてことはないんだろうな・・・・そんなケースもあるんだろうか?・・・・これはやっぱり配車係が決めることか?・・・・配車係!?・・・・と言うと・・・・彼女か?)
正面に座る彼女をぼんやり見ていると、俯いた顔がスッと起きて瞳が重なる。実にそれは数秒間にも及んだ。
(・・・・ちょっと今のは長かったな)
彼女が先に逸らすどころか、気まずくなって外したのは私の方だった。
(いつも同じところに座って、私を見てると思ってるんじゃないだろうか・・・・いっそのこと場所を変えた方がいいかな?・・・・いや・・・・まさか)
思い過ごしだと言い聞かせたところで、予約以外の会話が許されない状況では、すべてが闇の中で裏付けなどなく、自分勝手な推測がいつも有耶無耶にさ迷っている。
どこかすっきりしなかった。
てきぱきと躍動感にでも溢れていたならまだしも、機械のように彼女は楽しそうにも不満そうでもない表情を浮かべ腰掛けている。きっと人にすれば何の変哲もなく笑止されるであろうことも、私には日が経つに従って募る疑問で、その答えは彼女との会話の中にしか見出せないと思った。
それが仮にありふれていたとしても、このまま訊かずにずっと気にし続けるよりは増しではないか。そんなことを考えていたら、ぼんやり眺めていた彼女が山崎さんに見えたりするのだった。以前、須藤の会社の窓口にいた子である。
(あの子もきっとこんな気持ちだったんだろうか・・・・ほんのちょっとの話が出来ないばかりに、心に残すまでのことになってしまうなんて・・・・)
と、もどかしい心中を察する。
(いっそのこと訊いてみたら?・・・・・・)
開き直ったように考えてみた。しかし、話が筒抜けであるここでは、とても私が思う会話は無理だと諦めざるを得ない。
(・・・・だったら電話なんてどうだろうか?)
結論は同じだった。
一つ考えては諦めているうちある名案が浮かぶも、苦肉の策にも近いそれは、はっきり言って気が進まなかった。
(別に口説こうって訳じゃないんだし・・・・何とかなるだろ)
空回りする思案に開き直る形で終止符を打てば、最早、見極めのことなどすっかり忘れていて、退屈な待ち時間も短く感じた。お陰で気楽な気分で次に臨めたのだから、何が幸いするかわからないものである。
(さ、これを終えて修検の予約して仕事に行くか~)
チャイムを聞いたのは一号車の運転席だった。
何かを待つべくじっと建物の方向を眺め、傍らでシュッと香りを口に広げる。
引き続き始まった配車のアナウンスも、もやもやっとした調子で風に舞っていた。壁に反響しているのか、閉め切った窓のせいか、車内では言葉まで確認出来ない。
目は次々と出て来る教官の行方だけを追った。
(原さんだ・・・・あ、普通車か・・・・ん・・・・あれは妙に愛想のいい人だ・・・・こっちに向かって来る・・・・まぁあの人だったらいいか。あれ・・やっぱり違う・・・・誰が来るんだろ)
やがて颯爽と歩くベテランの姿が映し出され、並んだ普通車を次々と通過しながらこちらを目指している。
(お~!ベテランだよ~。こりゃいいや~!)
と、喜びもつかの間、手前の三号車でその足は止まってしまう。
(三号車かぁ~・・・・だとすれば・・・・初めての人なんだろうか?)
その直後、もう一つこちらに向かう人が視界に飛び込んだ。
(おい・・・・まさか・・・・)
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